ボランティアの時間を少し     大西 時子

 月二回地元小学校の「絵本読み聴かせ」ボランティアに参加させていただいている。
 一昨年,フリーとなりボランティアの時間も日々の中にやりくり配分できることがなんとも嬉しい。
 演劇三昧の高校三年間,意識下に眠る手折られたままの情熱が三十数年の星霜を経て再び柔らかい芽吹きの時を迎えたかのようである。自意識の克服,おそらく破れない殻から演劇という虚構の世界で脱出のリハーサルを繰り返していたのではないだろうか。それは自己改革に発展することもなく今日まで地下で眠ることになる。
 遅々たる成長の足跡。
 原寸大の「私」を受け入れる長い訓練を実社会で受けることとなる。私が私であることの尊さを知り,生きることの意味などまがりなりにも分別を持ち始めた今,反古にした思いの数々を拾い上げ楽しみ直したいと思っている。
 それこそが私自身を生きるガイドとなることを実感している。そして微力ながら活動を通じ児童たちとも生きることの素晴らしさを分ちあえたらと思っている。

首相の靖国参拝について 1    相原 雄二

 首相の靖国参拝については,以前にも少し解れて申し上げましたが,韓国だろうが,中国であろうが,他国からとやかく云われる筋のものでない。またその事が政治,経済界に影響があろうがなかろうが,断じて首相は参拝を決行する。それが日本人としての首相の立場であると,私は思います。このたび新聞記事(平成18年5月10日)を見まして,経済同友会という経済団体(企業経営者が個人の資格で参加する団体)が,首相の靖国参拝に反対する提言をまとめ,代表幹事は「中長期的にも参拝は好ましくない」と述べた小泉純一郎首相の後任首相も参拝すべきでないとの立場を強調したというのだ。靖国神社は1869年(明治2年)明治天皇の思(おぼ)し召(め)しによって戊辰(ぼしん)戦争で倒れた人々を祀るために創建されました。当初,東京しょうこんしゃ招魂社と呼ばれていたが,1879年(明治12年)に靖国神社と改称されて現在に至っています。靖国に眠るのは,大東亜戦争(戦勝国より太平洋戦争と改称される)の戦没者だけではありません。後に幕末,国内の戦乱に殉じた維新の志士を育てた吉田松陰,近代日本のいしずえ礎となった坂本龍馬,中岡慎太郎,高杉晋作,橋本左内など国事に尽くして倒れた志士たちも祀られています。加えて,獄中で倒れた志士の妻,従軍看護婦,沖縄で戦没したひめゆり部隊など5万7千余柱の女性のごさいしん御祭神,この国をつくり護った総数240万6千余柱の御祭神が眠っています。靖国は,そういう意味で日本の歴史が凝縮された日本人の魂の故郷です。歴史に対する無知と無関心の上に毎年近隣諸国の内政干渉が繰り返されるたびに出てくる言葉が「A級戦犯」,靖国問題を外交の道具立てにしようともくろ目論む近隣諸国が「戦犯」うんぬんと抗議をするのはまだしも,日本の知識人,マスコミ,政治家,そして今回経済同友会の団体までもが,亡国の徒となろうとしている。これは歴史に対する無知,戦没者に対するぼうとく冒涜以外の何ものでもありません。なぜなら日本国内では「戦犯」などひとりも存在しないからです。では当時の指導者たちに「A級戦犯」というレッテルを貼ったのは誰か。連合軍による極東軍事裁判(通称,東京裁判)です。当時はGHQ(連合国総司令部)の占領下,裁判の判決に異議を申し立てることはもちろん,批判も禁じられており,A級戦犯とされた28人のうち7人は汚名を着せられたまま絞首台の露と消え,16人が終身禁錮刑,あとの2人も禁錮20年と7年の刑に処せられました(開廷中1人は精神異常と判定されて被告から除外,2人は死亡)。

阿波国府の重要性   尾野 益大

 徳島市国府町観音寺の観音寺遺跡から,下級役人の身元を調べるために使った「勘籍(かんじゃく)木簡」が出土した。それには,地方を統治するため国家が派遣した「阿波国司」という言葉が直接書かれていた。これによって,県庁にあたる役所・国衙(こくが)を含む阿波国府の位置が確定した。
 国府跡を推定させる有力な発見は,一九九六年度以降相次いだ。観音寺遺跡北側の敷地遺跡からは,八世紀半ばの建物跡が出て国司の居館跡と分かっている。同遺跡からはさらに古い七世紀前半の国内最古の『論語木簡』も出土している。
 専門家によると,「国府が置かれる律令国家以前,阿波を治めた地元有力氏族・粟国造(あわのこくぞう)家が,中国の古典籍を学ぶため渡来系氏族出身の博士を招き,学習に使ったとみられる」という。国家は当時,国府を置くにあたり,地元実力者を取り込む必要を感じて阿波国造家を取り込んだとみられ,国府と国造家の敷地が重なっていることは想像に難くない。
 また,阿波国府の存続期間は,七世紀半ばから九世紀末までの約二百五十年間だったことが多数の木簡から判明している。
 阿波国造家は,「粟凡直(あわのおうしのあたえ)」とされている。国府に近い石井町の中王寺神社の墓碑に「阿波国造 名方郡大預忌寸部(いみきべ) 粟凡直弟臣墓」とも読める銘文があるという。「忌寸部」とは当然,忌部を指している。
 粟凡直の一族は,吉野川流域の国造(最高首長)として活動していることが分かっているから,忌部とつながるのは自然の成り行きと思うが,今後の研究を待ちたい。

雑草いけ花       高木 一洋

 5月24日,雨の多い今月の合間をぬって,ギンギラギンの夏日,日中28℃とか,午後3時前にドクターエンドーに飛び込んだ。挨拶のあと青汁のおいしいこと! いつもは青虫になった気分で,口の中に流し込むのが今日は違った。
 ところがおもいがけず奥の部屋より社長のお顔が,久しぶりのおめもじ。柔和なお顔に次にでる言葉は,「書きませんか!」とのこと。えっ!と思いつつ……,お店の平さん,橋本さん,鳴門の本多さんに展覧会のときにお世話になり,鳴門ドクターエンドーでは月1回の雑草いけばな教室までひらかせてもらったことが頭をよぎる。えーい,へたな文章,恥ずかしいなあ!と思いつつ,この年になると恥ずかしいということがだんだんとうすれていく自分にあきれつつ……,自分の思いを正直にお礼の気持ちを含め,書かせてもらうことにした。
 日頃,道端の雑草をいけばなにしているので,草採集のため朝早くに家をでる。露をいっぱい含んだ草,周りのもやの中,こんなに美しい風景を独りじめしてもいいのかなあ,と思うこともしばしば……四季の移ろいを肌で感じられる。
 草たちを身近なザルや石ころなどを花器にしていけてみると,とたん,草たちが個性を主張し始める。
 とてもおもしろい。
 毎日のニュースに悲惨な子どもたちの事件,目を覆うばかりの気持ちは皆さん同じと思う。多忙な日々の時間,道端の草など見向きもしてくれないのが現実ですが,1坪の空間に目をこらしてみるとなかなかどうして,可憐で,かわいい草花たちに,ほっ!とした癒しをもらえることうけあいです。