忌部の話 二十九 「田上郷(たのかみのごう)戸籍」
               尾野 益大

 阿波忌部が麻植郡以外の地に分布したことを示す文字資料として平安期の「国上郷戸籍」がある。蜂須賀家文書に江戸期の写しが残るのだが原本は902(延喜2)年,律令に基づいて書かれた。
 「田上郷」の地名は平城宮木簡でも「阿波国板野郡田上郷進□」と出てくるが,その比定地は旧土成,板野,北島町,鳴門市,徳島市川内町など諸説ある。
 さて,一家に5人以上いる氏族が17ある。多い順に凡直,粟凡直,家部,物部,服部,矢田部,海部,秦,宗我部,綿部,建部,葛部,忌部,飛鳥部,上主寸,伴,許世部。
 注目すべきは,忌部は8人と少ないが「正六位上忌部真常」という有位者がいることだ。当時,板野郡で位階を持っていたのは郡領の粟凡直(忌部一族)と凡直,忌部だけであった。
 また,衣料関係(服部,綿部)や海部姓が多い点,部曲関係(物部,家部)や名代姓(矢田部)がある点もこの戸籍の特徴だ。矢田部の一族には忌部8人のうちの2人が含まれている。
 粟凡直の構成員は血縁関係のある人が多い。その中に「浄安31歳 織部司令員外織手」がおり粟凡直の系列に織物をする人がいたことが分かる。織部司に織手がいたことは延喜式から確認できることである。上記17氏族の中の綿部も粟凡直の系統であり織物をする集団の一つといえる。海部は海産物の採取や船による海上の運搬に貢献していたに違いない。
 田上郷に織物などの衣料関係者や貢進に携わる忌部,海部が居住したことは偶然だろうか。彼らが織物を通じて一族関係にあったか,強い縁や絆をもっていたことは大いに予想できる。田上郷に住んだ理由として,海が近く,港があった事実はまず第一に挙げられていいだろう。都の人たちや他国の人たちを招いたり,交流したりもしたに違いない。

いってきま〜す♪   橋本 節子

 いってきま〜す♪
 この元気な黄色い声が,毎朝8時15分過ぎに我が家に飛び込んで来ます。ハンで押したかのように,正確なものです。
 その声を聞くや否や,私は飛び出して行き,
「元気で行ってらっしゃい!」
と,思いっ切り笑顔で送り出し,親子3人の自転車姿が見えなくなるまで(元気で帰ってきますようにと)手を振っています。
 幼稚園は今までにない楽しい世界らしく,
「はよう行こう」「はよう行こう」とお母さんに甘え……。もう心の中では園庭を自転車に乗ってキャーっと走り廻っているかのようです。
 今日の家庭訪問でも好評だったらしく,お母さんも家の中では手を焼いているやんちゃくれに,まずはホッとしたようでした。
 それを聞いて,私も良かったと空を見上げると,青空の中を鯉のぼりが勢いよく泳いでいます。
 鯉のぼりの様に,元気で大きくな〜れ!

成 長         本多 幸代

 毎日一緒に暮らしていると,当たり前になっている孫たちの成長。
 進級したばかりの朝,食事をしているとき,弟のたっくんが
「あやちゃん,これして」
と言っていました。すると姉のあやちゃんが
「たっくん,もう自分のことは自分でしなよう〜」
と言っているのを聞いて,こんなに成長したのだと思いました。
 お母さんが
「弟の面倒をよくみてくれるのでとっても助かる」と,よく言っています。
 自分のことは自分でせよと教えている。姉としての役目をしているのだと感心させられました。
 近頃は自分の部屋でよく過ごすようになりました。この春で5年生になりました。私の手を取ることがなくなるのも,そう遠くはないのだと,喜びと淋しさが入り交じった朝の出来事でした。

             笠原 彩加