芝山君へ       松林 幸二郎

 今日は,週末勤務の代休で休日ですが,朝から生憎の雨で,天気がよければ山登りに行っていたのでしょうが,それも出来ないのでモニターの前に向かって,職場に必要なリストなどを作っております。私が作ったニュースレターやビデオをご覧のかたは,私をコンピューターの達人のように思っておられるようですが,Excelなどの事務用プログラムになると全く駄目で四苦八苦しております。
 日本は雨不足とのことですが,ことしの稲の成長はいかがでしょうか。もともと熱帯植物であった稲が品種改良されて,北陸でも北海道においても出来るようになったことは奇跡のようなことですが,天候異変には弱いのではと想像します。
 還暦同窓会の様子をお知らせをくださってありがとうございました。お陰で,雰囲気は十分伝わってきました。
 貴君が,次回の同窓会は松林の幹事でスイスでやろうと提案したところ,
“行くのはお前ぐらいだよ”
と一蹴されたとのことですが,4組位夫婦がこれば,観光客のあまり行かないスイスを還暦旅行でミニバスで廻ることができますよ。
 ご検討ください。喜んでお世話させていただきます。
 それでは,家族のみなさんにも宜しくお伝えください。
 貴君の友情に感謝して・・・

屈原をたずねて(21)   山田 善仁

 楚の王族である屈原は,優れた才能と恵まれた環境の中,若くして楚国の政界にデビューし,懐王の侍従,秘書役及び三閭大夫(さんりょたいふ)であり順風満帆であった。
 夷狄虎狼(いてきころう)の国,秦の策謀とりわけ宰相張儀の画策は,屈原を失脚に追い込む為,大国楚国の中枢に賄賂を贈り,又,楚王(懐王(かいおう))には美人を贈り,張儀の意図する所に楚は嵌(はま)ってゆく。
 屈原の外交政策(六国合従し,秦を敵視)も楚の朝廷には通ぜず,度々の建言も懐王に疎(うと)んじられ,ついには政界から追放の身となる。
 楚都,郢(えい)から約150km長江を遡った湖北省帰(しき)県丹陽の地(楚王の先祖熊繹(ゆうえき)が初めて楚に封ぜられて都した所)である采邑(さいゆう)田宅に帰耕し,懐王24年(前305年,屈原35歳)の頃まで約8年間,憂愁(ゆうしゅう)の退隠生活を送った。
 懐王24年,秦の昭王は楚から婦を迎え,和親の盟約をする。屈原は退隠の身でありながらも,秦に親しむ事の危険と斉国への度重なる不信行為の非を懐王に進言するも,懐王には国政を正すだけの叡智(えいち)は無く,いよいよ厭(いと)われ,次は漢北の地へ配流の身となった。
 この無限の憂愁の中から,詩人屈原を鳴らしめた長篇詩「離騒(りそう)」が生まれ出る。
 「離騒」は,讒言(ざんげん)を被って己の潔白が認められず,失脚不遇の境涯に陥った主人公が,その憂怨(ゆうおん)の情を吐露したもので,その前半約三分の一は,讒害を受けて退隠するに至る経過を述べ,後の三分の二は,不遇における心の懊悩(おうのう),すなわち祖国君主を捨て去るべきか否かという問題を,天地四方を遊行して美女を求めるという虚構の叙事に託して展開する。
 これは楚国の民俗であるシャーマニズムが,時間と空間を超えて自由に霊界を遊行し得る形式を借りたものである。最後には懐郷の情に堪えず遊行を中止する事を述べ,前賢(殷の賢大夫。彭咸(ほうかん))の行跡に従うという決意を示してこの詩は結ぶ。

忌部の話 九 「信仰 その一」
               尾野 益大

 戦国武将,織田信長が忌部の末裔という話がある。
 福井県丹生郡織田町織田にある越前国二の宮「劔神社」の神官を忌部が代々務め,信長の先祖も劔神社神官をしていたという伝承に基づく。ただ,信長の先祖が神官だったという指摘は断定はできない。
 まず,丹生郡織田村付近は古来「伊部郡」と呼ばれており,伊部と忌部は同じ,と解釈したい。国宝「東大寺文書」の一部「東南院文書」(766年)では「伊部郷」,「日本三代実録」(873年)では「伊部造豊持」,権大納言藤原行成の日記「権記」(998年)では「越前国正一位勲一等劔大神宮神主 伊部守忠」と明記。「妙法院文書」(1218年)からは鎌倉時代前期,越前国で伊部氏一族が役人として活躍していたことが分かる。越前国の国府(現在の武生町)から遠くない伊部郷にいた忌部氏は,越前国で重要視されていたことは確実だ。
 これらから,忌部氏が劔神社に関わることは自然の成り行きで,劔神社の神官だったことはうなずける。江戸期の写しだが,嘉暦3(1328)年の劔神社文書にも「神主忌部正統」の記述もあり,神主忌部は連綿と続いていた。現在の宮司も「代々忌部でした」と主張している。
 さて,信長の先祖は劔神社の神官をしていたのか。
 信長は確かに劔神社を氏神として崇敬していたことが文書からは分かる。ただし,信長が元服間もない10歳代で初めて出した文書では,自らを「藤原信長」と署名している。明徳4(1393)年の劔神社の再興に力を尽くすことを誓った「置文」の文書でも,信長の先祖と推定される人物が,やはり藤原信昌,将広と記していて忌部とは断定できない。
 史料はないが,そのころ一族は尾張に移住し「織田」姓を名乗り始めたとされる。信長は尾張守護代のときにも藤原と署名している。一連の史料から,信長は藤原氏,との説は根強い。一方,信長の直系の先祖のうち,確実な史料で辿れるのは曽祖父までで,忌部とも断定できないが藤原ともいえないのが実状だ。
 ではなぜ,信長は藤原を名乗ったのか。
 信長は,中臣(藤原)が繁栄し忌部が衰えていったことで,政治的に力を弱くしていった忌部の名を捨ててしまったのではないかと考えられる。そのため,信長または織田一族が政治とは無縁だった時代の伝承をこそ重視する必要があるのではないか。信長の先祖が,劔神社がある織田で発祥し,しかも神官をしていたとの伝承があることを考えれば,信長の先祖は忌部でなければつじつまが合わない。本当に藤原ならそうした伝承は生まれないはずであろう。さらに信長ら織田一族が,忌部を排除した藤原を名乗ってでさえ,忌部を神官とする劔神社を崇敬した事実が,信長が忌部であることを証明している。

外国人(ドイツ人)から見た 徳島の印象(2)
       バルネケ マンフレッド

 前回に続いて外国人(ドイツ人)から見た日本の印象を,来日してすぐの平成元年と平成19年とで比較して表にしてみます。

B.街の外観について

〈平成元年〉 〈平成19年〉
徳島市内を流れる川は,コンクリートで護岸工事がされ,水質が悪かった。 川の岸が美化されて水際公園ができ,水質がよくなった。

町並みに統一感が無く,日本らしい家が少なく,世界中どこにでもあるようなコンクリートのビルが多い。


現在も変わらない。古い家がすぐに壊されて,和風の住宅が新しく建てられることが少なく,洋風の家が多い。市の文化財に指定されるような建物が少ない。
大きな車道が住宅街を通っている。

変わらない。さらに大きな高速道路が建設されようとしている。
コンクリートブロックの美しくない壁が家の回りや,家の境界に多くある。

市の生垣キャンペーンの効果があるようで,生垣をめぐらせた家が多くなったように思う。
家を壊した後,コンクリート張りにして,駐車場になることが多い。


変化なし。地面がコンクリート張りが多くなれば,大雨の時など排水が追いつかなくなって,洪水になるのでは?

次回に続く