屈原をたずねて(13)   山田 善仁

 屈原23歳の頃(前317年)九歌(九つのまつりの歌)を作る。
 時代は孟子が諸国を遊説,魏を去り,斉の宣王に仕え,秦では張儀を各国に派遣しては,策謀をめぐらし,領土を広げる事に虎視眈々としていた戦国時代であった。
 屈原は,王の侍従,秘書役に当たる左徒と,王族である昭氏,屈氏,景氏の三姓を統率する三閭大夫(さんりょたいふ)の要職の任に仕えていた頃である。
 20歳過ぎの屈原が,いかに才学,英才であったかが読み取れる。屈原は,楚朝において順風満帆の政治活動を開始する一方,その豊かな詞才は宮廷詩人として発揮され,宮廷でも民間でも盛んに行われていた,巫覡(ふげき)による祭神の歌舞を基に,修飾,洗練し,優美華麗な祭祀舞楽の歌謡が作られた。
 11篇から成る1組の祭祀楽歌の「九歌」がそれである。首尾に迎神,送神の2篇を置き,中間に9篇の神霊を祭る歌を配したもので,最初に東皇太一(とうこうたいち)神を迎える。
 天上の日神と雲神を最高神(太一)として楚都の東郊に太一神の祠が設けられていたので,代表して「東皇太一」と呼ぶが,全体の神を迎える。迎神歌に続く祭神歌の第一は「東君(とうくん)」で日神を祭り,第二は「雲中君(うんちゅうくん)」で雲神を祭る。第三は「湘君(しょうくん)」第四は「湘夫人(しょうふじん)」で湘水(北の洞庭湖へ流れる川)の二神を祭り,第五は「大司命(だいしめい)」第六は「小司命(しょうしめい)」で,司命は人の生死寿命を司る星神をいい,それを祭る。第七は「河伯(かはく)」第八は「山鬼(さんき)」で,黄河と巫山の神鬼を祭る。ここまでは対になった二神の祭神歌は,第九の「国殤(こくしょう)」に至って性格を異にし,国家のため戦没した人々の霊(みたま)を祭る歌となる。末尾に全体の送神歌である「礼魂(れいこん)」でしめくくられている。

タライの餅    新居 弘悠

 最近餅つきがあり,お餅をいただきました。
 私が子供の頃は,餅といえば正月しか食べられず,他の時期はタイルのような餅しかありませんでした。
 ところが,最近ではいつでもお餅を食べられるようになりましたね。お正月に私の父の姉のところへいって朝昼晩と砂糖醤油をお餅につけて食べていましたのが懐かしいです(笑)
 餅といえば高野山を思い出します。高野山では毎年お正月前に餅つきを行なうのですが,私のいたお寺ではかまどを使ってもち米を蒸していました。本堂などにお供えするお鏡を作るのですが,それ以外に大きな木のタライに5つ!ぐらい小餅を作ります。
 住職の家族,僧侶,宿坊担当,学生など15人ぐらいいたのですが,とても食べ切れません。
 かつては総勢60人ぐらいいたことがあり,その頃は鏡開きの前に本堂のお餅も下ろしてきて食べていたそうですが・・・
 私は餅が好きなので毎日焼いて食べますが,しばらくすると,表面が固くなってきて焼いただけでは食べられません。そこで餅を味噌汁の中に入れて食べます。1月末に膨大な木のタライの餅をようやく完食!
 と思いきや・・・プラスチック製の大きな桶をひっくり返すと氷に包まれた鏡餅が! 乾燥を防ぐために水につけてあったようです。
 再び餅を食べる日々。
 2月末まで食べました!(笑)

良い習慣と悪い習慣  芝山 靖二

 「人は弱いから」良い習慣を身につけて,毎日の生活での意思の弱さをカバーして行かねばならないと教えられたことがある。
 私はタバコを吸うが,朝事務所に来てどんなに忙しくてもまずタバコに火を付けなければ何も始まらない。
 ところが日曜日は毎週健康体操の会にいっているが,その日の朝は気がつけばタバコを吸っていない。体操の会に行く日は健康志向になって,タバコを吸わない習慣ができているようである。
 タバコを吸う人には,一日二箱以上吸うヘビースモーカーでも寝床に入ると一切吸わない人,それほど吸わないのに寝タバコをする人,全て習慣のような気がする。
 私は二年前にダイエットを始め15?の減量に成功し,今現在もその体重を維持できている。成功した理由は色々あるが,一番大きいのは夕食後なにも食べない事であると思う。
 私の夕食は6時前後ととても早く10時に寝ても4時間あります。始めは食べる癖がついていましたので大変な我慢がいりました。食べない習慣にすればなんでもなくなると信じ必死で頑張りました。おかげで今は寝るのが11時12時なってもあまり食べたいとは思いません。
 毎夜ネオンが輝きだすと飲みに行きたくなる人,仕事が終わるとパチンコに行く人,夜遅く寝て朝遅く起きる人,すべて習慣である。
 私にもまだまだ悪い習慣が身に付いています。皆さん悪い習慣を断ち切って,良い習慣を身に付けてください。

忌部の話 一 「碑」   尾野 益大

 日本で最も古い墓碑が徳島にある。
 2004年から2005年にかけてドイツで開かれた文化財展「曙光の時代−日本考古学の連続と変革」に,日本を代表する宝物の一つとして出品された。いまだに国の重要文化財に指定されていないのが不思議に思われる。

〔写真. 阿波国造墓碑〕

 その墓碑とは,古代阿波の中心「国府」を見下ろす気延山の麓の中王子神社に伝わる「阿波国造墓碑」だ。国造とは国を治めた豪族。墓に官位,姓名を記した碑を立てることを決めた喪葬令に則って,奈良時代前半の養老7(723)年に作られた。喪葬令によって,古墳を築造する時代は終わった。
 阿波国造墓碑の表面に書かれた銘文は三行。
 真ん中は「名方郡大領忌寸部」と読める。もしくは「名方郡大領正七位下」と読む説もある。右側には「阿波国造」,左は「粟凡直弟臣墓」とある。大化以前からの官名である阿波の国造の名は粟凡直で,阿波国造は忌部と考えるべきだろう。
 名方郡は奈良から平安時代の郡名で,現在の名西,名東郡は名方郡の東西を指す。阿波国造家は,律令国家成立以前に中国の古典を学ぶため渡来系の博士を招く強大な力もあった。国内最古(7世紀前半)の「論語木簡」が近くから出土したことから推測できる。
 国府を見下ろす気延山には,200基以上の古墳が点在している。徳島一の古墳群だ。そこには阿波国造,つまり多くの忌部一族が眠っていると考えることができる。