ニューモラルを読んで・・・
自分が「誰か」になる!?

               相原 詩恩

 「老夫婦の乗車」で,高倉さんは,電車で大阪から東京に帰る時に,年のとった夫婦がきて,席をゆずろうか,それともそのままでいようかという所で,私も,こういう事があったら,ゆずりたいけど,東京まで2時間以上あるので,どうしようとまよってしまう。
 「心地よい疲労感」で,いっしょにいた田中さんが夫婦に席をゆずったので,高倉さんも席をゆずった所で,田中さんと高倉さんは,東京まで何時間もあるのに,年のとった夫婦に席をゆずるなんてすごくやさしいし,勇気がいるなあと感心した。
 これから,「老夫婦の乗車」のような事があったら,勇気を出して,やってみようと思った。人は,「誰か」になって役に立つということは,とてもいいことだと思うから,勇気を出して,実行することは,とても大事だと気付いた。

おすすめの論文     相原 雄二

 第二次世界大戦後,日本は連合国の占領軍によって統治されましたが,占領軍が消し去った歴史を「大東亜戦争」という。しかし占領軍は日本人が「大東亜戦争」という固有の歴史観をもつことを否定し,「太平洋戦争」という新しい歴史観をもつことを強制しました。占領軍は意図的に,日本人の心に戦争に対する罪悪感を植え付ける情報宣伝計画を実施して来ました。(検閲(けんえつ)による言論統制等々)
 東京裁判は昭和21年(1946年)に連合国軍最高司令官だった米国のダグラス・マッカーサーの指令によって作られた「裁判所条例」に基づいて行われましたが,この「条例」は当時すでに確立していた国際法に基づいたものではありませんでした。国際法を蹂躙(じゅうりん)して東京裁判を強行した連合国は,法の権威と人類の正義と真の世界平和を事後法の裁きで犯したのです。戦後6年8ヶ月にわたる占領期間中の日本人に対するマインドコントロールが平成の今日までいまだに抜け切れないでいることは悲しむべきことです。
 サンフランシスコ講和条約が発効し,日本が再び独立国となった昭和27年(1952年)4月から,日本人が本当のことを知り,自分の意見を述べることができるようになった現在,航空幕僚長,田母神俊雄氏がある民間の雑誌の懸賞募集に応募し,最優秀作として掲載される予定の論文が「過去の歴史認識」に関して従来政府のとってきた統一見解と相反する,ということで更迭されたと報じられました。(平成20年11月1日付)
 私はこの論文を読んで,田母神俊雄氏へ心からの拍手を送ります。ジャーナリズムが今日のごとく普及すると国家も社会も道徳的に頽廃(たいはい)して日本は滅亡するしかない。白を白と言ってなぜいけないのでしょうか。田母神氏は歴史を深く研究し,道理に適(かな)った歴史解釈を,感情的にならず落ち着いた論文として発表されています。
 是非とも中学生以上の学生さんから日本の皆様に読んでいただきたい論文です。
 「日本は侵略国家であったのか」

Hさんの家              松林 幸二郎

 Hさんが生涯かけて最大の情熱を注ぐ対象は建物です。盲目の彼が車いすで散歩に行くとき,連れていって欲しいと求めるのは,アパートであり,一軒家でもあります。私がHさんが住むグロスファミリーで2年8ヶ月前に働き始めた頃は,頑に拒んでいた絵描きも,心がほぐれるに従って描き始めるようになりました。好んで描くものは,やはり家々や,窓そしてドアの絵でした。彼が目の見えたとき描いた家の絵は,それは緻密で正確でしたから,盲目となった今でも,その形は彼の脳裏に鮮明に残っているものと思われます。
 私は,なんとかして彼の情熱を“形”に出来ないものかと思案いたしました。“そうだ,彼の“夢の家”を建てればよいのだ。彼が頭で設計して,色も形も自分で決めればよい”と。“ミニチュアの家など欲しくはない”と,拒否されるのを覚悟でHさんに尋ねてみましたが,一瞬,きょとんとした表情を浮かべたものの,すぐに晴れやかな笑顔になったのは,“やろう”という明確なサインでした。それからというもの,私が集めた材木を切り,穴をあけ,ねじと接着剤で固定させ,“建築”が始まり,どうにか家の形ができたのは建て始めて一年経っていました。千を超える屋根瓦は,小さな木片を一枚一枚ヤスリをかけ丸くし,それをオレンジ色に塗っていくという気の遠くなるような作業を,Hさんの親友のVさんが職場から帰ってから好んでやってくれました。
 外に働きにいけない重い障害をもった成人のための“やぎ工房”を立ち上げたとき,少なからずの方に経済的な支援をいただいたお陰で,木工機械を購入できたことが,Hさんの夢実現に大いに寄与したことに深く感謝しつつ“建築”をすすめ,ついにHさんの“家”はこの秋,完成をみました。Hさんが脳裏に描いたように,間取りを取り,ドアは緑,暖炉は深緑,ベッドとトイレのふたはブルーと色彩も願ったとおりになりました。11月初めの,新築祝いのパーティーに集まった人の中心にあった彼の晴れ晴れとした笑顔を,私は生涯忘れることはないでしょう。
 “H君,君の建てた家の何と美しく,素晴らしいことでしょう! 君の家は,世界でたった一軒しかない,とても特別な家なのです。君もきっと誇りにしているでしょうが,私たち夫婦にとっても,とても大きな誇りなのです。”パーティーに来たEさん夫婦から,数日後,そんな賞賛の便りが届きました。
 “人生っていいもんだ”Hさんは,軽く頷いたものでした。

忌部の話 二十四 「金属伝承」その一
               尾野 益大

 「一つ目小僧」という言葉がある。妖怪のように思われているが違う。
 金属の精錬に携わった神聖な職業人である。民俗学者の柳田国男は「一つ目小僧その他」で,忌部の一派が代々一つ目神を語り継いだ趣旨のことを書いている。つまり,忌部一族が古来,金属精錬に従事したことを意味している。斎部広成の「古語拾遺」では,天の岩戸に隠れた天照大神の怒りを鎮めるため「天目一箇神をして種々の刀,鉄鐸をつくらせた」という内容が書かれている。「日本書紀」にもニニギの命が高千穂峰に降臨するとき,ブレーンとして「天目一箇神ヲ金作者」として伴ったとある。
 「一つ目小僧」とは何か。柳田国男は一つの目を神に捧げる信仰を持つ人たちと解釈した。鉄を作る際,鉄鉱石などを炉に入れて高熱で溶解しなければならず,炉の穴から片目で覗くため,その目をやられた人を指すと考えると納得がいく。つまり一つ目小僧とは鍛冶屋のことだ。
 また,一つ目と同じように「一本足の怪物」の伝承が熊野などにある。鉄を炉で溶かす際,炉に風を送り込むため片足でふいご踏みの重労働をし,その足を痛めた人を指したと考えられる。
 興味深いのは,全国の多くの鉱山の開坑年代が「大同2(807)年」となっていることである。大同2年といえば「古語拾遺」が完成した年だ。生野銀山(兵庫),吹屋銅山(岡山),出石銅山(愛媛),黒川金山(山梨),一時は佐渡金山をしのいだ越後の高根金山もそうだという。
 大同年間は4年間しかないが,鉱山がある山の神社の開基を大同年間とする例も多い。東北の名峰・早池峰神社や苗場山神社里宮,関東の名山・赤城山神社などがある。富士山の浅間神社が静岡側の大宮に落ち着いたのも大同元年ごろとの口伝があるようだ。
 これらの大同年間の伝承や一つ目伝承は吉野・熊野信仰にかかわる場所に多いという。「古語拾遺」の完成後,忌部の伝承を重視した吉野・熊野の修験者が伝えたのであろう。