中村 修

 記 憶         長井 宏一

 記憶はなくなっていくもの。
 記憶は蓄積されるもの。
 人それぞれ感じ方はちがうかもしれませんが,記憶の蓄積は,大切な宝物だと思います。
 なつかしいTVの番組や,昔のプロレスの試合,昔,定番だった昭和のアイテムなどを見て,過去の記憶とすり合わせることで,思い入れは高まり,胸が高鳴ります。
 今日一日がさらなる心地よい記憶を生むための源となるように,日々努力をつづけたいと思います。


向上心が執着心に   澤口 基子

 今の現状を受け止める―――ということに関して,とてもヘタクソな受け止め方をすることが多いです。あがいてしまうのです。ついつい,もうちょっとどうにかならんのだろうか?と,粘ろう粘ろうとしてしまう。この粘りの部分が実は,ちょっとクセモノで,冷静な状況判断が充分にできていないことがよくあります。
 純粋な向上心から粘る時は,まだ害が少ないですが,向上心が知らず知らずの内に執着心に部分的にせよ移行し始めると何かが濁ってしまう様に思います。

覗覘(してん)魏志倭人伝(1)   山田 善仁

 「三国志」は「魏志(ぎし)」30巻,「蜀志(しょくし)」15巻,「呉志(ごし)」20巻から成り,「魏志倭人伝」とは,「魏志」30巻の中の「東夷伝」の倭人の条がそれである。
 東夷伝の中には,夫余(ぷよ),高句麗(こうくり),東沃沮(よくそ),婁(ゆうろう),(わい),韓(かん),倭人の条が有り,条を伝としている。
 「東夷伝」の中で,小国名まで記録しているのは「韓伝」と「倭人伝」のみである。
 正史「三国志」は,誰がいつ,どこで著したかである。
 著者は陳寿(ちんじゅ)(233〜299)字(あざな)は承祚(しょうそ)と言う。四川省巴西(はせい)郡安漢(あんかん)県の人。若くして学を好み,同郡の先輩で春秋公羊学(くようがく)の大家で,術数の学に詳しい周(しょうしゅう)に師事して学を修めた。
 蜀の政府に仕えて,歴史編纂の官となる。蜀の滅亡(265)後は,陳寿の才能を高く評価していた晋(しん)の重臣の張華の引き立てで晋政府に仕え,著作郎(主席歴史編纂官)となり,呉が滅びた(280)のちに「三国志」65巻を著した。陳寿の没後に,晋王朝の公認を得て正史と成った。同時代に魚豢(ぎょけん)が著した「魏略」は正史には成らなかった。
 「魏志」東夷伝は,どこに焦点を当てているのか。
 晋の武帝(司馬炎(しばえん).在位265〜290)の祖父,司馬懿(しばい)(179〜251)字(あざな)は仲達(ちゅうたつ)。「死せる孔明,生ける仲達を走らす」の秋風五丈原で有名な,蜀の軍師諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)と対峙し,勝利を得た魏の名将軍司馬仲達。
 238年遼東に割拠する地方軍閥を討伐する為,魏の明帝は大将軍司馬懿に4万の軍を率いて進発させた。名将軍にかかっては,田舎の大将が対抗するべくも無く,公孫淵(こうそんえん)はたちまち滅びた。呉は公孫淵を味方にしたが失敗に終わった。
 司馬懿の別働隊は,山東半島より船出し朝鮮半島に上陸。楽浪(らくろう)郡と帯方(たいほう)郡を接収。そして韓国や倭国の国々が帯方郡を通して魏に通交するようになった。
 そして238年(魏景初2年)6月,倭王卑弥呼(ひみこ)の使者は魏の天子に朝献を求め帯方郡に詣り,許可を得,その年の12月帯方の太守劉夏(りゅうか)と使者は洛陽に到着。
 司馬懿は地方の屯田兵を軍団に編成し,強力な地盤を築く。幽州刺史毋丘倹(かんきゅうけん),玄菟(ひょんと)太守王(おうき),楽浪太守劉茂(りゅうも),帯方太守弓遵(きゅうじゅん),そして240年に倭国に派遣された建中校尉梯儁(ていしゅん),247年に派遣された塞曹掾史(えんし)張政などは皆,司馬懿のきか麾下の軍人であった。
 249年,クーデターを決行し,魏朝の曹一族を倒し実権を独占。265年12月,孫の司馬炎(武帝)が魏朝に替わって晋王朝を開く。こうした司馬氏の晴れの舞台の物語が「魏志」及び倭人の条に鏤(ちりば)められている。