結婚30周年を迎えて 松林 幸二郎
毎年,過ぎてから気がつく結婚記念日だけれど,今回は絶対に忘れる訳にはいかず,指より数えて待ったものでした。今年は“結婚30年”という記念すべき節目の年でもあったので,名誉(といったものは自分にあったためしは無いのですが,)にかけてど忘れする訳にいかないということもありましたが,この記念日のために大切にとっておいた,私が代表をつとめる日本人会の会員の有志から私の還暦祝いに贈られた高級イタリアレストランのディナー券を用いて,豪華なイタリアンディナーをいただくことをひどく楽しみにしてきたからです。
私たち夫婦が週末勤務を終える翌日の4月7日が,その30週年記念日で,予約の電話をいれたところ,月曜は定休日とのことで,やむなく延期いたしました。(ただ,その週末,次女夫婦がボーデン湖を一望する素晴らしいレストランに私たちを夕食に招き,ともに至福のひとときを共有できたことは幸いなことでした。)
振り返れば,無一文のうえ特別な資格も才能もないのに,若さ故,飛び込んだスイスという異国で,娘3人を育てあげ,自分なり精一杯生きた,いや,生かされてきた,長いようで短い30年でした。そして,どこの馬の骨か分からない,将来性は漠として定かでない東洋の貧しい青年と結婚してくれた家内に,その結婚を許し暖かく支えてくれた家内の両親。いくら感謝してもしきれない恩を背負っていながら,私は身内を誉めたり感謝の念を伝えるに稚拙で怠惰な“日本人男性”の一人で,張り合いのない想いをさせ,余計な苦労をさせた家内に私は実に悪い夫であった深く反省したものでした。
私の施設での障害者への仕事を30年近く支援し励まし続け,子ども3人を抱え節約と我慢を強いられてきたであろうに一度たりとも苦情を言わなかった家内ですが,男性として夫としてこれ以上望むべくはないことを,もっと早い時点で知り態度と口でその感謝の念を現しておれば,と取り返しの聞かない過去に忸怩とした想いが胸に広がることを覚えます。
二組に一組が離婚すると言う現代スイス社会にあって,30年間夫婦として信じるものと価値観を同じにし,力を合わせ家庭生活を営めてこれたことに深く感謝するとともに,子育てが終わり,新婚時代に戻った新鮮な気持ちで愛情を育んでいきたいと,人生の秋を目の前に思う結婚30周年の記念日でした。
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とくしまマラソン参加 芝山 靖二
朝6時過ぎに甥子に誘われて,鷲の門へ向かった。会場は全国からのランナーで大変華やいでいた。なんと秋田県以外46都道県からの参加だそうである。
四千人以上が並んでスタートを待つところへ,三村さんが見つけて応援に来てくれたのは,大変ビックリしたし力になった。
タイムは各人がゼッケン付けたチップで計るため,スタートの号砲が鳴っても私ら5000番台のゼッケンを付けた人たちはなかなか走り出せませんが,皆あわてることもなくスタート地点が来るまで歩いてのスタートです。
四国には弘法大師の昔から「お接待」の文化があるとよく聞くが,今回マラソンに参加して痛切に感じた。又徳島には阿波踊りで素人芸人を,お金を払って見て応援する習慣もある。参加ランナーの大半は素人ランナーである。その素人ランナーに42キロのコース途切れることなく声援,お接待してくれたのには感激した。
この分で行くと「徳島マラソン」は阿波踊りと並ぶ徳島の二大イベントに為るかもしれない。マラソンは確かにレース中はキツクてシンドイ。でも走り終えたあとの達成感はなにものにもかえがたいものがある。
私は今年60歳。70歳になるまで10年連続参加しタイムを落とさない様にしようと思っている。
果たして思い通りいきますか?
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描画とカタルシス 大西 時子
野山や家々を鏡のように大らかに映して放射状に広がる一帯の水田。低空飛行するツバメ。
蛙の鳴き声があちらこちらでのどかに上がり紗を張ったような薄墨の空から降り来る細い雨が水面に輪っかを広げていきます。
水藻を揺らし乍ら農業用水が狭い幹線でせめぎ合い幾枚もの水田を満たしては流れて行きます。
季節の狭間で出会ったこうした光景に和み乍ら時空移動で遊びつつ月毎の表紙絵に写されて行きます。
益鳥としてツバメを大事に扱った過ぎし時代。もう建て替えられてなくなった実家の旧い家屋の様子も思い出されます。
施錠もしない長閑な時代です。開け放たれた障子窓から自由にツバメが出入りしてちょうど裏座敷の壁の柱に作られた巣に毎年雛を孵すツバメ夫婦の子育ての様子が真近に見られました。
巣の壁を挟んだ中の間座敷の柱にはネジ巻きの柱時計が掛かっていてのんびり時を知らせていました。どこのお家も同じく畳みに被る糞害をものともせず新聞紙を広げて対処していました。
「喉赤きつばくらめ二つ梁にいて
垂乳根の母は死にたもうなり」
斎藤茂吉さんのこんな和歌もよぎって行きます。
父・母,祖父母と暮らした時代。
命を受け継いで現在。
カタルシスを感じつつ作業後は両親,祖父母の墓参を思い立ったことでした。
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中国 四川大地震 相原 雄二
5月12日午後2時28分(日本時間同3時28分)中国南西部・四川省を震源とする大規模な地震が発生した。地震の規模を示すマグニチュード(M)は7.8。四川省,甘粛省,重慶市,雲南省などで,中国国務院は15日,死者が1万9509人となり,最終的には5万人を超えるとの見通しを明らかにした。
同日午後には生存率が著しく低下するとされる被災後72時間が経過。
日本は12日の地震発生当初から緊急援助隊を出す準備を整えていたが,中国側が14日までは受け入れ態勢の不備を理由に派遣を要請してこなかった。それが15日昼になって急きょ,在京の中国大使館から外務省に要請がきたという。現在もまだ何万人もの生き埋めになった人々が救助されるのを待っている。
日本政府がレスキュー隊や医療隊が被災者の救助活動を行うため,消防,警察,海上保安庁,国際協力機構(JICA)で構成する国際緊急援助隊の援助チーム60人を結成し,第1陣の31人を民間航空機で北京経由で現地に向け派遣した。16日には第2陣29人も現地に向かう。
さらに医療チーム10〜20人を派遣する計画もある。それにしても生き埋めになっている人々は一刻も早く救出してあげないといけない。中国政府の受け入れ表明が地震発生の3日後だったことに疑問が残る。
中国四川省の大地震で亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。
わが日本でも今世紀前半に発生する可能性が高いとされる東南海・南海地震の前後約60年間に複数回起こると推定されている地震,中部・近畿圏の内陸地震,平成7年の阪神大震災もその1つといわれている。
「天災は忘れた頃にやって来る。」のことばと,今回の隣国の災害を教訓としたい。
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