新奇なものとの出会い 石渡 修司

 父はせっかちな気性ではあったが,野次馬根性も持ち合わせていた。以前は,デパートで,妙な品物を紹介販売していたものだ。ふーてんの寅さんばりの名調子で客を引き付け,人だかりがしていた。父は人だかりを見過ごすことができず,二度,三度と聞いている内に一番前に出て,ついには買って帰るはめになる。その度に,母からはあきれかえられたが,中には,なかなかのすぐれものとの出会いもあった。
 父の新しいものに飛びつく気持ちはたいしたものだった。まだ評価の出ていないものを自分の感性で決断する、いい意味での進取の気性があった。それが色々な出会いを生んだ。
 定年退職後,家の近所を歩くのが日課だった。よその家で垣根を刈りこんでいる植木職人を見れば,話しかけた。それが,縁となって,植木の手伝いをするようになった。嫌いな仕事でなかったし,勉強家でもあったから,高い木は無理でも,そこそこの木なら,はしごや脚立をつかって,刈りこむことができるようになった。ついには,仕事を任されるようになって,遠くまで出かけるようにさえなった。
 知らないことに興味を持つ,顔を突っ込む,自分の頭や体をつかって確かめる,その気持ちを亡くなるまで持ち続けた。体は老いても,気持ちだけは老いることがなかった。
 知らないものに出会う,その出会いを活かすことで,人生は豊かになる。信仰もそうである。哲学好きのアテネの人々は,パウロの語る言葉に興味を持つことから,新しい出会いが始まった。
 私も出会いに恵まれている,教会には,次々と新しい人が訪ねて来てくれるからだ。
「あなたが説いている,この新しい教えがどんなものか,知らせてもらえないか」使徒言行録17:19

「幸せ」とは,自然の恩恵に
報いる中に感ずる。
   山田 章

 私は平成18年の秋,68歳で設備会社を退職した。其の後の人生を満悦している。近所の一反余りの畑地を借用して,中古の耕運機を購入し,夏は茄子を作り漬物店に納め,冬は馬鈴薯を作って育ってくるのを楽しみながら,他には早朝に「青汁」を配達する事で,自分の頑健さを周りの者達に認めさせて,満足感を持った。今思うと,全くが高慢な生活であった。しかし,此の時は,自分の健康に自信が有り,これが充実している生活だと思い込み,自己満足していた。
 平成20年に入って早々に身の回りに異変が起こった。娘の仕事の手伝いをして来た家内が,両肩の痛みから医大で診察をしてもらうと,首の7番目の頚椎の損傷がひどく,赤信号の手前で危険な状態であり,一日も早く手術が必要との事だった。心配が突然降って湧いたように現れた。其の前後にテレビ放送で家内が偶然にも「名古屋」の「さくら整形」に於ける外科手術を知り,そこで治療を受け,現在は成功に至っておりますが,しかし,私の方はそのままでは終わっておりません。
 平成20年の夏は異状天候から猛暑が続き,畑仕事の無理から,7月28日,体に帯状疱疹が出来たのが始まりで,大腸閉塞,又,前立腺肥大と,次から次へと悪い個所が出て来ました。なかなか正常に帰らない日々が続き,今に至っております。
 先日,親戚の者達と一晩のバンガローでのキャンプを楽しみました。孫達に囲まれて大変楽しい時間を過ごしました。焼肉を食べながら世間話を聞いておりました。彼らは500トン級の貨物船の若い船長さんです。不況の中での運搬業は経費が高く付き,大変な日々を過ごしている,との事でした。運航は潮の流れと風の向きで経費は大きく変わってくる事は仕方の無い事だが,今日迄に多くの先輩先人から教えてもらい聞いて来た航海行路を正確に守って行く事で,仕事の採算が合って来た思いが強い。今は,心から先人先輩の恩恵に感謝している。又その上に大自然の偉大な現象にも細かく気配りをさせて頂き,自然に順ずる心の大切さを知った。其の態度は大変素直で謙虚で,私には心を打たれるものがあった。昨年からの病気を通して,私の人生を顧ると,自分の人生航路は,先人先輩の大恩のお陰で只今の幸せが有る事に,強く打たれた。
 私達人類は,何億何万の親祖先との繋がりの中で,その最先端の責任ある生命が今のここに有る此の自分である。此の大恩恵,又,此の日本の平和な環境の中に先人先輩の大きな犠牲的恩恵,これらを含め重ねて考えられる大自然の働きの中に生き生き化育されている大恩恵を,我が身を持って教えて下さる先人先輩,これら大恩に報いる為に多くの人様(自分の身の周りの人々)の幸せの為に,今何が出来るかを行動に現して行く事,此の事が他人様の為ではなく,自己の為になって行く事を信じ,又,祈って!! 社会に貢献出来る事が,真の幸せの一歩になると信じております。
 此の事に感謝している毎日です。

今を乗り切る      澤口 基子

 等身大というものを,二十代三十代の頃より大切に感じる様になって来ました。
 パワーあふれる年代の歩み方もスバラシイけんど,四十代の今のこの歩幅も悪うないです。
 又,更年期を,どう上手に乗り切っとくか――で,後半の人生の持ち時間や心身の健康がかなり方向付けられる様に思います。若い時からウサギより亀タイプの歩み方を心がけて来ましたが,尚一層この四十代〜五十代の曲がり角をじっくりじっくり歩んどこうと思います。

覗覘魏志倭人伝(2) 山田 善仁

 女王卑弥呼の居る邪馬壹国はどこに有るのだろうか。
 「魏志」に「郡より女王国に至る万二千余里」と有り,そして倭の地へは「周旋五千余里ばかり」と記し,途中の国へは至と記し,伊都国のみ到と記す。漢の時,旧百余国有ったが,今(魏),使訳通ずる所三十国である。卑弥呼の居る女王国より北を以って,その戸数,道里はすべて略載。
 女王国より北には特に一大率(大官)を置き,諸国を検察し,諸国これを憚る。常に伊都国に駐まり治める。と有り倭国では伊都国のみである。
 「魏志」では,邪馬壹国を極南と記す。南朝劉宋の時代に,范曄(398〜445)によって書かれた「後漢書」では,奴国を倭国の極南界と記している。又,唐王朝の史官,房玄齢(578〜648)によって書かれた「晋書」には,通好する三十国の総戸数を七万余戸と記し,「魏志」の邪馬壹国の七万余戸と同じで有る。
 因みに,「宋書」の范曄伝によると,編纂者范曄は宋の太祖文帝(劉義隆)の時(445年),クーデターを計画して失敗。刑場の露と消えた,48歳であった。彼は自分の書について,文には深い含蓄をもたせてあり,「恐らく世の人は理解できまい(恐世人不能尽之)」と,奇妙な言葉を残している。
 孔子の史書「春秋」が原点とされる,文の錯えと筆法は,中国の史家でもなかなか容易には理解出来ないものを,我々がそう簡単に解ける道理も無い。
 邪馬壹国と言う国名は,この時代以外には記されていない。
 「後漢書」には,邪馬臺国(今の宋の時代,邪摩惟の音の訛也り)と有り,唐の時代に魏徴(580〜643)によって書かれた「隋書」には,邪摩堆,則ち「魏志」の邪馬臺なりと有る。
 最初に邪馬壹国と呼ばれた国名は,邪馬臺(邪摩惟)国となり,次に邪馬臺(邪摩堆)国と変化している。
 壹は壱に変化し,臺から臺(台)に変化している。
 邪馬臺(台)国を古代朝鮮読みで解くと,邪は「旧・浅」,馬は「南」,臺は「基・址」を表し,「旧南基」の義を表していて,旧百余国の中のもっとも「古い南部にある中心国」の意になる。そう言えるのは,倭国より北の国の人から見た言葉で有る。
 因みに,文定昌に依ると,新羅の時代の年号に大和が有り,大化改新の時に,日本も初めて年号を用い,その時,倭国を大和と書き,朝鮮からヤマト(大和)と言う言葉,文字が入ったと言う。
 又,伊都国も怡土(いど)国から怡土(いと)郡へ。怡土郡と志摩郡(嶋郡)が一緒になり糸島郡に変化している。伊都国は,倭奴国,倭土国からの変化ではないだろうか。
 「糸島」は今の周船寺(主船司)で,大和朝廷の九州行政府であった太宰府の出先機関が有った。近くには,前原平原古墳が有り,白銅鏡42面,素環頭太刀1,刀子1,ガラス勾玉3,コハク丸玉約1000,めのう管玉12,他が出土,その東の古墳からは16人余りの殉葬者が発見されている。又,近くの高祖山(416m)には,大和朝廷の命によって756〜768年,吉備真備が対新羅戦の為に怡土城を築いている。