山の民と海の民との交流―水運
               三木 信夫

 道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,すでに縄文時代には鳴門市からこの阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。
 阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。
 辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。
 弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。
 この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。
 若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,河川や海を通じて運び込まれています。すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられています。
 古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。
 阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道が,おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,奈良時代初期の養老2年(718)設置され,平安時代初期の延暦15年(796)廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。
 「津」とは陸上交通路と水上交通路が交わる人の集まる交通の要衝に,物資の集積拠点として形成されたものです。
 平安時代972年の延喜式大嘗祭式には,阿波国より麻植郡の忌部氏と那賀郡が由加物すなわちお供え物を調進する事になっていました。この事は古代より忌部の山の世界と那賀郡の海の世界との「人・物の交流」があり,拠点が水運を利用した吉野川中流域山崎の津であったと考えられます。
 大分すたれてきましたが,吉野川中流域の人達は,南西の方角,剣山(つるぎさん)を中心とした四国山地の方向を指して「ソラ」または「ソラの人」と呼んでいました。この場合の「ソラ」とは「山」の事です。旧麻植郡山地部の大半を占める旧種野山内にある三木山の頂上近くにある三木家周辺は,古くより「空地(そらのち)」と呼ばれ,地名も「大字三ツ木字空地」となっていましたが,近年の国の地名編成で大字が削除され「字」が「貢」に変更された為,地名から「空地」が消えたのです。
 この「ソラノチ」への入り口が,吉野川中流域の旧忌部神社がある山崎の地で,山への入り口でもあり,古代より中世まではこのソラ(山)への交通路の起点となっていました。その為古くからこの山崎は忌部神社の門前市(いち)を通じて吉野川を経由した海の民・平野の民とソラ(山)の民との物産の交易の場として津が形成され,ソラの世界の発展と共に成長してきております。船を自由に操り水運にたけた海の民が,交易の場に情報や文化を共に運んで麻植の忌部やソラの民を支えてきたのかもわかりません。

ペンパールEthelを尋ねて3万里(3)
               天羽 達郎

 前回はせっかくイギリスに行ったのに運悪くエセルさんとは行きちがいになってしまった。しかし2年後また突然チャンスがやってきた。あまり急だったので手紙を出す暇がなかった。でも行けば何とかなると思ったがそれが後悔のもとになった。
 今回は長女由布子の運転ですべて車の旅だった。ヒースロー空港の近くのレンタカー屋さんから出発したが,道を間違えてホテルと反対方向に走ってしまった。行けども行けども反対車線に入れない。前方にラウンド・アバウトという表示があった。これは行く途中にロータリー状になった道路があってその中に入ると中央帯を跨って反対車線に行ける様になっているものだ。そこにはシグナルがなくそのままぐるりっと回れる。なんと合理的な仕掛けだろうと思ったが,「由布子はこれが嫌いなの」という。彼女はすでに何回もイギリスに来て自分で運転した経験がある。そのロータリーには自分が通る道以外にいろんな方向から何本も道が入り込んでいて,しかもシグナルがないからいくつもの車が勝手に突っ込んでくる。であるからその中に入っても相手の車が前を塞いでしまい,右折しても行きたいところで反対車線に降りられず,ぐるっと回って同じところへ戻ってしまう。下手をすると何回もロータリーをぐるぐる回る羽目になる。因みにイギリスでは日本と同じ左通行である。2〜3度回るうちしびれを切らし強引に反対車線に突っ込んだらプッププーとクラクションを鳴らされた。なにかコツがあるらしいが当方には分からない。

(以下次号)

アートクラブ          島川 文代

 行って来ました。アートクラブ。
 本日は,県西部池田町まで。小さい子から大人まで,参加人数はおよそ200人!
 まずは,きんこ。さんのアートパフォーマンス?
・・・というか「描き方の説明」っていった方が正しいのでしょうか? いや。やっぱり,これはアートパフォーマンスですね。「その場で似顔絵描き!」です。(結構大きいサイズです)


 知っている友達の顔が,見る見る間に仕上がっていく様子に,みんなの目はくぎづけ。
 仕上がると,大歓声です!
 おもしろかったです〜。さすが,師匠ですね!
 はい。次は参加者全員で,「ダンボール・木切れアート」の製作です。いろんな画材を使って,カラフルで個性的な作品がたくさん仕上がりました。
 そして午後からは,これらの絵をコンパネに貼りつけていく作業です。
 釘でトントン,ボンドでペタペタ・・・。
 やっぱり,人数が人数だけに,作業が終わると午後5時近くになっていました。
 さすがに,この頃になると,きんこ。さんも,アートクラブのメンバーも,ぐったり。
 でも,「バイバイ。また来てね〜。」とお見送りの声をきくと,やっぱり,またがんばろうと思う気持ちがムクムクと湧き上がってきますね。
 今日は,とっても充実した一日でした。
 ありがとうございました。


曲水の宴をたずねて(2)  山田 善仁

 東晋の元帝とは,西晋の高祖司馬懿(い)(司馬仲達・魏の曹操に仕えた軍師)の曾孫で,父司馬覲(きん)の爵位を継いで291年15歳で琅邪(ろうや)王となる。
 「八王の乱」の時,東海王司馬越(えつ)は中原の乱れを察知し,江南に退路を残しておく為,司馬睿(えい)を安東将軍,督揚州江南諸軍事に命じ,建康(後の南京)に任地させた。この時,司馬睿に付いていたのは琅邪郡の名族王導で,東海王越の軍事に参じていた時から親しい間柄となっていた。
 天下の乱れを見て,晋王朝の復興の時は,琅邪王司馬睿を担ぎ出す事を胸に,江南に赴任する。時に司馬睿32歳,王導41歳で有った。しかし司馬睿が建康に来ても南方の豪族には,まるで相手にされなかった。そこで司馬睿の権威を高める為に,王導は行動に出た。
 陰暦3月3日は「禊水節(けいすいせつ)」で,当時人々は景色の良い郊外の水辺で体を清め,無病息災を祈る風習が有った。
 因に漢の高后8年(前180)3月3日に呂太后(漢高祖皇帝の后)は祓(はらい)に出かけた。漢王室は,長安の近くの覇水(はすい)のほとりで,祓をするのが習わしで有った。
 「祓」とは,神に祈って,不祥や禍を払い除けることで有る。これは桃の木で作った弓と棘(いばら)の矢で行う行事で有った。桃には魔除けの力が有るとされていて,村落の入口や周囲に依く桃が植えられたのもその為で有る。また,「楚辞」は記す。周の成王の頃(前1,000)初代楚子(そし)として楚の地に封ぜられた熊繹(ゆうえき)が,周の王室への貢ぎ物に桃の弓と棘の矢の他に格別の産物は無かったと。
 祓は流れのほとりで「みそぎ」の様な事もしたと言う。3月上巳(じょうし)と言って,3月に入って最初の巳(み)の日にこの祓を行うのがしきたりで有る。3世紀,魏の頃(220〜265年)から巳の日に限らず3月3日を祓の日とした。3月の節句を桃の節句と言われるのは,ここから来ている。
 王導は,この日に合わせ「禊水節」を見物するのに,司馬睿を豪華な輿(こし)に乗せ,護衛の兵士の隊列を付けて威風堂々と繰り出した。そのあとを,王導とその従兄,揚州刺史の王敦(おうとん)や王一族の一行が騎従して後に続く。
 これを見た,江南の豪族は肝を潰し,道端に出て拝礼した。
 これを機に,江南の豪族に政権への参加を要請させ,遂には司馬睿になびき従い,君臣の礼を取る様になった。
 司馬睿が帝位(元帝皇帝)に即いたのは,八王の乱で疲弊し,長安を南匈奴に陥された次の年,江南に来て9年目の317年で有った。
 王一族は政権の中枢を担って東晋王朝を支えて行く。