」のについて     天田 弘之

 阿には意味があり,サンスクリット語(梵語)では,「 阿字 ( あじ ) 」を広辞苑でみると,『梵語の第一字母。密教で「阿」字は万物の根源であり,不生不滅の原理を象徴的に表現するとされる。梵字(ア)(法名の頭に記す)の音訳とある。』
 ついでに童子童女には,(カ)とするとある。
 数年前に必要があって僧侶から教わりもした。概して阿波の名称には意味深いものがあるなあと思っている。「波阿波」の冊子を見ていて,とりとめもないことを書いてみた。

息子の新たな挑戦!!〜ミシン編〜
               澤田 織世

 我が家の子ども達にとって,最も楽しい遊びは,日々の生活の中にある様々な仕事です。
 いつも様々な事に興味や関心がある息子。そんな息子は,これまで料理や掃除,洗濯といった基本的な仕事はもちろん,トイレ掃除やアイロン掛け等,幼い子どもには少し難しいかなと思うような仕事もチャレンジしてきました。
 この間は,私がピアノ用の踏み台を作る為に大工をしていたその横で,息子は小さい椅子を作っていました。
 今回は,お弁当箱の袋とエプロンを息子と一緒に作ることにしました。
 学校でミシンを習い始めるのは小学5年生からなので,息子には危な過ぎるかなと思いましたが,どのようにして物ができるのかを知る良い機会だと思いました。
 息子はミシンの使い方を興味津々に聞いていました。そして,直線縫いのところを一番遅い速度で慎重に縫いました。何度もはみ出して縫い直しをしましたが,なんとか完成しました。
 ミシンを使うことで早く物を作ることができる。ミシンはいろいろな縫い方ができる。一枚の布が様々な過程を経て,いろいろな物に変身していく・・・。この体験を通して,息子もきっと何かを感じてくれているのではと感じます。
 このように,我が家の子ども達が様々な仕事に興味をもち喜びを感じられるのは,小さい頃から祖父母と一緒に田んぼや畑に連れて行ってもらったからだと感じます。
 子ども達に働く事の大切さ,そして楽しさを教えてくださった祖父母に本当に感謝です。

ミシンは,あぶないけど楽しい
文・絵 鳥取第一幼稚園 年長組 澤田 優志

 この前,ぼくは初めてミシンを使いました。
 最初は,練習でお弁当袋を作りました。なぜかというと,ぼくのお弁当箱が大きいお弁当箱になったからです。
 今度はエプロンを作るために,ママと一緒にお店に行って布を買いました。ぼくはスマイルくんの布が迷路をしているみたいで楽しそうだったのでこれにしました。
 ママが新聞紙で型紙を作り,布を切って,アイロンで折り目を付けてくれました。
 ミシンで縫う時,ぼくは両手で布を押しましたが,まっすぐにいったりいかなかったりしました。端っこはミシンを前に縫ったり後ろに縫ったりしました。指をはさみそうでちょっと危なかったけど,落ち着いてしたら危なくなかったです。難しいところはママが縫ってくれました。
 できあがったエプロンは,ドレスみたいに長かったですが,大きくなっても使えると思いました。パパもママもよく似合っていると言ってくれました。
 そして,エプロンを着てパパと一緒に料理をしました。何を作ったかというと,おみそ汁です。
 ぼくは,野菜を切ってお鍋に入れました。その後に,洗い物もしました。
 おみそ汁の味は,ネギが少し苦かったですが,にんじんが甘くておいしかったです。
 今度は,何を作ろうかな。おしまい。

聖書読書会を閉じる  石渡 修司

 「ドクターエンドーに行きましょう。毎月,聖書の読書会をしています」,前任牧師のバーバラ・エイキンズ先生の言葉に緊張した。「病院で,聖書の学びをしているのですか」「いいえ,違います。すぐそこですから,行きましょう」
 “百聞は一見に如(し)かず”である,案内されて,青汁を飲ませるお店だと分かった。社長の三村隆範氏に紹介された。
 それから,足掛け5年になる,毎月,聖書読書会は続けられた。三村社長と私は皆勤だった。
 普通,このような会では,聖書を読んだ後に,解説を私が行う。初めの頃は,そのように行っていた。しかし,今では,何の解説もしていない。読み終わると同時に,議論が始まる。
 三村社長の語るところは,含蓄が深い。だから,黙って,拝聴する。少しずつ,言わんとするところが分かってくる。人情の機微に触れ,人の本質を突くことから,宇宙の真理に至るまで,縦横無尽に飛翔する。それらが,聖書の裏付けをとって語られる時,牧師である私も太刀打ちできない。
 ただ私が語れるのは,「イエスさまは,三村さんのために十字架に架かられました」と言うことだけでした。
 しかし,三村社長から学んだことは,多く,私が三村社長に伝えたことをはるかに超えている。良い学びの場が与えられたことを感謝している。今月(12月)で,この学びが閉じられることになる。参加してくださっていた方々にとっても残念なことだが,やむを得ない。「何事にも時があり,天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉3:1)のとおりである。三村社長に感謝し,出会いを与えてくださった主に感謝しつつ,この会を閉じる。
 「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」マルコ10:45

最期に輝く人生     石渡 路子

 今年は,教会に繋がる方で,三人の方を天にお送りしました。それぞれの方の最期に深いお交わりをいただいたことに,神さまの導きを感じました。
 信仰に距離をおき,傍観者として歩んでおられた方が,人生の終わりに,信仰を持つことができ,聖書の言葉と賛美歌に安らぎを感じつつ,天に召されて行かれたこと。
 元気な頃は,死を意識することもないでしょうが,体も衰えるにつれ,心も弱くなっていきます。孤独の中で死を迎えようとする時,不安と恐れで心が一杯になります。その悲しさに圧倒され,赤子のように泣きじゃくるしかありません。そのようになったとき,肩を抱き,手をとって,お話しすることで,落ち着きを取り戻してくださったこと。
 食事もとれず,寝たきりになった方が,聖書の話と讃美歌を聞くことで,起きあがられ,元気を取り戻され,家族との最後の会話を交わすことができたこと。
 それぞれに最期の時が輝いていました。そのように,神さまはそれぞれの終わりに,輝く時をご家族に見させてくださること,そして,私たち夫婦に立ちあう機会を与えてくださったことに神さまのご配慮を感じました。
 そのようなときに,ご家族の方々に神さまからの慰めが豊かにあることを知って,神さまに感謝しつつ,この務めにつく幸いを覚え,心からお祈りいたします。
 「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」箴言16:9