忌部の話 十三 「伊勢神宮」 その一
               尾野 益大

 忌部と伊勢神宮も大きな関係がある。それを第四十代・天武天皇(?−686年)とのかかわりから探っていきたい。
 伊勢神宮は,イザナギの命の娘・天照大神を祀る「皇大神宮(内宮)」と,第二十一代・雄略天皇の時代に豊受大神宮を祀った「外宮」の総称。ご神体は三種の神器の一つ「八咫(やた)の鏡」。本殿はあるが拝殿はなく,庭上祭祀が本来の姿のようだ。明治以降,国家神道の中心として国が維持したが1946年,宗教法人となった。
 天武天皇は,その伊勢神宮の祭祀を重視。伊勢神宮を中心とした日本の国づくりを考えた。本格的な律令国家をつくるため,皇族だけによる皇親政治と官僚組織を整えていき,政治的宗教的な権威を高めようした。20年に1度行う遷宮制度を作ったのも天武天皇。神道や仏教を尊重しながらも道教思想を基礎としたが,それは既に滅亡した百済から来た亡命学者に学んだためだ。鏡をご神体とした思想も中国の影響という。
 内宮に祀る天照大神は天武・持統朝のころ,天皇の先祖・皇祖神として明確化していた。天照大神は古来,伊勢の漁民だった海部(磯部,伊勢部,石部)が奉じた太陽神と見られる。大和朝廷は伊勢神宮に対し,神事に携わる斎王(斎宮=未婚の皇女)を送ったり,中央系の官人を派遣したりし,中臣や忌部など朝廷祭祀氏族に奉仕させていた。天武天皇は,第33代・推古天皇の前の代から7代にわたって途絶えていたその斎王の復活も決めた。
 天武天皇はさらに,それ以前から続いていたと考えられる「大嘗祭」を制度として定めた。
 天武天皇の皇后である第四十一代・持統天皇(645−702年)の大嘗祭では,中臣氏が寿ぎ祝う言葉「天津神の寿詞(よごと)」を奏上する役割を担い,忌部氏は阿波忌部が麻の織物「麁服(あらたえ)」を貢進した。「阿波忌部が奉る」と指定されたからで,阿波忌部の重要性を示唆している。
 一方,絹織物の「?服(にぎたえ)」は三河の国から,とあるだけで「だれが携わる」かは特定していない。大嘗祭の前年に行われた即位式では,忌部宿禰色夫知(しこふち)が神璽の剣鏡を捧げたにもかかわらず,大嘗祭では阿波忌部を登場させた。なぜなのか。
 伊勢神宮と大嘗祭と阿波忌部は,天武天皇を通じて結ばれていたことが分かる。

しろくま次男もやってきた
              鶴岡 とみ子

 テーブルを少し移動してもらったら…巡回入浴の浴槽が入ると狭くてほとんどみんなが移動できなくなってしまいました。
 お風呂のスタッフさんたちは「スパイダーマン」を演じなくてはならず。わたしはおもいきりベッドの端に寄せられ小さな小さな隙間に着地?しないとお湯に辿り着かないのです。
 そういうわけで20cm程奥行きの狭い棚を買わないとならなくなりました。ついでにしろくま抱き枕パパの次男もお願いしたら,サンタさんの帽子を携えてやってきました。
 ペインクリニックの痛み止め注射が10カ所でも効かなくなってきたので,通院の治療中に横向きになるとき痛い膝に挟むクッションとして,この子を袋に入れて少しでも楽しく治療ができるように持っていくことにしました。いろんな身体の痛みの場所があるとクッションがたくさん必要です。
 これ以上はくまは増えないでしょうけど,やっぱりクマが好き!

屈原をたずねて(25)   山田 善仁

 楚の懐王の20年(前309),屈原が詩「離騒」を執筆中の頃,楚国の君臣を散々に翻弄(ほんろう)してきた秦相張儀も,故国の魏に移って宰相を務めるうちに病没し,覇業達成の野望に燃える斉の宣王の呼び掛けに応じて,韓,魏と共に楚王も合従に加わって,秦を離れ斉に和した。
 かねて親斉合従の策を唱え続けてきた退隠中の屈原も,こうしてやや意を安んずるに足る時が訪れたが,それも長くは続かず,またもや政局の転変を見るに至った。
 秦の恵文王の後を継いだ武王の治世は,わずかに4年で終わり,楚の懐王22年,異母弟の昭王(昭襄王(しょうじょうおう))が立った。
 昭王の母は(び)氏で,その祖先は楚の王室の出であり,宣太后と号した。
 南方と東方の雄者である楚と斉とが手を結ぶことは,秦の天下制覇を最も妨げるものである。そこで昭王は即位と共に,生母の家の縁に頼って楚に親しみ,早速その切り崩しに努めた。懐王の24年,昭王は厚く楚に賂(まいない)して婦を迎えた。情にもろい懐王は,忽(たちま)ち血縁続きの昭王母子に親しみ,女(じょ)を送って昭王を婿とした。
 昭王はその翌年(即位3年)に冠の礼を行った年少の君主で,初めは宣太后が摂政し,太后の弟魏冉(ぎぜん)(穣候(じょうこう))が国政に任じた。しかし昭王の在位は56年の長きに及び,その没後子の孝文王はわずかに1年,孫の荘襄王は2年在位して没し,曾孫の政(せい)が立った。政の即位26年(前221)に天下はことごとく秦に帰して,始皇帝となった。
 従って秦の帝業の素地は,ほとんど昭王の時代に成ったもので有り,叔父の宰相魏冉と,猛将白起(びゃっき)が活躍し,晩年には知謀を以て客卿(かくけい)に任ぜられた范雎(はんしょ)が縦横に献策して,その業を助けた。
 周の王室(赧王(たんおう)59年),秦により滅亡する(前256)。
 さて,屈原はと言うと,配流の身であり乍らも,楚王及び朝廷が秦に和する度に,楚国の行く末を憂い,きつく建言したが受け入れられず,前298年(屈原42歳)鄂渚(がくしょ)に流謫(るたく)せらる。前283年頃,鄂渚から出発し,或は水路を舟で遡り,また陸路に馬車を駆って,はるばると水(げんすい)の上流,浦(じょほ)(湖南省浦県)の謫居に遷(うつ)された。
 新配所は,荒僻(こうへき)の山林の中にあり,山は高くて日を蔽(おお)い,地は暗く寒冷多雨で,まったく猿の住処(すみか)であった。前278年(屈原62歳,頃襄王21年,秦の昭王29年)浦を去って長沙に赴く。因みに300年後,長沙の王は劉秀で,後漢の光武帝であり,紀元57年倭奴国王遣使が洛陽に到着した時の皇帝である。その当時であっても長沙は札つきの卑湿貧国(ひしつひんこく)で有った。
 屈原が予見した様に,文王熊貲(ゆうし)以来20代,400余年王都として栄えた楚の国都,郢(えい)はついに滅亡し,楚王が再びここに返る日は無かった。
 屈原は敗戦亡国の悲報を聞き,詩「懐沙(かいさ)」を作り,前277年ついに汨羅(べきら)の渕(えん)に身を投じて,その生涯を終える。

きんちゃ〜〜〜ん   西山 欣子

 土曜日のことだけど・・・。
「きんちゃ〜〜〜ん,きんちゃ〜〜ん!!」
何やら外から叫ぶ声が・・・。
まさか??? そら耳だよね〜〜〜と思いきや
「きんちゃ〜〜ん,きんちゃ〜〜ん」
いやいや確かに呼ばれているぞ!!
で,ふと2階仕事場から外に出てみると
「あ〜〜〜,きんちゃんが出て来てくれたあ〜〜〜♪」
よく見ると,昨年まで,小学校マンガクラブにいて今では中学生になった女の子がふたり。
「ひさしぶり〜〜〜〜」
わざわざ私に会いに来てくれたみたいなんですよ。
うれしいじゃないですかあ。
 思わず「ギュッ!!」としてしまいましたよ〜〜。

 話はコロッと変わるけど 私,この「ギュッ!!」というコトバが好きでちょくちょく使ってたのですよ。
若いコたちは「ハグ」って表現したりするけれど私はあんまり好きなコトバじゃなくて「抱きしめる」っていうのもコッパズカシくて・・・。
最近CMのコピーで使われてますよね〜〜。
「ぎゅっとしたい人は,誰ですか。」って・・・。
ああ,いっぱいいますよ。
ぎゅっとしたい人,されたい人・・・・。