三味線… 特訓   藤井 久美子

 5月10日,SPC JAPAN40周年記念式典での懇親パーティで「四国からは阿波踊りを…」とのリクエストがあり,四国四県の会員が,年初より月2回の練習を重ねたすえに,無事,披露することが出来た。
 鳴り物は東京,高円寺の菊水連にお願いした。鳴り物の構成を聞くと三味線がなかったので,「三味線を弾いてもいいですか」と尋ねると「いいですよ」との返事である。踊りはイマイチ,鳴り物に三味線がなかったら,まるで大学連ではないかと,ここは頑張ることにして,早速,友人に三味線を教えてくれる人を紹介して貰い,その日から特訓が始まった。日にちは,2ヶ月を切っていたが,何とか仕上げることが出来た。
 思えば,子供の頃,夕涼みの辻々で,おばあさんが弾く,子供のおもちゃの三味線で,近所中の子供が集まり,踊ったことを懐かしく思い出しながら,貴重な体験をさせて貰った。

「写真のお作法」
  幸田 青滋


 絵画の事はよく知りませんが,写真を写す事と俳句を詠む事は似ていまして,
「古池や蛙飛び込むみずの音」
等が例にあげられます。体の5感をフルに使って「営み」から何かを感じ,受け留め,発すれば作品が生まれますね。何とも簡単です。
 心を透明にして体を空気のようにする事は夢なのかしら。

【写真.土々呂の滝】

すべての思いを家族に23    田上 豊
心を変える 利己心の浄化

 私達は自分を良く見せようとする自己中心の心が有ります。
 この利己心は汚い心です。汚れた心を少しずつ美しくするのが,浄化でしょう。
 汚れは,心も物事でも詰まらせます。悪い心,汚い物を思い切り捨てましょう。運命を詰まらせないようにしましょう。
 私達の生活の中でゴミになる物や汚い心を思いっきり捨てよう。
 どうしても捨てられない心の問題です。汚れた心は少しずつ美しい心にしましょう。
 美しい水を注いで行くように段々と浄化していけるのです。汚れた水も綺麗な水を注ぐことにより少しずつ綺麗になるでしょう。心も浄化して段々と美しくなるのです。
 綺麗な美しい水とは,相手の幸せを思う心,相手の心を癒し育てる心でしょう。
 そんな心に成れたら良いのにな?

コミュニケーションの質    林 隆

 最近,普段TVを見ない私としてはめずらしく,家に誰も居ない,ということもあって,映画をまとめて見ている。一日に一本以上見ているだろうか……邦画が中心だが,今まであまり見たことがないので,言うなれば手当たりしだいである。
 本を読むことと,こういった映画を見ることと,同時にやっていると,ふと,情報量ということを考えてしまう。
 情報量といえば,インターネットを使っている人は経験としてわかっているでしょうけれど,文字というものの情報量は,かなり少ない。
 人の音声になると多少大きくなり,それが音楽などになると周波数域の拡大とダイナミックスの拡大分だけ情報量が大きくなり,それが画像になるとまた上がる。そして,当然,動画となると,その情報量は文字の比ではない。つまり,一冊の本を読んだ場合と,一本の映画を見た場合を比較すると,読み手・視聴者の受け取る情報量は,映画の方が圧倒的に大きい,というのは殆ど常識になっているだろう。
 と,なんでこんなことを書いたか,というと,映画を見た後の自分の変化と本を読んだ後の自分の変化を考えると,意外と,この情報量の差に比例しないな,と感じるからである。比例しないどころか,場合によっては,情報量が少ないはずの本の方が,その読後に考えさせられる時間も含めて,下手な映画よりその影響がよほど大きい場合が少なくない。
 ということは,これを一種のコミュニケーションの形態の一つとして捉えた時に,情報量と,その影響,あるいは質,と言い換えたらいいのかもしれないが,それが必ずしも一致しない,ということだ。
 映像には,その鮮烈な映像,美,心に残る音楽,こういった,映画ならではの,つまり本では伝えようがない部分というのは確かにあるし,それにより,本を読むよりはるかに直截的な影響を受ける場合も当然あるだろう。
 にもかかわらず,本の方が「読み手への影響」を考えた時に大きい場合がある,ということはどういうことだろうか。情報の量と,コミュニケーションの質,というのは,関連はあるにはあるが,単純な関係ではなく,いろいろな要素が交じり合った複雑な関係にある,ということだろう。その「いろいろな要素」というものには,「時間」というものも含まれるはずだ。自分の中にとりこんで,自分の中で反芻する時間,というものも入る。
 仏教には,単に「読む」というよりも,もっと時間がかかる「写経」というものもある。これなど,楷書で丁寧に書く事が,やはり大事である,みたいな言われ方をするところを見ると,単に「写す」という以上の要素も入り込んでいそうである。
 当然,「読む」という行為以上の何者かがそこにあるのだろう。情報量が,コミュニケーションの質を左右するのだったら,現代に生きる人間は,昔の人間に比べたら圧倒的に豊かな情報量に接し,アクセスすることが可能になっているはずだが,では,人間は,昔の写経をしていた頃に比べ,あるいは写経をしていた人間に比べ,少しでも「進歩」しているのだろうか?
 ここでは「進歩」の定義が問題になってくるので,一概には言えないかもしれないが,少なくとも「人間が人間として生きていく目的に対する理解度の向上」という観点で見たときに,それをこの情報量の差で説明することはできないような気がする。
 ただ言えることは,私のような平々凡々とした人間にも,こういったことを考える機会が提供されている,という事実に関して言えば,この「現代」の「情報量」の豊富さにその理由を求めることができるのではないか,ということか。
 この「情報の洪水」を,本当の意味で上手に利用した者が,その恩恵を素直に享受できるのだろう。