卑弥呼が行っていた「鬼道」と呼ばれる祭祀に関する遺跡として,考古学者・石野博信氏は「導水施設」を想定している。導水施設とは,井出や貯水池から溝や桶を通して水を引き,浄水・聖水として神や王に捧げる施設のことだ。卑弥呼のことは古事記や日本書紀に登場しないが,導水施設については古事記,日本書紀,風土記,万葉集に継承されているという。
石野氏は,導水施設の発見は
纏向
遺跡(3世紀後半)が最初と考えていたが,鳴門の萩原1号墓の発掘成果によって「導水施設は3世紀前半の阿波・讃岐に淵源があるかもしれない」と注目すべき指摘をした。つまり,萩原1号墓から出土した小型丸底壺は王の葬送儀礼で使われた壺だというのである。壺の内容物は酒や水とみられるが,それは単なる水ではなくクニの物代であり井泉信仰に基づく聖水という。
また「下川津B類土器」と呼ばれる独特の土器も萩原1号墓や讃岐から見つかった。搬入・搬出のピークが,卑弥呼が治世し魏と外交を展開した3世紀前半であることから,石野氏は「萩原1号墓の被葬者が活躍した可能性が高い」と推定している。卑弥呼と,卑弥呼と関係が深い祭祀施設の導水施設が,奈良よりも早く萩原1号墓から浮かび上がってきた。これは卑弥呼がしていた鬼道が阿波から奈良へ伝わった証の一つに認められないだろうか。
奈良の纏向遺跡で見つかった導水施設では,糞塊があったことを示す寄生虫卵があったという。石野氏は,それを記紀の天照大神の「クソマキ伝承」と想定した。それは,天の岩屋戸に籠もった天照大神が再び外に出てきて世界を明るくする話に通じる。今でいえば日蝕であり,日蝕を恐れた人々が古墳の前で太陽の再生を願ったと考えられるだろう。古事記,日本書紀によると,岩屋戸の前で天照大神の再生を願って祭りをした一人は阿波忌部の祖先であったことも忘れてはならない。卑弥呼の時代に祭祀に携わった人たちの末裔が阿波忌部となったのであろう。
石野氏は大胆で興味深い分析をしており「記紀編纂者は,卑弥呼の鬼道の内容の一端を知っていて天の岩屋戸伝承をつくったのかもしれない」としている。
魏志倭人伝は,女王国より北の伊都国に大率(軍など)を常置して,西日本の諸国を監視させたので諸国は畏怖した,と伝えている。つまり卑弥呼は徳島市国府に住んでいて,吉野川や旧吉野川を挟んだ北岸の板野・鳴門に同盟諸国の政治・経済を監視する機能があったとするのは考えすぎだろうか。
阿波と讃岐の古墳の形態が似ている点や鳴門の古墳の石棺の中には讃岐から船で運んできた石も確認されており,阿波・讃岐が連合国となって瀬戸内に目を光らせていたことは容易に想像できる。敵が瀬戸内海から来た場合,讃岐山脈が防壁となり,山間部の神山町への入り口「山の戸」(倭=ヤマト)に住んでいた卑弥呼の国を守っていたのだろう。