「あれ?」
鍵が掛かっているはずの玄関ドアが何の抵抗も無く開いた。
日曜日の午後、今日はこの家には誰もいないはずなのに。
今しがた下の事務所を覗いてきたが、きっとまた競馬で外しでもしたのだろう、付けっぱなしのテレビに、ビールの空き缶片手に酔い潰れるおっちゃんの姿があったし、蘭もこの時間はまだ園子の家にいるはず。昼食後、夕方まで定期試験の勉強をするからと、俺と一緒に家を出たのだから。
(蘭が予定より早く帰ってきてるのか……)
俺はいつものように、さも子供らしく声を上げた。
「ただいまー!」
が、いつもなら「おかえり!」と明るく返ってくるはずの声が無い。
おっちゃんが鍵を掛け忘れたのかとも思ったが、その考えはすぐに否定される。今日、出掛ける時に蘭が履いていた靴が目の前にあったから。
妙な胸騒ぎがした。
居間やキッチンを見渡しても蘭の姿は無い。
あとは、蘭の部屋。
逸る気持ちを抑え、蘭の部屋のドアを叩く。
相変わらず、返ってくるはずの声は無かった。
僅かな罪悪感を胸に、俺はそっとドアを開けた。
蘭は、静かに机に向かっていた。
俺は一瞬、話しかけるかどうか迷う。
その背中に、深い喪失感が滲んでいたから。
それでも俺は、声をかけずにはいられなかった。
「ただいま、蘭姉ちゃん……」
一瞬の間があって、蘭は驚いたように振り返った。
「あ、コナン君、おかえり。ゴメンね、気が付かなくって……」
涙こそ見せていないが、蘭は泣いていた。
少なくとも俺にはそう見えた。
締め付けられるような思いを胸に、俺はそれとなく探りを入れた。
「あれ? 園子姉ちゃんの家で勉強するんじゃなかったっけ?」
「うん、そのつもりだったんだけどね、急な来客があって、園子も相手をしなくちゃならなくなって、それで途中で帰ってきたんだ……」
と、蘭はぎこちなく笑った。
そう、それはガキの頃から変わらない、蘭の悪い癖。蘭は何かを隠している。
「僕の気のせいかもしれないけど……、蘭姉ちゃん、何かあったの?」
「え?」と蘭は目を丸くする。そして、僅かの間の後、困ったように笑った。
「ゴメンね、心配させちゃって。別に大したことじゃないんだ。ただ、子供の頃に新一とよく行っていたお店が、閉店しちゃってたことをさっき知ってね……」
不意に蘭の左手に握られているものが目に入った。
埋もれていた記憶が次第に蘇ってくる。
それは俺が昔、蘭の空手の試合での勝利のご褒美にと、町外れの雑貨店で買った不思議な色合いのおもちゃのブレスレットだった。
その雑貨店は阿笠博士が偶然見つけた店だった。
外観からして怪しげで、店主も無愛想、商品も世界各国から仕入れたのであろう、多種多様なものが売られていて、普通は子供が寄り付かないような店だった。
実際、俺が初めて訪れた時も、店主にいかにも怪訝そうな顔で迎えられたのだが、何度か通う内に、商品の一つ一つを丁寧に説明してくれるようになった。後になってわかったのだが、店主は単に子供の扱いに慣れていなくて、無愛想な態度になってしまったらしい。
その後、俺は蘭を誘って、その店に度々訪れた。蘭には見るもの全てが新鮮だったようで、商品を手にしては、いつも目を輝かせて店主の話を聞いていた。
俺が買ったブレスレットは、そんな数ある商品の中でも蘭が一番最初に興味を持ったものだった。
俺たちはその店に小学校を卒業するまで通い続けた。
「新一は知らないだろうけど、つい最近まで、時々遊びに行ってたんだ……」
「そのお店、蘭姉ちゃんの大切な場所だったんだね……」
自惚れなのかもしれないが、どこか悲愴さが滲む蘭の、その理由がわかったような気がした。
「あ、ゴメンね。そろそろ夕食の準備をしなくちゃね。コナン君、何が食べたい?」
「え? あ、まだいいよ。おじさんもまだまだ起きそうに無かったし。あ、そうだ! 僕も博士に借りていたゲームを返しにいかなくちゃ!」
「え、今から?」
「うん。今日までって約束だったんだ。ゴメンね、勉強の邪魔をしちゃって」
「ううん。それより、暗くなる前に帰ってきてね」
「はーい!」
俺は慌てて蘭の部屋を出て、適当なゲームを手に家を飛び出した。
博士の家に向かうわけではない。
向かったのは自分の家、自分の部屋。
俺が今、出来ることは一つだけだから――――
西日の射す部屋は、どこか余所余所しく感じた。
俺は小さくため息を零して。
しばらく開けられることの無かったキャビネットを、一気に引き出す。思っていた通り、それは一番奥の目立たないところで、そっと眠っていた。
ホッとして、フゥと大きく息を吐き出す。
久し振りにベッドに横たわって、携帯の短縮ボタンを押した。
コールは3回。
「よぉ、蘭、元気か?」
「し、新一!?」
「そんなに驚くことないだろ?」
「あ、うん、ゴメンね。こんな時間に新一が電話してくるなんて珍しいから……」
「いや、大した事じゃねーんだけど、ほら、そろそろ試験だろ? どこまで授業が進んでるのか、ちょっと気になってさ……」
「そんなこと気にするくらいなら、さっさと戻ってくれば良いのに!」
「それはそうなんだけど、そうも簡単にいかなくてな……」
「そう、だよね……」
電話越しに、蘭のため息が聞こえたような気がした。
「何かあったのか?」
「え?」
「声に元気が無いみたいだからさ」
「ここはさすがねって言っておくべきなのかな?」
今度は俺の耳にもはっきりとわかるように、蘭のため息が聞こえた。
「ねえ新一、覚えてる? 小学生の頃に一緒によく行った、町外れの雑貨屋さん」
「ああ、あの風変わりな親父がいる店だろ?」
「うん。あのお店、先週閉店しちゃったみたいなんだ……」
「そっか。あの親父、ゆくゆくは南の島でのんびりと暮らしたいとか言ってたからな……」
我ながら下手な誤魔化し方だった。
そのまましばらく沈黙が続く。
「そうだ蘭、覚えてるか? 確か5年の時だったと思うが、俺が消しゴムを忘れて、蘭に借りたことがあっただろ? その消しゴムっていうのが、あの店で見つけたライオンの形をしたやつでさ」
「あ、うん、覚えてるよ。凄くカラフルな色のだよね?」
「ああ。それで、その消しゴムを貸してくれたはいいけど、いざ使おうとすると、オメーがライオンが可哀想とか何とか言うから、結局、使えなくて……」
「あれ、そうだっけ?」
電話越しに、蘭がようやく笑った。
釣られて俺も笑って。
「そういえば、確かその消しゴム、返してもらっていなかったような……」
「ああ、あの時、午後からの体育の授業で俺が怪我して、そのままうやむやになっちまっったんだよな」
「そうそう。ねえ新一、まだ持っていたりは……、さすがにしないよね?」
「たぶん、あるんじゃねーかな」
俺は手の中の色褪せないライオンを見つめた。
(捨てたりするわけないだろ? 蘭が気に入ってたやつなんだから)
「ねえ、新一?」
「ん?」
「まだ戻って来れないんだよね?」
「ああ、もう少し時間が掛かると思う」
「だよね……」
「ったく、なに感傷的になってるんだよ?」
「え?」
「なあ、蘭、オメーのことだから、俺が買ってやったブレスレットを今でも持ってるんだろ?」
「う、うん……」
「店は無くなったかもしれないが、そこで買った物は蘭の手にも俺の手にも残ってる。仮にその物が無くなっても大切な思い出は消えたりはしない。自分でそう望まない限りは。そうだろ?」
「うん」
「それに……」
「それに?」
「あ、いや。まあ、何と言うかさ……、蘭、心配するな。必ず戻るからさ」
「うん……」
そのまましばらく他愛も無い話を続けて。
いつの間にか、部屋全体がオレンジ色に染まっていた。
アイツの笑顔をいつまでも見続けていたい。
それは、子供の頃からずっと変わらない願い。
それなのに、時に俺がアイツを苦しめている現実。
電話を切って、手の中のライオンを夕日にかざした。
その手があまりに小さくて、今、自分が蘭に出来ることの少なさを改めて実感する。と同時に、心底、自分の不甲斐なさを恨んだ。
思わず躊躇い、言えなかった。
「それに、俺たちには未来だってある」と。
人は思い出だけでは生きられない。
けれど、思い出の無い人生など寂しく、つまらないものものなのだから。
俺との未来の出来事も忘れられることのない思い出となって欲しい。
それはわがままな願いなのだろうか?
窓越しの空が藍色へと移り変わろうとしていた。
手の中の“思い出”を元の場所に戻し、本来の自分の家を後にした。
Influenced song : WEEK END 〜 『 THE TWILIGHT VALLEY 』
by GARNET CROW
最初にこの曲を聴いた時、思わずコナンの姿が思い浮かんだんですよね。
その時からイメージはずっとあったんだけど、いざ小説にするとこれほど苦労するとは…………
この曲に出会い、今回のこのミニアルバムを書こうと思ったわけですが、やたらと時間が掛かってしまいまして、本当にすみません。