お盆と目蓮        山田 善仁

 お盆と言えば,徳島では阿波踊りに代表されるが,基は仏教伝来以来,お盆祭りである。
 祀(まつ)りで無く祭(まつ)りである。
 古代,祀(し)は自然神を祀(まつ)る事をいい,自然神の代表的な神格が巳(し)(蛇)であった。蛇は後に竜に発展し我国でも谷神(やとのかみ)といい,神とされた。
 祭(さい)は祭壇に手で犠牲(いけにえ)の肉を供えて祭る事をいい,まつる,まつりの意味となり,祭は,廟(みたまや)で祖先の霊(みたま)を祭る事をいう。
 御盆(おぼん)とは盂蘭盆会(うらぼんえ)を略して言う。
 釈尊(しゃくそん)(ゴータマシッダールタ)の弟子目蓮(もくれん)は,その神通力によって生母が餓鬼界(がきかい)(成仏(じょうぶつ)できずさまよっている世界)に堕ちて飢えに苦しんでいる事を知り,祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)で釈尊に救済の法を教授される。「母を餓鬼界から助けるには,多くの僧の力を借り,僧達に百味の飲食(おんじき)を供養しなさい」と言われたのが基で,「仏説盂蘭盆経」に発展する。そして毎年旧暦7月15日に盂蘭盆会の行事が行われて来た。
 祗園精舎は,商業都市として栄えたコーサラ国の首都シュラヴァステーに創建された。
 コーサラ国の長者商人須達(すだった)で,彼は自分で得た利益を孤独な人に与え生活を助けていたので「給孤独(ぎっこどく)」或いは「給孤独長者(アナタピンディカ)」と呼ばれていた。
 須達がマガダ国で釈尊の教説に接し,帰依(きえ)し,コーサラ国への来訪,説法を乞い,プラセーナジト王に精舎(衆園)の寄進を発願。
 太子のジェータ(祗陀)の園林(ジェータヴァーナ・祇陀林)を買受け,又,太子の樹林寄進も有って精舎を建立する。それを「祗樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)」略して「祗園(ぎおん)」(精舎)といい,教説を行う所である。
 祗園精舎の創建には,釈尊の高弟であった長老舎利弗(しゃりほつ)も尽力した。因みに知恵第一と称された舎利弗は,お母さんの名前サーリー(鷺(さぎ)の様に美しい目をした鷺という意味)の子(プッタ)なのでサーリープッタといい,10代でバラモン教の聖典を理解する子供であった。目蓮(モッガラーナ)の父はバラモンの家で,王家の師であった。当時カースト制度の一番上がバラモン(司祭者)で,二番がクシャトリヤ(王族や武士),その下が庶民階級で,四番目がシュードラ(奴隷),その下には塵,芥の様に人間では無い階級が有った。
 舎利弗と目蓮は幼友達で,或日,親の反対を押し切って新興宗教に入ったが,教えに疑問を抱き,釈尊の元へ行き,釈尊の教えを理解し,リーダー的存在となる。目蓮は,釈尊の説法を邪魔する異教徒に石や瓦で叩き殺され,舎利弗の手当の甲斐無く息を引き取り,舎利弗もまもなく病にかかり亡くなる。一度に高弟を2人も失った釈尊は悲しみにつつまれた。釈尊の十大弟子と言われる中で,特別にこの2人を二大弟子と言う。
 お盆(盂蘭盆会)の行事として,祖先の霊を迎え,そして鎮送に重きをなし,精霊流し,送り火に此の世では逆さの仕草で鉦や踊りを添えて,霊魂が無事彼岸に帰る事を祈った行事に自然界の雨乞い等の祈願をも含む盆踊りとなり,今は興行化した阿波踊りに発展して来た。

徳島発 日本酒紀行 2
               竹馬 正宗

 酒をつくるためには,よい米と水が欠かせない。加えて醸造技術やその年の気候も味の善し悪しを左右する。価格から見れば,酒1本の値段の大半は米代が占めるといわれる。
 酒づくりに適した米がすなわち「酒造好適米」。有名な種類は山田錦や雄町,五百万石,八反,美山錦などがあり,合わせると約40種類。ほとんどが全国共通で扱われているが,最近はその地方独自の酒づくりを目指した米の開発も盛んだ。
 最も有名で高価な酒米が兵庫産の山田錦である。山田錦などの酒造好適米は一般的に人が食べる米とは種類が異なる。しかし消費者の中には,酒米も人が食べる種類と一緒の米と勘違いしている人が見受けられる。日本晴など例外もあるものの,例えば山田錦は食用米より稲の背が高く風雨で倒れやすいため,成長させるのに多くの手間が掛かるとされる。ちなみに食べてもそれほど旨くないそうだ。
 地酒の中には酒通の人の間で評判になっているビッグな銘柄がある。中でもそれらの蔵元が兵庫産でなく,徳島産の山田錦で酒づくりを行っていることは注目に値する。特に純米系の酒で目立ち全国でその数は30にものぼる。
 まだほんの一部に過ぎないが,自分が利いたことがある酒は埼玉の「神亀」や青森の「田酒」,山形の「羽前白梅」のほか,四国では徳島の「瓢太閤・蔵の澪」や「三芳菊」,香川の「悦凱陣」,高知の「安芸虎」などで,里帰りしたそれらの酒をとても旨いと感じたものだ。
 徳島の生んだ米が全国の酒造界に広く知れ渡っていることを徳島人の幾人がご存じだろうか。あるいは,どれほど多くの人が,徳島の米が全国に名を轟かせている事実に気付かないまま過ごしているだろうか。日本酒は古来,日本の文化である。それはワインやビール,ウオッカ…の文化とは違う。本物の日本酒を醸している徳島の米に乾杯。

忌部の話 三十三 「斎藤 普春(ひろはる)
               尾野 益大

 斎藤普春は1905(明治38)年9月,忌部神社の宮司となるため徳島に来た神職,国学者,歌人である。生まれたのは滋賀県彦根市。
 1875(明治8)年に奈良の丹生川上神社権禰宜となって神職の道に入り,忌部神社に来るまでは吉野神宮,丹生川上神社,香椎宮,四条畷神社,大洗磯前神社,函館八幡宮の各宮司を歴任した。忌部神社では宮司として手腕を発揮するかたわら,得意の国学の分野で徳島研究の優れた業績を残し,「櫛渕八幡神社考」「践祚御贄考」「阿波史料飯尾氏考」などを著した。
 普春が,徳島出身の国学者・小杉榲邨が全国的に収集した阿波に関する史料集「阿波国徴古雑抄」の発刊に尽力した事実も有名である。普春が徳島で生活を始めた後,最も深く交わりを結んだのが小松島市金磯の多田家と旧鴨島町飯尾の石原家で「徴古雑抄の発刊が難しい」と耳にしたとき,普春は多田家に相談に行き絶大な支援を得られたのだった。現在までの徳島の郷土史研究における阿波国徴古雑抄の存在の重みは計りしれず,多田家と普春はそのとき徴古雑抄の価値を見抜いていたのであろう。
 また,多田家が近くの弁天山に皇居遙拝所を設置しようとしたとき,普春は賛助し,祭式万端を担当したとされる。多田家が年々歳々,三大節に郡長,町長,町内有志らを弁天山に集めて厳粛な皇室遙拝の式典という殊勝な篤行を実行することができた背景には,普春の支えが少なからずあったからだった。
 普春は,旧木屋平村三ツ木の阿波忌部末裔・三木家の二十六代目当主宗治郎らとともに大正天皇の大嘗祭で麁布貢進を復活させたときの貢献者でもあった。
 歌の分野では歌人・細井菊枝の師であり,忌部神社境内には「荒妙の神のみけしをいけしへにたちかへさばや神のみけしに」と詠んだ歌碑が立つ。
 普春は1913(大正2)年3月,59歳で亡くなった。

結 婚         石渡 路子

 教会の礼拝に集っている青年が結婚しました。お連れ合いを案内して,教会の夕べの礼拝に出席してくれました。結婚したての華やかさ,嬉しさがあふれていて,ほほえましさを感じました。
 キリスト教が離婚を禁止していることは知られています。しかし,それは離婚の禁止という,否定的なとらえ方をしているのではありません。そうではなく,結婚の祝福を表すためのことです。結婚がそのように祝福に富んでいるものであるからこそ,結婚ということを大切にしてほしいという願いが込められています。
 結婚したら,夫婦になる,確かに,法律上ではそうなのでしょうが,人間関係として,夫婦となっていくのは,結婚した時から始めるということです。夫婦となっていくことは,一人ひとりも人間として,成長し続けていくということです。
 教会は信者によって,建て上げられていきます。それと同じように,家庭も夫婦によって建て上げられていきます。聖書では,結婚の神秘をキリストと教会の関係になぞらえています。
「それゆえ,人は,父と母から離れて,その妻と結ばれ,二人は一体となる」エフェソの信徒への手紙5:31
 どんな家庭が築かれていくのでしょうか。教会に,一つの家族が増えたということです。神が祝福して下さらないはずはありません。神は善きものを持って満たしてくださいます。彼らが喜びを知らせ,告げに来てくれることを楽しみにしています。教会は,いつも彼らの帰って来る所であり続けることでしょう。