毎年恒例夏のキヤンプ     芝山 靖二

 雨で1週間順延した芝山ブロック恒例の夏のキャンプに行ってきました。


 7月も22日にもなれば梅雨は空いていると思い順延しましたが,今年は24日の今でも九州南部でさえ空いていません。庭の芝生が日照不足で今までにない枯れようです。
 順延した22日も大雨の予報の中でかけました。ところが出発のPM5:00になると夏の日差しがサンサンとさしてきました。みんな心うきうきで出発しましたが,先に行った息子夫婦より電話が入り,こちらは今雨降っているとのこと,車でわずか1時間半,阿南より75キロほどの徳島と高知の県境の高知県東洋町白浜海岸です。
 ここは皆様にお勧めしたい海水浴場で,お勧めポイントを書いておきます。
1.すごく遠浅で引き潮になると前にある赤葉島に歩いていける。
2.岸のすぐそばにきれいなホテル(ホワイトビーチホテル)がある。
3.キャンプ場がある(東屋もあり,横には大変大きな津波避難所がありテントなしでもキャンプができる)。
4.近くに竹が島磯釣りポイントある。
5.サーフィンで有名な生見海岸は隣の海岸である。
 ぜひ,いつか御家族,皆でお出かけください。

阿波の誇り       相原 雄二
(三宅速博士とアインシュタイン博士)

 平成17年7月3日,阿南夢ホールで「古事記に書かれた阿波」と題して,日本地名研究所長の谷川健一氏をお招きして,文化講演会を開催しました。その閉会の挨拶で,私は21世紀最大の天才科学者アルベルト・アインシュタイン博士(1879〜1955)が伝統が息づく日本文明にじかに接し,大きな感銘を受けて,その時残した言葉(阿波風第20号,P31〜P32)を聴講者の皆様にご紹介しました。その会の帰りのバス(貸し切り送迎用)の中で,参加者の一人より「阿波とアインシュタイン博士との繋がりなどあるのでしょうか?」と質問されました。その後私の宿題となっていたこの質問の答えが,友人のストックしていた資料にサンケイ新聞,H16.10.26付「ふるさと人国記」をいただくことができました。その記事を簡短に紹介しておきます。
 この天才科学者と阿波の穴吹町舞中島(現美馬市)で生まれた外科医学の権威・三宅速(ミヤケ・ハヤリ)(1866〜1945)医学博士,儒医,三宅舞邨の長男として生まれる。東京医科大学を首席で卒業,33歳でドイツに留学し,外科医学を学ぶ。「胆石の生成原理」を解明し,日本を代表する世界的な医学者として認められた。内臓外科の権威で,胃ガンの手術の名手として知られた。と書かれている。さてこの三宅速博士とアインシュタイン博士との友情物語は,大正11年にさかのぼる。フランスのマルセイユから乗船した船に,二人が偶然にも乗り合わせた。アインシュタイン博士は東北帝国大学で開かれる講演会の講師として招かれ,三宅博士は欧米親察旅行から帰国途中だった。ある日,アインシュタイン博士が腹の痛みを訴えた。三宅博士が虫垂炎と診断し,手術は船上で行われた。虫垂炎とはいえ,手遅れになれば生命にもかかわる。船上での手術は無事終わり,博士は健康を取り戻した。それ以降,二人は深い絆で結ばれ,親交を重ね合ったそうです。
 80歳を迎えた昭和20年6月29日,当時住んでいた岡山市から鳥取県に三保夫人と疎開する直前,米軍の空襲を受け,夫人と共に世を去った。訃報は戦後になってアインシュタイン博士に伝えられ,博士は親友の死を知り,嘆き,悲しんで次の言葉を送っている。「ここに,三宅速博士と,三保夫人が眠っている。二人は,ともに,世の人々の,しあわせのために働き,そしてともに,世の人々の,あやまちの犠牲となって,この世を去った。」この言葉は,アインシュタイン博士が亡き親友,三宅博士にあてた自筆の追悼文が,そのまま拡大して刻まれ,今も美馬市穴吹町にある真言宗・光泉寺の境内の一角に,墓碑として建っている。この三宅博士が生まれた舞中島は,古事記の国生みオノコロ島にあたるとも言われ,伊邪那美命(イザナミノミコト)をお祭りした伊射奈美神社(イザナミジンジャ)があります。
 共々に,阿波の誇りとして,語り継ぎたいものです。

秋風,盆踊りの陣     月岡 功

 秋風が立ってくると盆踊りの季節である。
 今は阿波踊りが有名であるが,昭和40年代まではあちこちで輪踊りを見かけたように思う。
 今なら車が4〜5台置ける駐車場ぐらいの広場の真ん中に酒樽のようなものを置き,「おせんだっつあん」と呼ばれるリーダーがその酒樽に乗ったり片足をかけたりしながら,いい調子でお囃子を謡う。それを中心に何十人かの人が回りながら踊る。鄙びてはいるが優雅な香の踊りであった。
 その一回り外側には見物人,そのさらの外側には屋台の出店があって,幼少の頃は,踊りよりも外側の屋台に興味があったが,お囃子のリズムはなんとなく面白く屋台を見ながら楽しんだ。
 お囃子の歌詞は覚えていないが,リズムは,「○○○○○○」の六文字のくりかえしであったが,基本法則は七五調だろうだろうと推測する。六文字のことばに抑揚をつけて七五調にしていたのだと思う。
 あの歌詞は日常の他愛も無いことを面白おかしく言葉にして謡っており,例えば今日の「あるある探検隊」のようなものではなかろうか思う。
 近隣で行われる輪踊りは,村のスーパーマーケット,徳島市でやっている阿波踊りはデパートのような感じで見ていた。輪踊りは,「おせんだっつあん」もいなくなり踊り手もいなくなり,みんな阿波踊りに転向してしまった。

モネの家

〈 坐 禅 〉       大西 時子

 曹洞宗寺院「大匠寺」は隣町の小さな小学校の裏手の小高い山の上に移築された簡素だが堅牢なつくりの新しいお寺である。
 黒い作務衣の若いご住職が初心者の私達に「禅」のいろはの「い」のあたりを丁寧に説明してくださった。通された部屋から本堂まで教えられた手の作法「叉手」を守りながら普段の1/10の速度でゆっくりと廊下を渡った。踵からつま先への重心の移動,左右の足の運び,一瞬一瞬を味わい徹する事が大事だと教わった。左足から本堂に踏み入れ,合掌,各々の所定の位置に導かれた。結跏趺坐は当然半跏趺坐はおろか正座にも充分耐えれない私は胡座でなんとか姿勢を保った。
 ご住職の鉦の合図で坐禅は始まった。
 虫の音と鳥の囀り,ふもとの小学校の子供たちの歓声が遠く聞こえる。長瀬のうもれる日中,汗が額に滲み,背中をゆるりと流れていく。
 人為の手にまみれないひっそり端正な境内,背部の山の斜面に夏草が茂り,繁茂した樹々の緑が逞しく炎暑の季節を迎え立つ……。
 フト私の日常が消えた。今ここ,この場所で静かに坐る私の中に心地よい感触がよぎって行った。
 20分の経過とともに木槌が打たれ坐禅は終った。短いご住職の読経のあと往路とおなじゆっくりとした足取りで本堂から部屋へ戻った。数十分の説教の後,井上希道老子の「少林窟法話」の綴りをいただいた。予め申し合わせとおりお布施の金額を率直にお聞きした。お布施は頂きませんが「よい気」を置いて帰ってくださいとのご返答でした。よい気が集まり大きくなると沢山の人がまた集まってきてくださいますとも言われました。
 「一瞬,一瞬に徹する。全てが常ならず,縁に従って自在に動く心の働きもまたとどめると禍いになる。」帰りに手渡された数々の法話の綴り,何度読めば咀嚼できるであろうか。
 盛夏の8月は避けて,9月中旬に再び坐る予定にしている。