自分の位置       石渡 修司

 東経:134度34分,北緯:34度4分,これは徳島市の地球上での位置です。地図の上で,位置を確認することができます。
 私達は,自分の位置をどのようにして確認しているのでしょうか。家族の中で,自分の所属する団体や集団の中で,住んでいる地域の中でと色々考えることができます。共通していることは,人との関係の中で自分の位置を確認しているということです。人間は社会の中で生きる,社会と切り離しては生きて生けないと言われています。社会とは人と人によって作り上げられた集団と言えます。この集団は空に浮かんでいる雲のようなものです。確かに一つの塊ではありますが,他の雲と一緒になって大きくなることもあるかと思えば,風によって吹き飛ばされ,消えてしまうこともあります。そのような性格の集団の中で自分の位置を確認しようとすることには無理があります。それは仮想の世界,幻想でしかありません。
 私たちの多くが,それにしがみついています。みんなと同じ幻想の中にいれば,一応安心です。周りのみんなが同じ思いを持っているからです。ですから,その集団から追い出されたり,飛び出た者は苦しみます。自分の位置を確認する所を持たないからです。ですから,自分を受け容れてくれない集団に反発し,場合によっては攻撃します。それが,秋葉原トラック突入事件であり,難波ビデオ店放火事件ではないでしょうか。
 本来,私達は私達の内に位置を確認するものを持っていないのです。私達は私達を生み出してくださった方の内に自分を置く以外に真に安らぐ所を持っていません。
 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ,女たちが忘れようとも,私があなたを忘れることは決してない」イザヤ49:15
と,造り主なる神は約束してくださっています。

芙蓉の花         石渡 路子

 夏の熱い盛りにも元気に咲いていた芙蓉の花も秋が深まるにつれ,小さく,弱々しくなってきました。それでも,健気に毎日毎日咲いています。芙蓉の花は朝咲き,その日の夕方にはしぼんでしまいます。たった一日しか咲くことができない花です。
 芙蓉の花は,花そのものとしても見事です。それだけに,芙蓉の花の寿命の短さは際立っています。芙蓉の花は,薄い花びらを初め,その形と色合いの美しさは私たちには到底作り上げることができないほどに,見事に良くできています。もし,私たちが作ったとしたら,たった一日見てもらっただけで壊してしまうようなことは,とても惜しくてできません。それなのに,どうして,この芙蓉の花を作られた方は惜しげもなく,一日でしぼませてしまわれるのでしょうか。
 「ほら,ほら,見て,見て,きれいでしょ」と言いながら,「はい,おしまい」と言っているような奇妙さと意地悪ささえ感じます。
 芙蓉の花が一日の寿命しかないことは,その一日という時がどれほど大切かということを教えてくれています。花の開く日を選ぶことは,花にはできません。咲いた日が雨の日か,晴の日か,夏の暑い日か,秋の寒い日かも。ただ与えられた日に,そのまま咲くしかありません。装うままに咲く,大きいか,小さいかも。選べないことにこだわっていないかのように,花は咲きます。
 私たちも自分に与えられた中で精いっぱいできることをする,しかし,選べないことは受け容れる,それが思いわずらいから解き放たれる秘訣ですと,芙蓉の花から教えられている気がします。
 「今日は生えていて,明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ,神はこのように装ってくださる。まして,あなたがたには,なおさらのことではないか。だから,明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は,その日だけで十分である」マタイ6:30−34

薔薇が咲いた       鎌田 尚之

 ♪薔薇が咲いた。薔薇が咲いた。ミニ薔薇が。

 このミニ薔薇直径が1センチ以下なんですよ。マイクロ薔薇と言ってもいいくらいの大きさです。でも花は完全に薔薇でしょう。

よほど好きらしい…。  西山 欣子

今日は昨日とうって変わって,ほとんど誰とも会わず,誰とも話さず。
ひたすら描き続けた1日だったです。。。
2008.10.04


それにしてもこれだけ描き続けてよく飽きないモンだ。よほど好きらしい・・・。
たぶん明日も描き続けることになろーかと・・・。