ドーナッツのリング

「よくこんな時間に、おじさんやおばさんが外出を許してくれたな?」
「うん。二人には少し悪いことをしたかなって思ってる……」

自分たちの結婚式を翌日に控えた夜、私は新一の運転する車の助手席に座っていた。
きっと新一は全てをお見通しなのだろう。「今すぐ会いたい」と呼び付けておきながら何も言わない私に、時々、困ったような微笑を返すだけでそれ以上は何も言わず、米花の町を走らせていた。

嫁ぐ日の前夜なのだから、両親に今までの感謝の気持ちとか言うのが普通なのかもしれない。けれど、朝からずっと陽気に振舞っている、湿っぽいことが苦手なお父さんのことを思うと、素直に言葉にする自信がなくて。明日、たくさんのありがとうの気持ちを綴った手紙を、二人に気付かれないようにそっと残しておくことにした。その代わり、今夜は心づくしの料理でお父さんとお母さんをもてなしてみたのだけど。そんな私の気持ちを察してくれたのか、二人とも何度も「美味しい」と言ってくれ、久しぶりに笑顔が絶えない夜だった。

まだ学生である私たちが結婚したいとお願いして許してもらったその日から、最初は驚きや困惑もあったけれど、二人はいつだって不安そうな表情を見せたりはしなかった。
今夜だってそう。突然、「これから出掛けたいんだけど」と言った私を、止めないでくれて……

手塩にかけて育ててきた一人娘が明日には嫁ぐ。
毛利蘭として過ごす最後の夜。

特にお父さんは、少しでも長く一緒に過ごしたいと思っていたと思う。それでも、寂しそうにぎこちなく笑って、「せめて、アイツに迎えに来させろ」と送り出してくれた。

子供の頃からの夢だった。
淡い憧れが、いつしか確固たる思いに変わっていた。
一度だって新一との結婚を迷ったことなど無い。
迷う必要すら無かったのだから。
それなのに――――

夕食後の後片付けも済ませ、その後の団欒の中で、今までに経験したことの無い不安に襲われて。
ワガママだとわかっていても、どうしても新一に会いたかった。
この不安の拭い去ってくれるのは、新一しかいないから。

週末だというのに車も人も疎らで、いつになく静かな夜だった。

車は米花町をくまなく巡るように走っていた。
学校、公園、図書館に美術館や博物館、大きな通り、小さな通り・・・

「あれ? もしかして、新一!?」
「ああ、まあな」
と、新一はやっぱり微笑むだけで、それ以上は何も言わない。

ただ適当に車を走らせているのだと思っていた。それなのに。
一緒に通い、学んで遊び、何度も通い、冒険だと縦横無尽に廻った数々……。
目に映るもの全てが二人にとって馴染みのある場所だった。

米花町を一通り巡ってから、車は提無津川の河川敷公園で停まった。

「新一?」
「この時間なら、人も車を滅多にここには来ないからな」

得意げな笑みを浮かべてウィンクしてみせる新一に促されて、車を降りて近くにあったベンチに腰を下ろす。月明かりに照らされたサッカーグランドを眺めていると、子供の頃の記憶が鮮やかに蘇ってきた。

「小学生の頃、毎日のようにこの公園でサッカーしてたよね? 新一」
「ああ。そして、蘭もいつもこんな風にベンチから眺めていた、と」
「うん」

あの頃からずっと、私は新一の姿を追いかけていたのかな?

「なあ、覚えているか?」
「え?」
新一は前を見据えたままで。

「そう、ちょうど今くらいの季節だな。いつもと同じようにここで練習してたら、急にどしゃ降りの雨が降り出してさ」
「あ、それなら覚えてるよ。たしか、雲一つ無い青空だったのに、急にスコールみたいな雨が降って……」
「夏でもないのにな。それで、蘭に先に帰るように言ったのに、オメーは帰らずにそのまま待ってて、結局、二人ともずぶ濡れになってさ」
「だって、新一が雨に濡れながら片付けとか一生懸命に頑張ってるのに、私だけ帰るのは悪いって思ったんだもん。でも、そのせいで新一、お父さんとお母さんに叱られちゃったんだよね」
「まあな。今だから言うけど、実はあの後、家に帰ってからも母さんにこっ酷く怒られてさ、『女の子を雨に濡らすなんて、男の子のすることじゃないでしょ』って」
「え、そうだったの?」
「まあ、それもこれも、良い思い出って奴だな」

無邪気だったあの頃を思い出すと、身体の真ん中が優しい色に染まっていくよう――――

「やっと笑ったな?」
「え?」

その真っ直ぐな瞳からは逃れられないのね?
最初から、逃れられるなんて思っていなかったけれど。
逃れるつもりなんてなかったけれど……

「おじさんに、『今からでも結婚を止めてもいいんだぞ』とでも言われたとか?」
「え? あ、うん、それはいつも言われてるから」
「そっか……」
新一は僅かに眉を顰めて苦笑して。私も釣られるように苦笑を返す。

「まるで迷い子のような目だな」
「え?」

その柔らかな笑顔に、胸が軋む。
ごめんね、こんなに日にまた心配かけちゃって……

「後悔、してるとか?」
「ううん、そんなことないよ。ただ……。ただ、ちょっと、不安になっちゃって……。新一の奥さんになる自信が無くなっちゃったみたい……」

「気負う必要なんてないさ」
「え?」
「今までに笑ったり、泣いたり、怒ったり、それこそ色々なことがあって、困難も乗り越えてきたから、今の俺たちがあるんだろ? これからだって同じさ。確かに、名前や住む所とか変わる面もあるけど、俺たちの関係には変わりはない。大丈夫だよ、蘭。不安になったら、今までのことを一つ一つ思い出してみれば良いんだから」

優しく髪を撫でてくれる手が何よりも暖かく感じた。
いつだってそう。新一は泣いている私を励ましてくれて、自信を無くして立ち止まった私に、そっと手を伸ばしてくれて。

「それに、あんなに意地っ張りだったオマエが、こうして素直に弱音を吐けるようになったってことは、それだけオメーが成長したってことだしな」
「その一言は余計じゃない?」

自然と笑みが零れてしまう。
そっか。そうだよね。これからも新一に甘えて良いんだよね?

蜂蜜色の満月が水面に揺らめいていた。いつもはどこか寒々しい印象の満月が、今夜は優しく微笑みかけてくれているように感じるから不思議。

「新一って、ちょっと月に似ているかもね?」
「はぁ? あのさ、月っていうのは、太陽が父性の象徴とされるように、母性の象徴とされることを知ってて言ってるのか?」
「そういえば、前にそんなことを聞いたかも? でもほら、何となく、雰囲気というか、ね?」

新一は呆れたように苦笑し、そのまま肩に回した手でぎゅっと私を抱きすくめてくれる。

ねえ、知ってる?
こんなに人の腕の中で安心できるのは、新一だけなんだからね?

「私も新一の支えになれるかな?」
「それは愚問ってやつだよ、蘭。今の俺があるのは蘭がいてくれたから。これからもそれは同じで……」

そっと唇を重ねるだけのキス。
私の一番の精神安定剤だって知ってるから?

不意に、携帯の着信音が鳴って。

「そのメロディーは家からだよな?」
「う、うん」
「この歳になっても、こっ酷く叱られたりして」
「大丈夫じゃないかな、たぶん……」

Influenced song : ドーナッツのリング 〜 『 桜 』   by 川本真琴

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うーむ、完全に堅苦しい病が再発してますね……。
しかも、このシリーズは短編のハズなのに、無駄に長いし……(苦笑)。

この曲は川本真琴が結婚する友人のために作った曲だそうです。
留意の知りうる限り、この曲ほど結婚式に相応しい曲はないんじゃないかな?
とても繊細で素敵な曲なんですよ。その雰囲気が出ていれば良いのですが……

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