連休も後半戦。穏やかな陽光が降り注ぐこの日、杯戸町を歩く工藤新一は不機嫌だった。
「なんでオレがオメーの買い物に付き合わされなきゃなんねーんだよ?」
「だって、新一のお母さんからお願いされているんだもん! お休みともなれば、寝食も忘れて読書に夢中になる誰だかさんを外に連れ出してって!」
いつまでも不満な表情を隠そうともしない幼馴染みを時より振り返りつつ、前を歩く毛利蘭はご機嫌だった。
この日、昼過ぎにあえて予告なく新一の家を訪れた蘭は、あくびをしながら現れた新一の姿を見て、笑いを堪えることができなかった。あまりにも蘭の予想した通りの新一の姿だったからだ。
ゴールデンウィークの後半の5月4日。去年までと同じであれば、この連休中も部活漬けの日々であったはずなのだが、今年はバスケットボール部の大会が二人の通う帝丹中学で行われることになった関係で、他の部活動は連休の後半を休みにしていた。新一と蘭が所属するサッカー部および空手部も例外ではなく、休みも二日目となったこの日、こちらも予想通り未だ済ませていないと言う新一に昼食を用意し、食べさせてから、蘭は半ば強引に自らの買い物に同行させたのだ。真の目的を心の内に秘めたままで。
「せっかくのお天気なんだし、お出かけしないともったいないでしょ?」
振り返り、淡い水色のシャツワンピースをの裾を翻しながら、蘭は屈託なく笑う。
ここの所、制服とジャージと空手着姿しか見ていなかったからか、今日の蘭の姿は新一にはやけに眩しく映っていた。それも何だか面白くない気分に拍車を掛けていた。すれ違う男どもが、やたらと蘭の方に視線を寄越すからだ。
(ったく、無防備なのはいくつになっても変わんねーんだから)
不機嫌な表情の裏に隠された新一の思いを、蘭は知る由も無かった。
不意に、軽やかだった蘭の足取りが止まった。
「ごめん! ちょっと寄って行っても良い?」
言って、向けられた視線の先にあったのは郵便局だった。新一の返答を待つでもなく、蘭は自分のバッグを漁りだした。
(予告なく押しかけて来るくらいなら、事前に金くらい下しておけよ!)
つい、口に出しかけたが、我慢した。蘭が手にしていたのは、振込用紙だった。
「お父さんのなんだけど、出掛けに見つけてね。本人に任せておくと、支払期日に間に合うかどうか、怪しくなっちゃうでしょ?」
苦笑いを浮かべる蘭に、文句など言えるはずがなかった。
(これじゃあ、どっちが保護者なんだかわかんねーよな)
連休中だからだろうか? 思いの外、ATMコーナーは空いていた。そこにいたのは、既にATMでの操作を終えたのであろう、通帳を確認してからバッグにしまう様子の老婦人と、今まさにATMの前に立ったショートカットの若い女性と、その胸に抱かれた1歳になるかならないかくらいの男の子だけだった。
母親は左腕に息子を抱え直すと、残された右手をトートバッグに滑り込ませ、器用に通帳を取り出す。
蘭が振込金額を用意する間、新一はそんな親子の様子を、ただぼーっと見つめていた。
「あの、もし宜しければ、ATMの操作中だけでも、お子さんを抱っこしますけど?」
遠慮がちに言われた蘭からの唐突な申し出に、振り返った母親の表情には驚きの色が隠せなかった。それは、用を済ませて出口に足を向けていた老婦人にとっても、そして、蘭のすぐ隣にいた新一にとっても同様で、やはり驚きの様子を見せていた。
「えーと、あの、もちろん、見ず知らずの、まだ中学生の私なんかに、僅かな時間とは言え、大事なお子さんを預けたくなんかないと言うのでしたら、無理強いはしないですけど」
蘭の声のトーンが更に弱くなる。よくよく見れば、母親はまだ20代前半くらいだろうか。ぎこちないながらも、年相応の笑顔に変わった。
「ありがとう、とっても助かります」
蘭の表情が一気に明るくなる。
「悪いけど、新一、お願い!」
蘭は手にしていたバッグと振込用紙とお金を手渡した。
男の子はされるがまま、おとなしく母親から蘭の腕の中に収まった。母親の顔に視線を残したまま、きょとんした表情ではあるが、嫌がる様子は見せなかった。
「その子、結構重いでしょ? なるべく早く済ませるから!」
「私なら大丈夫です。これでも鍛えているんですよ」
言って、蘭は笑う。母親は蘭の言葉の意味を図りかねていたが、蘭の心遣いに笑顔を浮かべることで返した。
「それより、お子さんのお名前を聞いても良いですか?」
「あ、うん、えーと、悠馬、です」
「初めまして、ゆうま君。私は、らんって言います。ほんのちょっとの間だけど、よろしくね?」
蘭に笑いかけられ、悠馬は母親から蘭へと視線を移す。その表情はまだ、きょとんとしたままだった。
意外にも慣れた様子で乳児を抱えるそんな蘭を姿を、新一は不思議な思いで見入っていた。
「1歳くらいかな?」
いつの間にやら、老婦人が近付き、悠馬を覗き込んでいた。
「あ、はい、来月で1歳です」
「そう。健康そうだし、人見知りもしないようだし、上手に育ててるのね」
「上手かどうかはわからないけど……、ありがとうございます」
母親はATMの操作を続けながらも、照れくさそうに笑った。
「上手と言えば、蘭ちゃんと言ったかしら? 貴女も若いのに、抱き方が上手ね? 兄弟でもいるの?」
「いえ、一人っ子ですし、親戚とかも特には」
「そうなの。だとしたら、天性のものかしら。将来が楽しみね?」
突然、視線を向けられ、新一は慌てた様子で否定する。その声に、蘭の声が重なった。
「僕たち、そんなんじゃないです!」
「私たち、そんなんじゃありません!」
二人ともにその語気は強くなった。
突然の頭上の大声に、悠馬の表情が一変して紅潮する。蘭が慌てて体を揺すったり、頬をさすったりして、悠馬をあやしにかかった。
「ごめんね、ビックリさせちゃって。もう大丈夫だから、ね?」
すぐにも泣き出しそうだったが、蘭の必死のお願い?もあってか、どうにか落ち着きを取り戻していた。
そうこうしているうちに、母親の操作も終わったようで、その両手が差し出された。
「おかげて助かりました」
「いえ、ゆうま君が本当にお利口さんで、ママ思いの良い子でしたし、私は何も」
「ううん。本当にありがとう。貴方もね?」
「いえ、僕こそ何も」
母親に元に子供が戻ったことを確認し、老婦人は一足先に郵便局を後にした。
そして、今一度、蘭と新一にお礼の言葉を述べると、親子もまたその場を立ち去った。出口で振り向きざまに、すごくお似合いだと思うんだけなぁ、という言葉を残して。
「小さい子供って、どうしてあんなにぷにぷにしていて、可愛いんだろうね?」
郵便局を出てからの蘭は、先ほどにも増して上機嫌だった。同意を求めるでもなく、相も変わらず、屈託なく笑う。幼い頃から変わらないその笑顔に、新一の仏頂面も長くは続かなかった。
「蘭に、あんな取り柄があったとはなぁ……。それこそ、オメーの周りには、赤ん坊とか、いないはずだろ?」
「まあね」
新一は蘭の交友関係に関しては、そのほとんどを把握してると自負している。新一の知る限り、近所にも友人関係にも、小さな子供の存在は無かったはずだ。空手部の顧問が新婚だということは知っているが、子供が生まれたなどという話は聞いていない。蘭の父親の探偵事務所に、子供連れの依頼人が来るとも、到底思えなかった。
新一が何やら推理を始めたらしいことを確認し、蘭は苦笑する。ようやく収まった不機嫌を再発されても困るので、蘭はあっさりとネタばらしすることにした。
「今って連休中でしょう? うちの部の後輩の子の家に、去年子供が生まれたその子のお姉さんが帰省していて、この間、後輩を迎えに来た時に、その甥っ子さんを抱っこさせてもらったの。あの子も愛かったなぁ……」
新一はほんの数分前の悠馬を抱く蘭の姿を思い出し、思わず苦笑する。老婦人に視線を向けられた正にその時、ぼんやりと蘭の将来の姿を思い浮かべていた。図星を指された形となったからこそ、強い口調で否定せずにはいられなかったのだ。
「今日は付き合ってくれて、ありがとう。お願いついでに、さっき買った紅茶、新一の家で淹れさせてもらっても良い? せっかくのちょっと贅沢な紅茶だし、ここの方がポットとか、道具も揃っているから」
「オレ、コーヒー党なんだけど?」
「うん、知ってる。でも、きっとお父さんよりは紅茶の味もわかるでしょ?」
郵便局を出て向かった杯戸デパートでは、30分ほどしか過ごさなかった。そのまま、寄り道することなく工藤家に帰宅する。結局、蘭が新一を連れ出してまで買ってきたものと言えば、色違いの二枚のスポーツタオルと、有名な某英国ブランドの紅茶の茶葉だけだった。
部活が休みと分かった時点で、新一はこの連休中、母や蘭が予想した通り、読書三昧と決め込んでいた。その計画が唐突に破られ、それも、たったこれだけの買い物のために、貴重な半日もの時間を費やされたかと思うと、怒りというより呆れる思いにすらなるのだが、その反面、蘭の貴重な姿が見られたことで、どこか得した気分にもなっていた。
間もなくして、蘭が紅茶の用意を済ませて戻ってきた。手にしたトレーには、紅茶のみならず、白い箱とデザート皿とフォークとか一緒に並んでいた。
蘭が着席するのを待って、新一が疑問を口にする。
「蘭、それって……?」
「良かった! 気付いてなくて。さっき、新一のお昼ごはんを用意する時に、こっそり冷蔵庫に入れさせてもらったんだ」
言って、蘭が微笑む。紅茶をカップに注いでから得意げな様子で小さな箱を開けると、中にはガトーショコラが入っていた。
「昨日ね、頑張って作ったんだよ」
蘭は照れくさそうに笑った。
「それと……」
言って、蘭はソファーにおいてあったバッグから、先ほど買ったばかりのスポーツタオルの包みの一つと、メッセージカードを新一に差し出した。
「その様子だと、やっぱり忘れてたみたいだね、自分の誕生日」
「へ!?」
「今日は新一の15歳の誕生日でしょう? それを読書だけで終わらせようとしてただなんて……」
蘭は心底呆れたように言う。新一はようやく合点がいったのか、盛大にため息を零すと、蘭は堪えきれずにくすくす笑った。
「お願いだから、そのカードは私が帰ってから見てね。目の前で読まれると、さすがにちょっと恥ずかしいし……。何はともあれ、お誕生日おめでとう、新一!」
元々はATMのくだりだけで、拍手小話用にでもと思っていたネタなんですが、ふと連休中に思い立って、半ば強引に誕生日ネタにしてしまいました。
脳内イメージの新蘭はもっと可愛かったのに……、自らの筆力の無さに凹むばかりです…………。
ちなみに、もう一つのスポーツタオルは、お揃いのものが欲しかったとかではなく、単に、蘭ちゃんも気に入って、自分の分も欲しくなったので購入したという形です。新一はお揃いだと思い込むことになるでしょうが。