この「三木名(みつぎみょう)番頭職(ばんとうしき)補任状」は,鎌倉時代末期の1327年(嘉暦2年)もので,当時の世相は後醍醐天皇が1324年倒幕に失敗した「正中の変」,同じく1331年倒幕を図った「元弘の変」,その後1333年鎌倉幕府滅亡とめまぐるしく変わっていった時代でもある。
 この番頭職とは,種野山の領域内を幾つかの番に分け,各番におかれる長の事で,三木安村(沙弥名は直達)を一旦排除したが元のように三木村の番頭に復帰させる旨の文書である。三木村は当時の荘園にならって名(みょう)と称しており,番頭(ばんとう)は荘園における番頭(ばんがしら)からきているが,実態は荘園でないので珍しい。

 訳
 下す  三木名番頭職(みつぎみょうばんとうしき)の事
 右當村番頭職に於いては,沙弥(しゃみ)直達(三木安村)を以て元の如く還住(げんじゅう)せしむる所なり,限りある御年貢以下御公事等に於いては,先例に任(まかせ)て,仕之を勤め,御代官の所勘(しょかん)に随うべき也,仰せに依って下知件の如し。
 嘉暦二年三月十二日    御代官願仏(花押)
                  御 使 廣氏(花押)

(注)沙弥とは,出家して未だ正式の僧になっていない男子をいう。

三日月冴える霜月の   天羽 達郎

 山形に本店を置く一品堂という酒屋がある。チェーン店が鹿児島,宮崎にある店だ。どこで私の名前を知ったのだろうか2年ほど前から電話がかかってくる。美味しいお酒の蔵出しがあるから買えという。まあ試しにと買ってみたら少々高いが大変うまかった。そしたら鹿児島宮崎からは焼酎を買えと言う。次々と季節ごとに電話が掛かってくる。山形の本店は特定の人だが,他の店は複数の人が電話をするらしく,買ったばかりなのにまたすぐかかってくる。うっとうしくなった。今年の10月,山形からかかって来た時,頭に来たので,徳島はまだ暑くってしょうがない,まだ蛙がゲクゲク鳴いているんだ。涼しくなったら買うよ!
 先日とうとう山形の誘いに乗った。それは夜空に刃物の様な冷たい三日月を見てしまったからだ。

 熱燗がそろそろ旨くなりそうだ
        三日月冴える霜月の夜

Dej-u-av       サイトウ シゲジ

昨日もあいつがやってきた
勤めはじめたばかりの会社の机の上だ
単なる妄想ではないことは自分でも分かっている
あいつはおれがそこで生きてきたことを知っていて
おれを呼び戻しにやってくるのだ
あいつのやり口は巧妙だ
あいつの見せるカードは全てがほんものでにせものだ
ちょっと見たくらいでは見分けがつかない
現実と妄想の境目の上を
カミソリの刃のような薄い切り口で丹念に刻んでくる
おれは奴の見せるカードが偽物とは思っているが
しばらく見つめているとそれも曖昧になってくる
やがて自分の座っている椅子さえもが現実感を失って
ゲームや物語の中の小道具のような気がしてくる
おれはこのままでは到底家に帰るのは難しいだろうと思いはじめる
他人に話せば狂っていると思われるだろうが
狂ってしまう前におれはどちらかを選ぶことを迫られる

こんな話を誰かにすると大方の人には分かってもらえない
でもそんなことはどうでもいい
これはおれの問題なのだ
わかって貰えたってどうにもならないし
こたえがおれを救ってくれるという保証はない
こたえが出た途端
おれがこの世からいなくなる事だって考えられる

あいつがやってくるようになってから何年経つだろうか
おれがまだ狂っていないのは
おれがまだあいつを信用していないからなのかもしれない
誰もいない夕暮れの道ばたであいつはおれに声をかけるだろう
まことしやかな誘いの言葉は
おれの心をくすぐりながらかすめていく
おれは誰にこわれてこの世界に生まれてきたのか忘れた
おれはもっと幸せに生きても良いはずだった
見慣れた雑踏の中を遠い旅人のような足取りで歩きながら
おれは自分の存在を憐れんでいた

                中村 修

木屋平三木家の伯父から学んだこと(2) 天田 弘之

 私が絵に興味を持つようになったのは小学校(当時は国民学校)2・3年の頃からであった。三木家の母屋の西に『新家』があり伯父はそこをアトリエにしていた。壁には風景画や人物画の油絵がぐるりと掛けてあった。
 国民学校時代は戦時中で,学校教育もすべて軍事一色で本当の意味での芸術教育は完全に抹殺された時代であったと思う。私が絵を好きになったのは,学校教育によるものでなく,まさに三木家のアトリエからだった。そこで絵を見た時の感動が激しく印象に残っている。“伯父さんがこの絵を書いたのか”とおどろきと絵の美しさに見とれ,部屋の中は油絵の具と画架とキャンバスが置いてあり絵の具の臭いがしていた。三ツ木へ行くと絵を見るのが楽しみだった。従兄弟と一緒にその部屋で寝泊まりもした。少年の頃は伯父が絵を描いている姿は見ていない。中学3年になって自画像を鏡を見ながら描いているのをはじめて見た。私はわくわくしながら邪魔にならぬよう間をおいて見にいった。次第に似て来た絵が生き生きとしていた。今も部屋の棚にあると思う。伯父と一緒に風景を描いたのは大学時代だった。
 私は伯父のアドバイスで徳大学芸学科の中学課程(美術科)に入り,卒業後県下の中学校で美術教育を担当した。学校での美術の学習は生徒と一緒になって作っていく共存の喜びがあった。私の“美術教育指導法の研究”が,『美術教育大系(7巻)』学芸書林や『中学校美術教科書の教師用指導書』東京書籍に掲載された時に誰よりも喜んでくれたのは伯父であった。
 振り返ってみると,私の就職が決まった時,いろり端で「人生で大事な節目が3つあって,その第1は職に就くことだ。わしは一つ安心した。これで下々が救われる。県内で勤めるので天田家のこともお前がみえる。しばらくは辛いが人間は根性が大事,そろそろでいい,ねぼう生きること,自分に希望を失ったらあかんぞ。時々は絵を描く時間を持てよ。」と話してくれた。
 年月が過ぎていつだったか忘れたが,「皆生きるため職業に就く。いかにその仕事がよかっても仕事は仕事,定年という区切りがある。もうこれで置こうと。だが,『芸』の世界は生涯現役じゃからな,死ぬまで絵は描けるぞ」と。……なるほど! 私は美術の教員をしてよかったと伯父に感謝している。絵のこと,芸術については別の機会に書きたい。

今も昔もただ有るもの   大西 時子

 最寄りの運送会社の窓口で宅急便の手続きをしたあと,来年からお借りすることになる隣町の集会所の下見に行ってきました。
 地元の方にお尋ねして「八幡さん」の前にあるその建物が確認でき安堵して引き返してきました。
 勾配のややきつい石段を見上げると木々に隠れた古いお社が,端然と鎮座していました。
 両脇の石垣も風情があります。
 ちょうど七五三参りのおめかしした女の子とお母さん,他に数台の車が停まっていました。
 いいですね。そこだけ「ぼっ」と流されない時間がとまっている。そこには神代から天人が交流して来た「場」がある。
 その「場」の波動を感じているのでしょうか。なにか「癒し」が心に広がります。
 さて,昨夜は徳島古事記研究会。
 やや肌寒くなった11月。公民館の和室です。
 発足当初,私一人であった女性が今は四人。
 それぞれの感性が情緒をかきたてます。
 古事記上巻,オホナムヂノ神(大国主命)が八十神の迫害を逃れて根の堅洲国(美馬)にいるスサノオの命を訪ねる場面。
 またここでもさまざまな試練が待ち受けています。
 試練を克服したオホナムヂノ神は,スサノオの命の娘スセリビメを正妻とし,大国主の命として出雲を治める大神さまとなっていきます。美馬,上勝,阿南ルートで長の国に入る大国主の命の足跡を辿りました。
 やがて,古事記から,神道・キリスト教・仏教とお話は白熱して行きました。天御中主命の定義。イエス様,お釈迦様。
 古事記研究会が古事記の歴史的側面(体素)からその裏側に折り重なるように現在,未来永劫に流れ行く真理(霊素)に触れた初めての機会でした。
 神代から今上天皇迄,日本の王家が伝え来たものとは,また私たち日本人が承認し無意識に支え来たものとは一体何なのでしょう。
 混沌と揺れる世相の中で私たちがまさに「今」気づかなければならない大切な真理が今も昔も変わりなくただ,ただ静かに有る,そんな気がした事でした。