歴史を読む        三木 信夫

 「歴史とは,現在と過去との対話である。」とは英国の歴史学者E・H・カーの言葉であり,カー自身は,「純粋な歴史的事実というものは無く,歴史は記録者の心を通じて屈折して現れるから,まず歴史家を研究せよ。」でした。
 古代文字のない時代に語り部によって語り継がれてきたものを,文字として記載されたのが日本の古典となっています。しかし文字になると記載する人に潤色される場合が多々あり,正しい伝承本来の意味でなくなる事があります。正史の日本書紀ですら,時の権力者によって当時の歴史が正しく記載されていないといわれています。中世以前の歴史は,発見や発掘等研究手段の進歩により少しずつ正しい歴史に補正されているのが現状のようです。

考古学からみた阿波のくに(1)
               天羽 達郎

 私が東京在住の頃,山形県出身の友人が言った。「受験で日本史を勉強するとほんとに嫌になる。いつも東北は坂上田村麻呂を始め京都から軍隊がやってきて征伐されたの懲らしめられたなどと書いてあるからだ。」古代史だけではない,近代史においても東北人は憤懣やる方ない感情を抱いている。幕末明治にかけての戊辰戦役で会津城を攻めた政府軍のことを,会津の人々は絶対に官軍とは呼ばない。西軍という。この言葉には東北人の歴史に対する怨念がこもっている。これは会津の人から直接聞いた話である。
 平成19年の徳島大学公開講座で徳島大学助教中村豊先生の講義「考古学からみた阿波のくに」は,こういった都中心の地方を軽視した従来の歴史ではなく「阿波」に軸足を据えた歴史を考古学から考えようというものでした。大変に面白かった。

以下次号

香具山の起源に付て思考すること
        天香具山神社宮司 橘 豊咲

 子年の年頭に当たりて,阿波風のご関係の諸氏に対して,新年の御祝詞を申し上げます。
 天岩戸神社,国常立(くにのとこたち)神社,天香具山神社外十社の宮司として,一日二日八時九時に歳旦祭を斎行(さいこう)しました。今を遡(さかのぼ)る2668年は倭国の紀元の元年に当たることは,神職として該以前のことを神代(かみよ)時代として認識しています。天岩戸は,神国日本の古代の祭儀形態の本元であったのでは無いかと思考する次第です。多武峰(とうのみね)は談山(たんざん)神社の境内全域が含まれる呼称で,背後の頂上を御破裂山(おはれつやま)と言う通称になっています。
 天香具山が紀元前か,後年かと言うことは定かではない。御破裂山の噴火で低い山合いを溶岩流が加速して山麓に堆積(たいせき)。岩石の破片や生物の遺骸などの堆積物が固化してできた岩石,石灰岩か花崗岩(かこうがん)か判然としないが,地元の元区長の古老は,溶岩流の堆積したものであると,先祖からの口伝があったのか,繰り返し自信のある様な事を話したのである。専門的な学者であれば,科学的に何かが解明できるかも知れないと思う。
 大きな天体からの破片か隕石(いんせき)の落下か否かは,計り知れないことであるが,無論,大和,阿波,伊予の往時の風土記に,短文ながら記載されているので,祝(はふり)としては一応信ずる他はない。
 日本列島が大陸と繋がっていて,長い角(つの)の曲がった象の化石が長野県で,以前に発掘されたと現代の学者が言明している。古代に大八州(おおやしま)が,大陸から分離される以前,人類が棲(す)んで居なかった時代かは興味のある話だと思う。今から約三百年前,能登半島の羽咋(はくい)市一ノ宮町の気多(けた)大社の古文書には,巨大な飛行物体が閃光を発しながら眉丈(びじょ)山脈を旋回した後,子供が神隠しに度々遭っているとの現実味のある文書が仝神社に保管されているのは確かである。そのユーフォーが,日本列島をぐるぐる旋回して近畿地方の低い山脈の何処かに着陸したか否かは判断できないが,或る天体,星の一つに生物の棲んでいる事は確認されていないが,地球から先(まず)月に到着した外国人が実在する訳だから,近い将来,科学技術の進歩で,火星でも何処へでも行ける時が来ると思う。古代に他の星の生物がユーフォーで飛来して,数がそこそこあれば準(なぞら)えて八百萬神が降臨されたと思っても,可笑(おか)しくも何でもないと推理するものである。正月だから夢を見たのかと思考するのだが,何でもかんでも飛躍したものの考えだと,それは眉唾物であると一笑されるかも判らない。因みに金沢発和倉温泉行の電車で,JR羽咋駅から約五百m飯山(いのやま)方向に,宇宙科学博物館のシンボルであるロケットが天を突く勢いで立っている。千里浜(ちりはま)海岸は約1キロ半の距離にありますので,付け加えておきます。

禁句 「出来ない」  川口 千恵

 気がつけば自然に使っている辞でした。今年は「出来ない」は,禁句にしたらと思って心掛けています。