屈原をたずねて(27)   山田 善仁

 乱(むすび)の詩は死を前にして,旅途を回顧し乍ら諦念(ていねん)の数語を発し,最後に世の君子に宣言し己を以て類(のり)とする事を求め,自ら命を絶って悲憤の生涯を閉じようとする気概を示している。憂国詩人の辞世の詩として誠にふさわしい結びである。
【16】乱(むすび)に曰(いわ)く,浩浩(ひろびろ)とした湘(げんしょう)のみず,(わ)汾き流れ(なみおと)たかし。脩(なが)き路(みち)幽(くら)く蔽(おお)われ,道(ゆくさき)は遠く忽(かす)めり。
【17】曾(しきり)に傷(いた)み爰(ひまな)く哀しみ,永(とこしえ)に歎(なげ)き喟(わ)びぬ。世は溷(けが)れ濁りて吾(われ)を知るもの莫(な)し,人の心は共に謂(かた)らう可(べ)からず。
【18】あつき質(きじ)を懐(たも)ち情(まごころ)を抱けども,われ独りあかし(正)するもの無し。伯楽(はくらく)は既に没(し)にたれば,驥(ときうま)も焉(いずく)んぞ程(みわ)けられん。
【19】民(ひと)の生(いのち)は命(さだめ)を稟(う)け,各々にその定めが有る。心を定め志を広くし,余(われ)何をか畏(おそ)れ懼(はばか)らん。
【20】いまは死の譲(さ)く可(べ)かざるを知りぬ(知死不可譲),願わくはいのち愛(お)しむこと勿(な)からん(願勿愛兮)。明らかに世の君子に告ぐ(明告君子),吾(われ)将(まさ)に以(みをも)て類(てほん)と為(な)らんとすと(吾将以爲類兮)。
 以来今日まで,国家危急存亡の時,屈原の詩を懐い出されるので有る。
 屈原の死については,『史記』の「屈原伝」に「長沙に適(ゆ)きて屈原が自ら渕に沈みし所を観(み),未だかって涕(なみだ)を垂れ其の人と為(な)りを想見せずんば非(あら)ず」と賛している。著者司馬遷(前漢武帝の時の史官)は,その遺跡を踏査して,現地における伝承を確認したわけである。
 現在においても,湖南省汨羅県の県城の北を汨羅江が流れ,北岸に屈原の墓と祠が在る。
 屈原の投身の日については,5月5日が定説となっている。梁(りょう)(502〜554)の宗懍(そうりん)の『荊楚(けいそ)歳時記』の5月5日の条に「是の日競渡し,雑薬を採る」「菖蒲をちりばめ或は屑とし,酒に浮かべて飲む」と有る。又,隋(ずい)の杜公瞻(とこうせん)は,これに注して「按(あん)ずるに5月5日の競渡は,俗に屈原が汨羅に投ぜし日その死を傷(いた)む,故に舟(しゅうしゅう)を命じて以て之(これ)を拯(すく)うと為す」と言う。梁の呉均の『続斉諧(せいかく)記』には「屈原は5月5日に汨羅に投じて死せり。楚人(そびと)之(これ)を哀れみ,此の日に至る毎(ごと)に米を貯(たくわ)え,水に投じて之を祭る。後漢の建武年間(光武帝の時代)に,長沙の欧回(おうかい)と言う者の前に屈原の霊が現れ,毎年祭られるのは有難いが,蛟竜(こうりゅう)に窃(ぬす)まれてしまうので,楝(おうち)の葉で上を塞(ふさ)ぎ,五綵(ごさい)の糸で約(しば)って下さい,この二物は蛟竜の憚(はばか)るものですと言ったので,その通りにした。今(梁の時代)の人が粽(ちまき)を作って五色の糸と楝の葉をつけるのは,皆汨羅の遺風で有る」と述べている。
 『隋書』の「地理志」荊州には,競渡の戯の起こりを説いて屈原の投水を「5月望日」と記す。即ち望日とは15日のことで有る。
 古代中国において,5月5日は1年で最も悪い日とされた。陰暦5月(午月(ごがつ))は,夏季の真中で,火の勢いが盛んで,5日も午の日として勢いが強すぎて不吉とされた。この日に生まれた子は,背が戸の高さになると,父母を害すると言われた。(日本で言われる迷信の丙午(ひのえうま)生まれと同類である)
 『史記』に「鶏鳴狗盗で有名な,戦国時代,斉,楚,秦国で宰相の孟嘗君(もうしょうくん)(衛で生まれた兵法家の呉起(ごき),また斉の王(びんおう)の叔父にあたる)は,5月5日の生まれであった為に,子供の時危うく父に棄てられそうになったのを秘かに母親が育てた」と有る。
 『燕京歳時記』に「5月は俗に悪月と称する」,『荊楚歳時記』には「菖蒲の葉は剣の如く八節の妖邪を斬る」と有り,5月5日は元来は,厄払いの日だったので有る。
 日本では,菖蒲と艾(よもぎ)を軒に吊り魔除けとし,風呂にも入れ浴びる。又,端午の節句とし男の子供を祝い粽を祭る。

忌部の話 十五  「伊勢神宮」 その三
               尾野 益大

 神前に供物を持って行く使節を「幣帛(へいはく)使」と呼ぶ。朝廷が奉った伊勢神宮へは特に天皇の代理として幣帛使が送られ,その役割は極めて重要だった。伊勢神宮への幣帛使をめぐって忌部,中臣両氏との間で起こった対立はよく知られている。
 最初に中臣氏が幣帛使に専任される傾向が生まれ,忌部氏はその随行または祭祀事務の役割しか与えられなくなった。そこで訴訟が起こった。忌部氏が初めに訴えた。735(天平7)年7月,忌部宿禰虫名,同烏麻呂らが訴えた。その結果,忌部氏を幣帛使として派遣することが認められた。
 その後,740(天平12)年,749(天平勝宝元)年,756(同8)年,忌部,中臣両氏が伊勢神宮への幣帛使となっている。しかし突然,争いが再燃。757(同9)年6月,「伊勢幣帛使は中臣氏を当て,他姓の人は用いない」とする命令が出たとされる。一方,続日本紀によると,758(天平宝字2)年,759(同3)年,762(同6)年,791(延暦10)年に両氏の五位以上の者が平等に幣帛使となっており,命令は出ていなかったともされる。例えば,762(天平宝字6)年11月には中臣朝臣毛人,忌部宿禰呰麻呂ら4人が伊勢太神宮に奉幣している。
 ところが争いは絶えず,806(大同元)年8月,中臣,忌部両氏が相訴する事態となる。中臣側は「忌部は元々幣帛を作っていただけで,祝詞を奏上したのは中臣である」と主張。これに対し忌部側は「奉幣祈祷は忌部の職であり,忌部を奉幣使,中臣を祓使とするように」と譲らなかった。裁決は日本書紀や神祇令をもとに「忌部氏は奉幣使になれる」という忌部氏に有利な内容だった。
 こうした両氏の対立関係がある中,第51代平城天皇(774−824年)の質問に答えて斎部広成が著し献上した書が「古語拾遺」だった。平城天皇に施行細則をつくるという造式の意図があったことが背景にあり,忌部氏復権のため独自の国史・氏族伝承をまとめている。807(大同2)年2月13日成立。広成は81歳だった。

必要な時に,必要なものが !!
                 山田 章

 新年度4月から2年間町内のお世話をする事になりました。人生70年目の御恩返しの出来る,最高のチャンスと,心の底から感謝しております。
 先日仕事中,午前4時台のラジオ深夜放送「心の時代」に,次の様な体験談を聞きました。
 終戦直後のシベリヤでの抑留生活者が次の様に体験発表しております。4年間の長期の生死の空間で,極限の生活が続く日々の中で「希望」を捨てなかった事が,又,体力的に出来る事はどんな事にも耐えて,出来る事全てをプラス発想に置き換え送った日々が,只今の学ぶと云う心の働きに変えている自分がある!! この体験談は,私に於いて,凄い事です。
 私は,S38年12月,26才の時に家内と結婚,同時に当時75才になる先代の義母一人暮らしの所へ夫婦養子として入籍をしました。例にもれず,他人3人の生活は2年目に破局の生活に入りました。私は,十二指腸潰瘍に倒れて最悪の状態に入りました。此の時の心境が,先日のラジオ放送を聴いて感銘したのだと思います。其の后S48年に私の人生の運命を好転する出来事があります。S44年,仕事の都合で,静岡の三島で親と別宅生活に入る事になりました。会社での寮生活で,安定した日暮らす事が出来て間もなく,結婚して10年目に待ちに待った長女を授かりました。周りからは祝福され,地元で永住する決心をした事があります。此の時,により「美しく咲く花瓶の一輪の花も,やがて時間が来ると枯れて行く」事を教えて頂き,翌年3人そろって義母の元へ帰りました。
 教育No.109「恩という字」木村博先生は「因(もと)を知る心」だと教えています。犬や猫は食物をくれる人には尾を振っても,誰がこの食物を作ったのか,そんなことは全くわかりません。それに比べて人間はわかるのです。畑で作った「茄子」は,太陽の熱と光,空気,水などの大自然の恵みに,農家の方々のご苦労があり,お母さんが心を込めて料理を作って食卓に並べてくれて,私達の口に入るのです。そういう目に見えない苦労に感謝する心が,「因(もと)を知る心」だと知ったのです。
 恩という字の意味,その恩を知り,その心に感じ報いていくのが,人間の尊さではないでしょうか。先ずは大自然の中から,人間として受けている大恩に気づく事が,心(全てに事にありがとうと云える)の教育の第一歩であり,豊かな人生を築く出発点ではないでしょうか。私は全てに有難うと感謝して生活をしようと思います。

ただいま潜考(せんこう)      相原 雄二

 「阿波風」No.41号で,我儘(わがまま),身勝手なわたしに気づき,考え方を変えることが大切だと書きました。そう言うこの私が,つい最近まで見る物,聞く物すべて悪いことは相手さま,自分以外に原因があるように考える人間でした。
 お釈迦さまは「生老病死」と人生を捉え,わたくしたちに教え諭してくださっておられます。人間として生まれた以上,この四つは避けて通ることは出来ない定めであると。さて人生上の悩み,苦しみ,病気はどうして起こるのでしょうか。体裁,世間体,外観を飾り,自分を「必要以上によく見せよう」とするあたりにキー・ポイントがあるようです。この精神(心)はすべて自分が生み出し,作っていることにまず気づくことだと近ごろになってようやく分かりかけてまいりました。老いること,病めること,死ぬること。これらも避けて通れないものならば肚(はら)を極(き)めて喜んで老いて行きましょう。喜んで病めましょう。また喜んで一生涯を終えましょう。物事には,有限と無限があるそうです。もっともっとお金が欲しい。もっともっと幸せになりたい。これらの欲は永遠につづく無限のもの。だけどわたしたちの命とは限りある有限のものです。
 皆様,現在只今までご両親から授けられた掛け替えのない命を何年積み重ねてこられましたでしょうか。たとえば分かりやすく人生を100年とすると,オギャーと生を受け,この私56年と数ヶ月,阿波の空港を飛び立ち,現在幸せの青い鳥をさがすべく無事に飛行をつづけておりますが,いつ嵐に出会(でくわ)すか,いつエンジントラブルをおこすか,いつ燃料が切れるか分からないまま飛び(生かされ)つづけています。すでに折り返しを過ぎそろそろ「妥協点」というか「着陸点」(天国空港か地獄空港)を決めて飛行をしなければならないころ(悟り)ではないだろうかと考えたりする今日このごろです。現在の飛行ルートは? 燃料は? その他の計器(心と身体)は? そして最終目的地(人生の目的)である着陸空港など準備している最中(さなか)です。
 「阿波風」にご縁ある皆さまも,これからすばらしく快適な空の旅(人生)がつづけられますよう飛行中の機内より祈念申し上げます。