ゆめタウンに行ったこと   笠原 彩加

 1月2日に高松のゆめタウンに行きました。9時30分につきました。10時すぎにあきました。
 始めに服やさんで服をみました。服は買わずに,スポーツショップに行きました。弟のぼうしを買いました。
 次にゲームを見にいきました。次に,ゲームセンターでゲームをしました。スティッチのUFOキャッチャーをしました。とれなかったです。
 次に,お昼ごはんを食べました。食べたのはオムライスでした。弟はカレーでした。
 次におとうふのぬいぐるみを買いました。
 次にお母さんのお洋服を買いました。次に,自分のお洋服を買ってもらいました。
 次にサーティーワンのアイスを食べました。まっ茶味でした。おいしかったです。
 次に休けいをしました。帰りにジュースを買いました。アンバサでした。
 次に1時間30分ぐらいでつきました。
 また,行きたいです。

我が家のクリスマス風景 松林 幸二郎

その1 Guetzli 作り
 第一アドヴェント(待降節)が始まる頃,多くのスイスの家庭もそうであるように,我が家もクリスマス クッキー(Guetzli)作りが始まります。母親と一緒になって,生地を練り上げ,クッキー作りに励んでいた3人娘の姿は今はありませが,20数種類が16種類に減ったというものの,次から次に焼き上がる香ばしいクッキーにまるで魔法を見ている気にさせられます。
 形色味様々の手作りのクッキーは,心まで暖かくしてくれるスイスの家庭の伝統の味でしょうが,独立した娘達もそれぞれクッキー作りを始め,行き詰まったときや幼き頃馴染んだクッキーのレシピを家内にSMSで尋ねてきます。そんな交信の様子をみていると家族の絆を感じられ,なんだか焼きたてクッキーのように心がぽかぽかしたものでした。

その2 犬猿の仲から
 “ターニャほど親切で素敵なお姉さんは地球上にいないよ”キッチンから家内と会話する,この夏小学校の先生となって独立した末娘ナタリアのことばを聴いたとき,一瞬,我が耳を疑ったものでした。僅か3才しか離れていないけれど,常に2人の妹のお姉さんとして責任と言動を求められ,言いたいことを肚の中に収め,自己主張のすくなく大人しいターニャと,言いたい事をいい,欲求も不満も自由に発散する末娘ナタリアとの全く異なった性格から,特に思春期に入っての2人の仲の悪さは犬猿(スイスでは犬と猫)の仲といってもいいほどでした。私たちは大変胸をいため,姉妹仲良くしてくれるようにと祈り続けてきました。
 この夏,やっと末娘ナタリアが独立し,2人がそれほど遠くない所に住み,長女ターニャが昨年夏結婚して善き伴侶を得てから,末娘が時折泊まりがけで遊びにいって,交流が深まっていることは知って嬉しく思っていましたが,まさか,お姉さんほど素敵…という言葉を聴くとは夢にも思っておりませんでした。

その3 見上げてごらん夜の星を…
 家族が集まって祝う伝統的なスイスのクリスマスは,我が家にも30年近く定着しています。しかし,クリスト(キリスト=救い主)マス(礼拝)の名称が示す通り,キリスト イエスの誕生日を祝うという本来の意義は喪失し,ご馳走を食べ,プレゼントを交換するお祭りごととなっているのがスイスの大半の家庭の現状であろうと思われます。我が家では,ともに生誕のいきさつを聖書に読み,クリスマスソングの合奏や賛美をしてきましたが,末娘が思春期にはいり,ボーイフレンドの手前もあって大いに反発して,どことなくしっくり来ない,和も損なわれるクリスマスが何年も続いて胸を痛めてきました。ところが,今年のクリスマスは,末娘も一緒になって娘婿たちと一緒に心からクリスマスを祝う幸いが与えられてどれほど心底嬉しく思ったことでしょう。
 末娘も5―6年ぶりかにフルートを取り出し,かってのように私のギター伴奏で,6年のブランクが嘘のように,美しいメロディーを奏でてくれました。
 My Way,浜辺の歌 そして“見上げてごらん 夜の星を…”飛行機事故で帰らぬ人となった坂本九ちゃんの笑顔の熱唱ぶりが目に浮かび,思わず涙がこぼれそうになったものでした。

屈原をたずねて(26)   山田 善仁

 屈原最期の詩「懐沙(かいさ)」(沙(さ)のかたに懐(こころざ)して)は,頃襄(けいじょう)王21年(前278)の初夏の頃,江南西辺の山深い浦(じょほ)の謫居(たくきょ)(配所)を後にして水(げんすい)を下り,洞庭湖の南岸を旅して東方の湘水(しょうすい)流域の長沙に向かって歩む。懐(おも)うに己の不遇を嘆きつつ。
 理想の世とされる古(いにしえ)にも,常に聖主と賢臣とが相並ぶとは限ら無かったが,その故(いわれ)はわからず,天運と言うより他はない。古人を思い忿(いかり)を抑え,あくまで初志を変えない態度を明らかにすると共に,最後に死の決意を示すというのが詩の大略(あらまし)である。
 詩は「離騒」の型を取り乍らも,ほとんど四言体と成って短句化している。
【1】ものの命(いのち)滔滔(みちあふ)るる孟夏(なつのはじめ)(滔滔孟夏兮),草も木も伸びしげりたり(草木莽莽)。われ独り懐(こころ)を傷(いた)め永く哀(かな)しみ(傷懐永哀兮),(あわただ)しげに南土(みんなみのくに)を徂(たびゆ)きぬ(徂南土)。
【2】目(ま)ばたけど(かす)みて杳杳(ほのぐら)く,空しく静かにしてものおと幽黙(ひそま)れり。胸うちふさがりてこころ紆軫(くじ)け,(うれい)に離(あ)いて長く鞠(くる)しみつ。
 と詩い出し,本文の最後はこうである。
【15】路(みち)を進めて北のかたに次(やど)れば,日も昧昧(たそが)れて其(そ)れ将(まさ)に暮れんとす。憂(うれい)を舒(ゆる)め哀しみを娯(なぐさ)め,之(これ)を限るに大故(いのちたつこと)を以(も)てせん(死を以て終りとしよう)。
 長沙の地に辿り着いてから,更に路を進めて北に向かい,懐かしい郢都(えいと)に少しでも近づこうとする。湘水に沿うて北に下れば,川は湖水となり,東から汨水(べきすい)が合流する。その汨水下流の汨羅渕(べきらえん)が屈原が最期を遂げた地である。

Tさん家族の話(1)   渡辺 雅文

 もう20年ほど前のことですが,私の40年来の知人(仕事関係のお客さんでTさん)でガンを克服した家族があります。
 家族構成は祖父母と若夫婦と女の子が2人で,住所は板野郡北島町。
 30歳代の若奥さんが乳がんと告知されました。本人はガンと分かり自分の職業でもある看護婦をしながら抗がん剤を服用していました。手術が必要といわれてT大学病院に入院,片胸を除去しましたが,担当医より「子供さんは何歳ですか,お気の毒ですがもう転移して手のつけようがありません」と死の宣告を受けました。子供はまだ小さく,家族は大変なショックを受けどうすればいいか思案にあぐねましたが,藁にもすがる気持ちで病院前の書店で1冊の本を買って帰り読み漁りました。
 その本の中身に書かれている,何人かの人がガンを克服した治療方法の体験を自ら実践しようと家族全員でガンと戦う決意を固めました。妻であり,嫁,母を死なせることは絶対出来ないと,病院の医師の指示を振り切って(医師と喧嘩して),自宅につれて帰りました。
 私の記憶ではその療法は東洋医学を基に『粉ミルク療法』と称して大阪で開業している加藤 清先生と聞いていますが,悲しいかな日本では西洋医学しか法律で認められていないため,健康保険証の使用が認められないのが一般のがん患者が利用出来ない理由です。30数パーセントの完治率があったようですが,なかなかマニュアルどおり(体質改善するので最初に断食が必要)に実践できない人があり,完治しなかった人の訴えで無資格診療で警察に摘発され1度だけ新聞に載りましたが,完治した多くの人の嘆願でことは大きくならなかったと思います。丸山ワクチンもしかり(医者も西洋医学の弱点は良く知っていて,ガンになれば死んで当然,には多くの医者が疑問を持っている筈だが),良いと思うことが法律で認められないことは非常に悲しいことですが,ごく最近アメリカの病院では診察を受ける前の待ち時間に,東洋医学の針や指圧を受けたり座禅を組んで精神統一する治療が増えているそうなのでこれからは日本でも西洋医学と東洋医学の良いところが取り入れられることでしょう。
 さてこれからTさんの家族がガンとの壮絶な闘いに挑みますが,まず本人のご主人が勤務していた会社を退社(辞めても金銭的に困らなかった),香川県の指圧専門学校に指圧師の免許を取る為に2年間通いました。ガン患者の体を指圧して(揉み解して)ガンを散らすことが狙いだったそうです。
 長くなるのでこれから先は次回に……。