忌部の話 八 「連帯組織 その二」    尾野 益大

 「三木家文書」の中に忌部一族の結束を固めるために作られた契約状,つまり「忌部の契約」と呼ばれる文書がある。1332(正慶元)年11月と1333(元弘3)年11月付けの二通だ。
 二通とも内容はほぼ同じ。正慶の契約状は,光厳天皇(1332=元弘2年3月に即位)の大嘗会に麁服を貢進した御衣御殿人(みぞみあらかんど)として奉仕した13人が,盗・強盗・山賊・海賊・夜打ちなどの犯罪行為を別とするすべてにおいて,互いに助け合い協力しようと結束を固めている。
 「御衣人(みぞびと)」は麁服を調達する忌部,「御殿人(みあらかんど)」は麁服とともに京都へ上る忌部を指している。
 注目されるのは,忌部神社がある「山崎(吉野川市山川町)の市」で年二回,寄り合いを開き,問題を多数決で決めるという取り決め内容である。忌部神社が山崎であるという主な根拠がこの記述からきている。
 忌部の諸氏は,地縁関係で結びつきがあったと推定されるが,鎌倉末期,南北朝時代の混乱による社会不安が背景にあり,自己の立場を守るため結成されたと考えられている。これを一揆的結合の「忌部一揆」というが,後世の農民の暴動とは異なり,当時は武士の間で結ばれた同盟のことを指す。忌部一揆のほか,党的結合を伝える同様の史料は阿波には残されていないという。
 契約の署名者の中で,子孫や出身地が分かっているのは三木家(三木氏村,長者長村)や吉野川市美郷の後藤田家(今鞍進士)がある。
 また,美馬市穴吹の穴吹川流域あるいはつるぎ町一宇の赤松地域を支配した赤松氏(赤松藤三郎太夫,赤松右満允)のほか,治野法橋,田方兵衛入道は知野(治野),田方地域がある美馬市穴吹町口山地域を支配していた人物ではないかとみられる。このほか,神山町にも署名者がいたとみられる。

阿南での阿波踊り   鎌田 尚之

 阿南の夏まつりへ天渦女連の阿波踊りが参加しました。総勢50名(主催者発表)お囃子もプロの参加を得て少しの音合わせで本番モードへ突入。
 凄い,踊りが着いていけない。
 踊りは,駅前の商店街と阿南市民会館前の演舞場に躍り込みました。
 普通の阿波踊りと違うコスチュームに観衆は総立ち,カメラのフラッシュの多さにびっくりです。(主催者発表)
 天渦女を中心に踊り子が取り囲んでの乱舞には,周りから拍手の嵐でした。(主催者発表)
 とにもかくにも楽しく踊れたのが一番です。この連は,どなたでも参加出来ます。踊る阿呆になりたい方,天渦女連の提灯を捜して集まって下さい。
 一緒に踊りましょう。
 なお,次回は,11日鳴門,12日徳島でおどります。
 カメラは持っていたのですが,踊りの様子は,踊っていたので肝心ところは撮れていませんが,雰囲気だけ見て下さい。


 スカートが赤のコスチュームが天渦女で,上下赤のコスチュームが天照大神です。

親子工作があったこと     笠原 彩加

 7月28日土曜日に,親子工作がありました。私は,お父さんと作りました。弟は,お母さんと作りました。
 1時30分から,3時30分までありました。だいはとびだす絵本です。
 私はうさぎとカメを,お父さんはうさぎをかいて,私は一回目にお父さんが,かいたカメを見てかきました。
 そうして,私ははさみできるのも,しました。4回から5回ぐらいまちがえたけど,とても楽しかったです。
 また,家で,やりたいです。またらい年もあるなら行きたいです。

 思い出          本多 幸代

 雲一つない青い空。家の周辺の木々からせみの鳴き声が忙しいです。今年も私の大好きな暑い夏が訪れました。
 日本の四季はどの季節もすばらしいけど,私はこの暑い夏が一番大好きです。
 今日のように学校にプールなどありませんでしたが,家から歩いてもすぐという所に海がありました。
 夏休みは毎日と言っていいくらい友達と誘い合って海に行ったものです。
 青い海,青い空,時の経つのを忘れて泳ぎました。今思えば良く飽きもせずにと思います。
 真っ黒に日焼けした孫を見ると,あの頃の友はどうしているのでしょうねぇ。
 もうあの頃には戻れないけど,夏が来るたびに遠い昔を思い出します。