三木家古文書について(その4-3)
               三木 信夫

 次に官宣旨の対になっている後醍醐天皇大嘗会の太政官符について解説する。


文面

太政官符阿波国司
  使いとして,従五位下 齋部宿禰親能(いんべすくねちかのり)
         神部(かんべ)貳人
右,従一位 行(ぎょう)大納言藤原朝臣(あそみ)
師信宣す,件(くだん)の人荒妙の御衣使に差(つかわ)して,発(は)
遣(けん)すること件の如し,国宜しく承知して件に依って之を行え,符(ふ)
到らば奉行(ほうこう)せよ。
右少辨正5位下藤原朝臣 在判
正六位上行右少史兼左衛門少尉 高橋朝臣 在判
  文保二年九月廿六日

 後醍醐天皇大嘗会に使用する「荒妙」の受け取りに,従五位下(じゅごいのげ)の齋部宿禰(いんべすくね)親能を荒妙御衣使(あらたえのみぞつかい)の勅使として,神部(かんべ)二人を伴って阿波国に下向する旨を,太政官から阿波国に申下した官符の写しを三木氏に交付したものである。
 花園天皇の場合は,鎌倉時代とはいえ重要儀式のため古例により同様に珍しく太政官符が発せられている。
 この勅使の五位以上の官位は律令制で定められた官位で,定数も125人と定められ,六位以下とは待遇も特別に優遇されている。五位は正五位と従五位がありさらにそれぞれ上下に区分されるが,宮中の宴でも五位以上が参内出来るいわば貴族と目される階位である。朝臣(あそみ)とか宿禰(すくね)は八色姓(やくさのかばね)で古代社会制度の氏族制に与えた序列であるが,後に氏が分裂して家の単位となる。

シェイクスピアの生家
               天羽 達郎

 昨年夏のイギリス旅行の最後の日はシェイクスピアの町のストラットフォードで過ごした。町は小さく町外れの駅からシェイクスピアの生家まではそんなに遠くはない。チューダー朝の家並みの中にそれはあり道路に面している。観光客であふれていた。建物の中へは裏庭の方から人数制限をし時間ごとに入れていく。入り口の所に簡単な解説の用紙があった。日本語版も英語版もすでになくなっていたのでドイツ語版にした。家でゆっくり辞書でも引きながら読もうと思ったのだが,これは出口の所で返せといわれ取り上げられた。なんだ,ケチ!
 裏庭で順番を待つ間,客が退屈しないようにと若い女性2人が衣装を付けてシェイクスピアの寸劇をやっていた(写真)。だがいくら聞いてもなにを言っているのかさっぱり分からない。娘に分かるかと聞いたが,分からないとのこと。日本に帰ってきてこのことをカナダ人に話したら,分からないはずだとの返事。シェイクスピア当時の英語は今のとはかなり違う,それにシェイクスピア劇はボキャブラリが非常に多くしかも言葉に韻を踏んでいる。彼はそこのことをrhymeといった。なるほどと納得,歌舞伎のようなもんかなあ。
 中に入ると当時の服装をした女性が皮の手袋を作っているのを演じていた。シェイクスピアの実家は手袋屋さんだったのだ。彼の父親はこの他に羊毛の取引で財をなし市長にまでなったそうだ。

思いの世界とありがとう
                大西 時子

 三が日の朝はお神酒でお祝い,お節に箸をつけたあとお雑煮をいただきます。
 普段朝食を摂らない私には少し胃腸に負担です。今日は姪家族が来るということで朝から台所は活気づいています。
 私は身支度をして庭掃除です。山茶花の花びらが掃いても掃いても地面を染めます。少し杜撰になった庭の管理を反省しつつ新たな気分で清掃です。植物の好きな姉夫婦は小さな庭に丹精の盆栽を置き,花木を植えてお手入れに余念がありません。どの鉢も青々と苔むし,季節毎に花々は見事に開花します。植物を慈しむ義兄や姉の意識波動に植物が応えているのでしょう。時々お邪魔しては玄関先の贅は尽さないがこの思いのたけを込めた小じんまりとした庭を見るのが大好きです。
 「言葉と思い」こんなことを考えさせられるお正月です。「有り難い」つまりあり得ない恩恵,これは古来神様に対してのみ使われた言葉だそうです。室町時代に一般大衆の言葉として広がったということです。言葉の持つ不思議な「魔法」にも思いを馳せつつ日常の中でこの「ありがとう」がどれだけ言えるか,有難うの気持ちを持ち続けたいと思う年頭です。

曲水の宴をたずねて(5)
                山田 善仁

 「蘭亭の会」が行われたのは,羲之(ぎし)が会稽(かいけい)の内史になって3年目,苦戦続きの殷浩(いんこう)の北伐軍が,敗軍の兵を寿春(じゅしゅん)で休ませていた頃である。永和9年(353)3月3日,羲之47歳の時である。
 「晋書(しんじょ)」王羲之伝には此の時の会について,「羲之は雅(もと)より服食養性を好みて京師(けいし)に在るを楽しまず。初め浙江(せっこう)を渡るに,便ち終焉(しゅうえん)の志あり。会稽に佳(よ)き山水あり,名士多く之(これ)に居(す)む。謝安(しゃあん)の未だ仕えざりし時,亦た焉(ここ)に居む。孫綽(そんたく),李充(りじゅう),許詢(きょじゅん),支遁(しとん)ら,皆な文義を以って世に冠たり。並びに室を東土に築き,羲之と好みを同じくす。嘗(かつ)て同志と会稽山陰の蘭亭に宴集す。」と記している。
 「文選」に収められている,顔延之(がんえんし)「三月三日曲水の詩の序」の李善(りぜん)注には,「風俗通」に曰(いわ)く,「禊(みそぎ)とは,潔(きよ)めるなり。水のほとりにて盥(あら)い潔めるなり。巳(し)とは祉(し)なり。邪疾已(すで)に去り,介(おお)いなる祉(さいわい)を祈るなり。」と。
 「韓詩章句」に曰く,「三月の桃花水の時。鄭(てい)の国の俗に,三月上巳(じょうし),(しんい)の両水のほとりにて,(ふじばかま)を執(と)りて魂を招き,祥(よ)からざる事を祓除(のぞ)くなり。」
 「詩経」の鄭風(ていふう)に触れると,の川辺で禊を行い,男女が群れて,水浴びして遊ぶ一年中での楽しい行事であり,夫婦の事を行う風習も有った。
 「論語」の中に,昔から鄭声(ていせい)は淫(いん)といい,「礼記,楽記篇」の中に,「或いは雅楽(ががく)に対して,俗楽(ぞくがく)を鄭声という。又,衛(えい)の歌も淫(いん)びなふうが多かったので,鄭衛の音といえば亡国の音とされる。」と記す。
 いつしか「不祥を祓除(のぞ)く」ことが忘れられて宴遊の色彩が強くなり,「晋(しん),阮贍(げんせん)の上巳(じょうし)の会の賦(ふ)」には,「清き川に臨んで嘉(めでた)き讌(さかもり)し,暇(のど)かなる日を聊(たの)しんで遊び娯(たの)しむ。」とある。
 因みに鄭国とはこうである。
 周(しゅう)の宣王(せんおう)(在位BC828〜BC782)が弟の友(ゆう)(鄭(てい)の桓公(かんこう))に宗周畿内の林の地に封じ,その子武公(ぶこう)は,平王(へいおう)が東都で周室を再興するのに功績が有り,河南の(かく),檜(かい)の地をも併せての地に遷り(BC767)旧(もと)の国名をここに遷して新鄭と称した。