ぎっこんばったん   島川 文代

 先日,姉と岩盤浴に行ってきました。
 時々,肩がこったり,ストレスがたまったり,ちょっと体重が増えたんじゃない?って時には必ず岩盤浴に行くんです。
 行きつけのお店は女性専用です。受付で着替えとタオルを受け取り,ロッカールームへ。
 コップ1杯の水を飲んで,浴室にはいります。暖められた石床の上にバスタオルを敷き,砂時計をセットして寝転びます。10分したら,5分休憩。これを3回繰り返すと,不思議なことにさらさらの汗がでてきます。こまめに水分補給を繰り返していると,体をリセットしたみたいに,とても爽快な気分になるんです。
 私と姉は3つ違い。買い物をするのも,映画を見るのも,おもしろい事をする時はいつも一緒です。他人からよく「仲良しだね。」と言われますが・・・いえいえ,もちろん喧嘩をすることもあります。特に子供の頃は些細なことでよく喧嘩をしていました。だけど,いつの間にか仲直りしてるから姉妹って不思議ですよね。
 今日はこんな絵を描いてみました。幼い頃,よくやっていた遊びです。
 背中合わせになり,持ち上げたり,持ち上げられたり・・・。
 私はこれを「ぎっこんばったん」と呼んでいましたが,本当の名前はなんて言うんでしょう?
 時は流れ,私達姉妹も結構いい年齢になってきました。(笑)
 楽しい事があった日。
 大変な事にぶつかってしまった日。
 なんにもなかった日。
 どんな日だって。
 私達姉妹は,心の中で「ぎっこんばったん」しながら,お互いを支えたり,支えられたりしながら楽しく,愉快に日々を過ごしています。
 さてさて,
 「お姉ちゃん,次は何してあそぼうか〜?」

忌部の話 十一 「信仰 その三」
               尾野 益大

 忌部神社は,阿波忌部の祖神・天日鷲命を主祭神とし,平安時代の法令書「延喜式」に載っている。阿波に三社あった大社の一つとして重視され,阿波忌部にとっても極めて重要な神社だったが,元の所在地は不明になった。中世に長宗我部氏に焼かれたとか,近世に蜂須賀氏が隠蔽したとか,地震によって崩落したとか,諸説ある。
 現在,吉野川市山川町に忌部神社があり,つるぎ町貞光の五所神社も忌部神社とされる。徳島市二軒屋町にも明治期に建てられた忌部神社がある。いくつもできた背景は複雑で「忌部神社論争」と呼ばれる社地をめぐる論争があった。
 それは,忌部神社の所在地が不明のまま,1815(明治4)年,全国の神社の格式を決める際,「国幣中社」とされたことに原因がある。国幣社とは皇室崇敬の神社などの官幣社に次ぐ社格で,主に国土経営に功績のあった神を祭るという。
 そこで忌部神社の所在地の特定が急がれた。阿波出身の国学者・小杉榲邨(1834−1910年)は,「山崎の市」との記述がある三木家文書や忌部山の存在などを証拠として1874(明治7)年,吉野川市山川町の忌部神社と決定,鎮祭した。
 一方,異論が出た。つるぎ町貞光の五所神社がある在所が元は麻植郡と記した地誌「阿陽記」が根拠に挙がったため,山川町説は覆り,1881(明治14)年,五所神社に決まった。
 しかし,その後も論争は絶えず,政府は1887(明治20)年,徳島市二軒屋町の勢見山に選定。そこに移すための遷座祭をして国幣中社忌部神社が建設されたのだった。政治的な決着で終止符を打った。なお,つるぎ町の五所神社は,本社と末社の間に位置する「摂社」となった。ただ,つるぎ町貞光が元は麻植郡とする説は疑わしい。
 正真正銘の忌部神社はどこにあったのか。
 やはり,現代の麻植郡でなければならないだろう。山川町の忌部神社よりもっと上に存在したとする説や,1098(承徳2)年の大洪水で吉野川南岸から切り離された善入寺島(粟島)にあったという説もある。粟島は忌部が粟を植えた伝承が残り,死体を墓に埋葬をしない風習が続いた神聖な島だと信じられていたという。そのほか,種穂山山頂の種穂神社説,吉野川市鴨島町西麻植の麻植市周辺説などがある。

リッタさん,天に召される
              松林 幸二郎

 「私がもっと生きたいと願っているのは,私のためでなく,私の愛するAのためなの・・・」。乳癌を17年前に発病し,癌細胞がいまや全身に転移し,医者から2ヶ月の余命と宣言されたリッタさんは,私の勤務するグロスファミリーに住む重い脳性マヒの女性Aさんを,月一度の帰省日にリッタさんのアパートに届けたとき私に告げた。母親を5年半前に,父親を3年半前に亡くし,3才上のリッタさんが母親かわりになって障害をもつAさんを文字通り親身になって面倒をみていました。Aさんは,いまでも「パパも,ママも死んじゃった・・・」毎日のように悲しさを訴え,涙ぐみます。
 知恵遅れの人にとっては,20年前のできごとであっても,つい最近起きたことのように記憶が鮮明に残っていることがよくあります。つまり,時が解決するということはあり得ないことが多いのです。私たちは,もしAさんに残された唯一の肉親のリッタさんが亡くなったら,彼女は気が狂わんばかりに悲しみ,部屋に閉じこもったまま泣きじゃくる日々を予想しました。
 リッタさんは60才の誕生日を迎えて2ヶ月後,医者の宣告より一ヶ月長く生きて8月30日無意識のなかで召されていきました。亡くなる数日前,Aさんはリッタさんを見舞いましたが,すでにいくつもの管に繋がれ,Aさんの呼びかけにも反応を示さない危篤状態の姉の姿をみて彼女なりに悟ったのかもしれません。リッタさん死去の報がもたらされたとき,爆発するような泣き叫びこそあったものの,(今でも一日に何度も思い出したように泣き出しますが・・・)危惧したようなことは幸いにおきず,私の冗談にもよく笑い,日常の生活を崩すことなかったのは何という幸いだった事でしょう。
 障害を持った人には,神様が想像を超えた悲しみに耐える特別な能力というか賜物を与えてくれているように思えてなりません。今までのように明るく笑えるようなAさんの姿を見て安堵すると同時に,私たちが彼女に肉親に勝るとも劣らない愛を与え続けねばならぬと思わされたものでした。

 写真,Aさんが三年かけた刺繍の作品 “ガイス村広場”

コスモスをかんさつした事
               笠原 彩加

 私は,十月十五日に家の前にあるコスモス祭りに三年一組と二組で,行きました。
 九時三十分すぎに学校を出ました。ついてから,あいさつをしたり,話を聞いたりしました。
 話とかが終わったら,コスモスのかんさつをしました。私は,友だちの木村紀香ちゃんとコスモスのかんさつをしました。かんさつが終わった後にえだ豆をとりました。えだ豆とりをしたのははじめてだったので,とるのがうれしかったです。20こぐらいとりました。えだ豆とりが終わった後コスモスをもらいました。帰る時に,ヤクルトをくれました。あいさつをして学校に帰りました。
 学校についた時間は,3時間目が終わって,もう十一時三十分すぎになっていました。なので,四時間目に算数と国語を同時にしました。
 コスモス祭りは,とても楽しかったです。また,コスモス祭りにさんかしたいです。えだ豆は,まだ食べていません。今,かんそうさせています。早くえだ豆を家族みんなで食べたいです。私がとったえだ豆なので,おいしいと思います。