ハンカチをしのばせる日
              松林 幸二郎


スポーツ界というより,今年の世界の最大の行事といった感のあるワールドカップですが,我が家の最大の行事といえば,7月の次女の結婚,そして9月の長女の結婚といえるかも知れません。
 7月8日に結婚する次女は,村の小学校に入学した日“私は小学校の先生になる”と“宣言”し,その初志を貫いて,5年前から,(途中に半年大工の見習いをしたりしましたが……),小学校の先生をしています。軟弱な父親には似つかぬ意思の強さをもつ娘ですが,人を,特に弱い人を思いやる優しさには折につけ感動させられます。
 その次女は,家内が妊娠していることを知らずに治療のため放射線をうけ,医師からは障害をもって生まれる可能性が高いと言われた娘です。そのとき,私たちは,医師が暗黙にすすめた妊娠中絶か,障害をもって生まれる子どもを受け入れるかの,苦渋の二者選択に迫られた訳です。
 私たちには到底抵抗出来ない,幼い生命を抹殺する事は考えられませんでした。例え障害をもって生まれたにせよ,自分たちの子を愛し,育てていく義務を我々夫婦には与えられているのだから……というのが,後者を選んだ私たちの結論でした。
 次女は予想に反して健康に生まれ,育ち,動物をかわいがり,人にも優しい人間に育ってくれたことは感謝です。
 “花嫁の父”になる心境は淋しいでしょうねと,よく言われますが,クロイツリンゲン市の教員養成学校に入るため家をでて10年経つのですから,結婚して初めて家をでていかれる時の淋しさはありません。
 次女と教会の祭壇に向かって腕を組みながら行進するときは,ズボンのチャックが閉まっているか,ウエディングドレスの裾を踏んづけはしないか……。この二点に注意したいと思っている“花嫁の父”ですが,やはりハンカチは用意しておいた方が良いような気がします。
すべての思いを家族に24
                 田上 豊

 先月は,心の浄化交通法規も良く守るのです。汚れても平気な人は,運転も荒っぽく成ってしまうのです。交通事故に遭う確率が高いのです。を書きました。汚れた水に綺麗な水を注ぎ綺麗に浄化するのです。心の汚れと現実の汚れの関係について考えてみます。
 汚れがすべての物を詰まらせます。心が汚れるとは自分中心に物事を考え行動することが多く成り,これも心のホコリからと言えます。
 他人が出した,いらない物ゴミは特に注意したい物です。家でも車でも,この汚れが物事を詰まらせるのです。考えたいものです。善い運から見放されるのです。
 車の中でも美しく整理整頓している人は,車の駐車場でも出来るだけ美しい所に駐車したいものです。綺麗な心に成りたいものです。
 植物や花は明るい方に向かって伸びていきます。明るく美しい方に進んで行くのです。これ大自然の法則でも有ります。
 私達は自然の法則に従う外無いのです。

屈原をたずねて(10-A) 山田 善仁

○周の幽王(ゆうおう)は誰を誅罰しようとして,かの褒(ほうじ)を得たのか。問周にある。
 周の幽王が褒を寵愛して国を乱し,犬戎(けんじゅう)のために滅ぼされた故事。
 昔,夏の衰えた頃,二匹の神竜が夏の宮庭に現れて,余は褒国(ほうこく)の二君だといった。(褒は夏王朝の一族が分封された国)
 夏王は卜師(うらないし)にその処置を卜わせた。とどめておくべきか,凶。殺すべきか,凶。立ち去らせるべきか,凶。何を卜っても凶と出る。そこで竜の精気と言われる唾液を竜に請うて収蔵すべきか,と伺いを立てると,吉と出た。その事を記した勅書を竜に示し,幣米(へいまい)を供えて祈ると,竜は精気を吐いて立ち去った。そして精気は(とく)(箱)に入れられ密封しておいた。
 やがて夏王朝は亡び殷王朝の629年間も禁断の箱は開けなかった。「開かずの」である。
 殷が亡んで周となり,周の武王(紀元前1050年)から十代目の王(れいおう)の世の末(前840年頃)になって,うっかり開けてしまった。
 1000年密封された唾液は宮庭に流れ出,不思議な事に拭いても,こすっても,剥がそうとしても,こびりついて離れない。王は,「宮女を裸にして,大声をあげさせろ」と命じた。妖魔を退散させるには,裸を見せれば良いと考えられていた。
 裸女が大声をあげて騒ぎだすと,竜の唾液は一匹の黒蜥蜴(くろとかげ)に化して王の後宮に逃げ込んだ。
 その時,後宮の7つの童女がこれに遇って,15の時孕み40年経って宣王の時に女を生んだ。
 夫も無いのに子を生んだのを懼(おそ)れてこれを棄てた。
 一方これより先,童謡(はやりうた)あり,山桑の弓と箕(き)という樹の箙(えびら)とが周を亡ぼすだろうと。
 折から連れ立って,この器を売り歩く夫婦者がいたので,怪しと見て捕えて,これを市に引いてさらし者にしておいた。
 この夫婦がある夜逃亡している時,道端でかの後宮の童女の棄てた女の子が啼いているのを聞き,哀れんで救い取り,遂に褒国へ出奔し,女の子は美女に育ち,褒と名づけられた。

神は心のよりどころに付いて(3)
        天香具山神社宮司 橘 豊咲

 日本人にとっての神とは
 神社と呼ばれる社のうち,私等に最も身近なものは氏神,鎮守,産土の三者であります。
 氏神は元来古来社会で,各氏族が祭った一族の神で,たとえば藤原氏の春日神社,橘氏の梅宮,秦氏の稲荷神社などに,その例が見られます。氏神という名称は,氏族制度の崩壊後も血縁的な一門一族の守護神を意味していましたが,今日私達がいう氏族は必ずしも一様ではなくなった。氏神本来の観念の他に,鎮守や産土の観念が入り込みやすくなり,三者の混合が生じている現在では,およそ,三つに分類されると言う説があります。
 その第一は,村氏神であり,村のような地域社会の守り神であり,一村全員が氏子となることを意味するものです。第二の屋敷神は,個々伝来の家の守り神であり,第三の一門氏神は上代の氏神に近く,本家を中心に一族の者だけでの祭りが営まれるようになったと言えます。
 また鎮守の杜と言えば,私達に最も馴染みやすい心に浮かんだ姿をほうふつとさせるもので,鎮守とは,本来特定の土地や建物を守護する役割をもっており,元来,中国の思想に由来するもので,伽藍神の事を言ったものと思われる。今でも人がある土地に居住したり,建物を建てたりするとき,その土地に以前から祭られている神を鎮守として祭る地鎮祭の風習があるが,鎮守の神は一定の区域を鎮める神だけでなく,その土地に住む人々の守り神とも考えられて,氏神や産土神とほとんど同義語として使われるようになった。神は祖先神化したものが多く,家や同族毎に祭られる神を通じて,家族や一族の意識を一つに集結させる機能をもっていて,神に対する祭儀を行うごとに,家族の仲間意識はより深く結びつくことになって,日本人の多くは神も仏も要するに,自分の属する社会集団にとっての神であり,身内や仲間と共に心のよりどころになっている所以である。

                   【完】