中村 修


「範を垂れる」とは  相原 雄二

 4人の子供を授かり,最後の小学生がこの3月に卒業する親として,この一年間,家庭と学校,学校と地域,先生と保護者,いわゆるPTA活動に携わり,学校教育活動を見て参りました。そして,校長先生はじめ,諸先生方の冷たくない厳しさと,甘やかさない温かさの教育を目の当たりにして,先生(教育者)に対する見方が大きく変わりました。
 たとえていえば,秋の運動会一つ挙げても,1ヶ月も2ヶ月も前より,校庭及び運動場の整備,整頓,準備から,当日早朝より保護者の来ない時間,ライン引きから水打ちなど,汗水流して子供たちのために献身的なうしろ姿には,心をうたれました。だれも見ていないところでの自己犠牲をいとわず,一生懸命尽くす先生方が輝いて見えました。家庭を振り返れば先生方もお子様がおられる,父として母として,接する時間を持ちたいであろう,土曜日日曜日を返上してまで,学校に出られるお姿には頭が下がります。
 このような先生方に教え導かれた森山小学校の子供たちは仕合せです。また,このような先生方が尊敬され,愛されるのでしょうね。
 教育者とは, ( ) くあるべきとの「 ( はん ) ( ) れる」お手本を見させて頂きました。ありがとうございました。

卒業式を迎えて     相原 詩恩

 平成22年3月18日森山小学校を卒業しました。そのときに,お世話になった母さんに感謝の気持ちを書いた手紙を今回の波阿波にのせます。

   感謝の気持ちをこめて

 6年間私を支えてくれてありがとう。自分が困っている時,まちがった事をした時,いつもそばにいてはげましたり,しかってくれたりしたね。
 毎日ごはんを作ったり,してくれた事はあたり前だけど,私には本当に大事な事なんだと思いました。
 いつもつらいのにいっしょうけんめい働いて私を学校に行かせてくれた事もとても感謝しています。
 2,3年のころから勉強が難しくなってきて分からなかった事をちゃんと教えてくれたね。
 5,6年の時には,する事がたくさんあったけど,はげましてくれたからがんばれたよ。
 いままでの感謝をこめて,どうもありがとう。
 それと,これからもよろしくお願いします。

99人の常識      長井 宏一

 多数決と常識について思うことがあります。
 一般に常識と言われていることは,ほんとうに常識なのでしょうか?
 まちがっていることでも100人中,99人が,正しいと言えば,多数決で常識となるのではないでしょうか?
 100人中,99人の常識よりも,たった一人で,ゴーイングマイウェイ! わが道を行く人は注目される存在だと思います。

求めているもの USA ジョージア 林 隆

 すでに2年以上にわたって,クリスチャンでもないのに教会へ通い,Worshipの前の教会学校−聖書勉強会にも,できる限り参加している。
 ここで勉強することは多いが,なにしろ聖書を読むのも初めてなら,クリスチャンの方の考え方や信仰の背景というものを知る初めての機会でもあったので,当初は非常に新鮮で,日ごろよく耳にする逸話やことわざや,もっと言えば西洋社会(というか,キリスト教社会)の考え方の根底にあるものが,どういった背景や話のなかから生まれてきたのか,ということについて,本当にいろいろ勉強することができた。
 ところが,最近になって,その「キリスト教」的考え方と同時に,この聖書勉強会が「何を」「どう」勉強するのか,ということが分かってくると,その勉強する内容というか方向性を含めた内容が,若干私のそれとずれているのが次第にはっきりしてくる。
 冒頭に挙げた「本を読んだときに,何を不満に感じたか」から自分の関心のありようが逆にわかってくるように,この勉強会においても,その生じたずれから,逆に自分が何をどう求めているのか,ということが徐々にはっきりしてくる。
 そして,その求める内容と方向性がはっきりするに連れ,この勉強会で自分が学べることの限界というか,聖書自体の内容については,はっきり言って神学というものがあるほど,それこそ無限に近い学習内容があるとは言え,自分自身にとっては,その方向での学びというものを求めているのではない,ということが分かってくる。
 聖書勉強会は,名の通り「聖書」と「キリスト教」のことを学ぶ機会であり,それを通して,言ってみれば「クリスチャン」としての成長を目指すものでしょう。私自身は「クリスチャン」としての成長を目指しているわけではないので,そこに画然とした違いが出てくる。
 こう書いてもなんのことかわからないかもしれないが,その差は非常に大きく,学習の視点の違いは,たとえば,同じ聖書の同じ箇所に対する議論でも,その内容がまったく異なってくる。つまり,こういうことだ。
 例えば,聖書のある箇所を読む。その意味するところは何なのか,そのことから私たちは何を学び何を実践すべきなのか,ということを話したとしよう。
 すると,その意味するところは何なのか,からして,すでにクリスチャンの方たちと私とでは異なってきて,さらにそれから学べる事,というと,これはもう全然違ってくる。
 端的に言えば,クリスチャンの方々は,これから「神の意思」と「神の愛」そして「神の恵み」を汲み取り,「感謝」する,という方向にだいたいのケースがなる。
 私は,と言えば,そこですでに「なんでこれが神の愛なのか」「本当に愛だったら,どうしてそうなるのか」といったところで躓いている。そこから自分自身納得のいく様な解を探そうとし,その自問,反問の過程で,本当に考えさせられ,自分としては考えた事もないようなことを考えることを通じて「学び」がある。
 こういったことからわかることは,私が求めているのは,キリスト教という枠の中での学びではなく,ある意味,キリスト教あるいは「聖書」というものを含めた世界の枠組みだ,ということかもしれない。