阿波に生まれて      御堂 孝

 平成18年4月にこの地,阿波の国に来て,今年3月で定年退職いたしました。その3年間私は社員の教養の手助けをしてまいりました。立派な仕事をするためにはまず自分に自信と誇りを持たなければならない。まず皆さんには阿波に生まれたことに誇りを持って欲しい(自分は広島生まれ)と機会あるごとに話して参りました。そうなんです,古事記に書かれていることは,すべて阿波の国の物語なのです。まずこのことに誇りを持って欲しいのです。戦国期の三好長慶の活躍,江戸期の藍商人の活躍等,庚午事件が起こるまでは,阿波の人達は,日本中大手を広げて闊歩していたのです。事件後は時代の流れに阿波の国は少し乗り遅れ,男性が少しやる気を無くしてしまいました。その代わり日本赤十字社徳島支部設立,いただきさんの大陸進出など女性が今日まで活躍されています。
 阿波に生まれた皆さんが私にはうらやましいのです。あらためてイザナギ,イザナミの尊が国生みをされ,多くの神々がこの地,阿波の国で活躍されたことを誇りに持ち,胸を張って自信を持てば生きることへの力と,仕事への情熱が湧いてくると信じております。

阿波踊りにいこう   室伏 聖司

神楽坂の祭りで,初めて阿波踊りを見た。
いろは連の落ち着いた感じが気に入った。
名前も気に入った。
女性の踊り手の編笠を深く被って,
目が隠れる姿が何とも魅了された。
あんな女性と結婚したい。。。
僕は夏男だ。そしてアホだ。
今年は奇跡が起きるか?
阿波の阿波踊りに行けるか?
多分,行ける。夏の神様がついてるから。

今年の夏が最後の夏になるのだろうか?
最後の夏でも仕方ない。
今年の夏は楽しい。
子供の頃の夏休みのようだ。

道半ば。出会いは続き,状況はどんどん変わってく。明日はどうなる? わからないから面白い。
感謝とお返し。できることをやって行こう。

海香る南風とセミの鳴き声が心地良い。
満員電車とコンクリートと残業は我慢。
お祭りとビールとイカ焼きで調和する。

人生の黄金律      近藤 隆二

 以前生涯学習セミナーで講師より「今日のメインに当たるお話をします。それは人生の黄金律(ゴールデンルール)について学びましょう。」と,次のような内容でした。
 黄金律には三つありまして,

一つ目は,「はい」と言う素直な返事。
二つ目は,「ありがとう」の感謝の言葉。
三つ目は,あいさつ(挨拶)を明るく。

 挨拶には「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「おやすみ」「失礼します」「さようなら」「どうぞ」「すみませんでした」「おかげさまで」「ごくろうさま」「お気を付けて」「お疲れさまでした」
 以上,日常実行の黄金律(三つ)を守れば,日本だけでなく外国へ行っても,どこの国にでも通用するパスポートのような値打ちがあるとお話し下さいました。
 今月のニューモラル(No.479)は,挨拶とは禅の言葉でした。挨とは押すこと,拶は迫ることを意味し,師匠が弟子に問答を迫り,弟子がこれを押し返す。人間関係の表現であった。
 「あいさつ」のは明るく,はいつでも,は先に,は続けて。
 明るくいつでも先に続けていきたいものです。

心を満たすもの     石渡 路子

 夕方,散歩できるのは嬉しいです。それぞれの一日の務めを終え,家路を急ぐ姿を見るのは楽しいことです。顔が朝の表情とは違います。一日のしなければならないことをやり遂げたという満足感が顔にあふれています。その喜びを持って帰る家があるということが,気持ちをもっと嬉しくさせてくれるのです。
 しかし,家に帰っても,自分ただ一人だったら,やはり寂しいだろうと思います。今日一日の出来事を話したくても,話す相手がいなければ,急いで家に帰ろうとは思わないかもしれません。外で時間をつぶし,寝る時間に帰ればいいでしょう。
 最近,青年達が教会にふらっと来てくれるようになってきました。それも,気が付けば,夕方が多いようです。お腹が空くように,心も空きます。
 お腹は,何か食べ物を食べれば満たされます。空いた心は,一体,何で満たせばいいのでしょうか。彼らは心を満たしてくれるものを求めて,教会に来てくれるのです。彼らは分かっているのです。この世界では満たされないものがあり,教会には満たしてくれるものがあるということに気が付いているのです。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」マタイ4:4
 「牧師先生はいますか」と青年達が,今日も,来てくれました。「牧師はいないけど,ゆっくりしていって」と,私の声で,青年達は教会の会堂でひとしきり話し込んで,満足して,帰って行きました。教会が彼らにとって,帰るところになれば,嬉しいと思います。

くず鉄拾い        石渡 修司

 子どもの頃,早く,大人になりたいと思っていた。大人になれば,お金を手に入れることができ,また自由に使える,と思っていた。それほどに,お金に飢えていた。「類は友を呼ぶ」の言葉どおり,私の友達は,皆貧しかった。貧しくても,他の子ども達のように,ほしいものがある。お金がないことには,ほしいものは手に入らない。子どもながらも考え,始めたのがくず鉄拾いでした。当時(昭和20年代後半)は,道路はコークスと言われる石炭の燃え殻が砕石代わりに敷かれていた。それが関連していたのか,鉄釘がやたらと落ちていた。それを拾い集めると,すぐに,小さな空き缶に一杯になる。その頃は,屑やという商売があった。リヤカーを引きながら,街中を移動している。待っていて,来た所を捕まえて,交渉すると,殆ど買ってくれた。1円単位の商売であった。しかし,くず鉄がお金に変わるという瞬間は,私にとって,心がワクワクする時であった。お金が持つ不思議な魅力,人を惹きつける力を知った時でもあった。
 お金は,人が生み出したものであるのに,一旦,生み出されると,お金は力を持ち,魔力を持った神になってしまった。このお金と言う神に魅せられた者は憐れだ。すべてを支配する力があると思い込んでしまう。お金は神ではない,お金が力を及ぼすことができない世界がある。目に見えるものは,お金に替えることができるが,目に見えないものはお金に替えようがない。目に見えないが確かにあるものとして,代表的なのが命である。命はいくら,お金を積んでも,自由にはできない。
 お金がそういうものであることを知れば,私たちは変わる。お金より力のある方がいることを知る。聖書は真の神こそ,恐るべき方であると教えています。
「恐るべき者がだれであるか,教えてあげよう。殺したあとで,更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい」ルカ福音書12:5