ほほに触れる冷たい空気がくすぐったくて、不意に目が覚めてしまった。
枕元の置時計を見ると、7時を少し回ったところ。昨夜は、ペンションのオーナーである佐伯夫妻の歓待もあって、すっかり夜更かしをしてしまい、今朝はゆっくりしようと新一とも話していたのに、結局、いつもより少し遅いくらいの時間に目が覚めてしまったようね。
隣りのベッドでは、新一が規則正しい寝息を立てている。
カーテンの隙間から零れる朝陽は細く、僅かなはずなのに、その陽光はとても力強く感じられて。新一じゃないけど、好奇心がうずくのか、まだ早いとわかっているのに、そぉーっとベッドを抜け出し、両開きのカーテンの合わせ目から、光の世界を覗いてしまう。
そして、目の前に広がる光景に、思わず、「うわぁ!?」と声を上げてしまった。
「ん!? もう朝か?」
(しまった!)
と心の中で呟いてみても、時既に遅し。
決して、怒ったりしないとわかっていても、まずは謝らずにはいられなくて。
「ゴメンね。起こしちゃったみたいで……」
申し訳ない気持ちで振り返ると、予想していた通り、まだまだ眠たそうな目で、苦笑を浮かべていた。
「晴れたみたいだな」
と、いつもよりずっと低い声の新一。のそのそとベッドを抜け出すと、私の手よりずっと高い位置でカーテンを掴み、一気にその一方を開けた。
「ほぉー、こいつは確かにスゲェ……」
光に目が慣れるのを待って、改めて東に面した窓の外を望むと、そこには、雪の白さと、溢れんばかりの朝陽と雲一つない青空、そして、常緑樹の緑と茶色だけで、人工的な色や光は、何一つ見当たらなかった。
「雪に反射しているから、こんなに眩しいんだな」
と呟きながら、新一はもう一方のカーテンも開ける。部屋に降り注ぐ朝陽が、ただただ眩しい。
「雪って、こんなに真っ白だったんだ……」
どれくらい、白い世界に魅入られていたんだろう?
「そんな恰好で窓際に立ってると、すぐに風邪ひくぞ!」
と、いつの間にか、着替えを済ませていた新一に、ブランケットを掛けられるまで、完全に魂を奪われていたみたい。
「ありがと」
包まれる温もりは、ブランケットのせいだけじゃないよね?
「これじゃあ、夜からどれくらい積もったんだか、見当もつかないよな」
「一面、真っ白だものね」
昨夜、幻想的な輝きを放っていた生木のツリーも、すっかり雪に覆われていた。
「ちょっと、下に行って、様子を見てくるわ」と新一。
「え?」と、困惑する私に、少しだけ困ったように微笑み返すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
一人、部屋に残されて……
とりあえず着替えて、簡単に身仕舞いも済ませて、光に満ちた部屋の中を見渡してみる。
サイドテーブルに置かれた、10年前に訪れた時と同じクリスマスツリーの存在が、何だか妙に心細く感じさせて。すっかり、陽光に負けてしまっているイルミネーションのスイッチを切ってしまった。
クリスマスツリーなんて、一人で見るものじゃないよね?
結局、10分以上は一人で時間を持て余していたのだと思う。
ドアを開けるなり、
「今にも泣き出しそうな顔してっぞ?」
と、私の顔を見る前から確信に満ちた、ちょっとエラそうな口振りの新一が戻ってくるまで。
一瞬、反論することも考えたけど、その余裕たっぷりの表情では、どうあがいても無理みたい。自覚は無いけど、もしかしたら、新一の言うように、泣きだしそうな顔をしていたかもしれないし。
不意に、新一の右手に乗せられたトレーに目を奪われる。ドアの影に隠れて、気付かなかったようね。ティーコジーがあるということは、紅茶なのかな?
「モーニングティーはいかがですか?」
と、今度はちょっとしたホテルのウェイターみたい。
「はい、頂きます」
釣られてしまったのか、考える間もなく答えてしまった。
ホント、新一って、こんな風に自分のペースに引き込むのは、天才的なんだから。
「ところで、それ、まさか新一が?」
「いや、さすがに、俺もそこまではな。佐伯さん夫妻が起きててさ。御主人なんて、雪の気配で目が覚めて、早速、除雪を済ませてしまったそうで、職業病だなって自分で笑っていたよ。昨夜から、10センチくらいは積もってったってさ」
「そんなに降ったんだ! じゃあ、その紅茶は奥様が?」
「ああ。俺たちがこの時間から起きてくるとは思っていなかったらしくて、朝食を8時半くらいのつもりで用意していたんだけどって言うから、その時間で構わないって答えてきたよ。それで良かったよな?」
「うん」
新一の右手にはトレーが乗せられたままで。眩し過ぎる窓を背にして、カウチに並んで座る。私がサーブするつもりで手を伸ばしたのに、「たまには、な」とその手を制されてしまった。目覚めてからまだ30分ほどなのに、今日は何だか新一に面倒を掛け通しのように思えて、さすがに恐縮してしまう。
私のそんな気持ちを知ってか、知らずか、普段はコーヒー派の新一が、慣れた手つきでカップにミルクティーを注いでくれる。その一連の動きが優雅にさえ見えてきて、ちょっと悔しく思ってしまった。
まず、ミルクをカップに注ぎ、砂時計の砂が落ち切るのに合わせて、ティーコジーからポットを取りだし、ストレーナーを使って紅茶を注ぐと、私の好みに合わせて、少しだけ砂糖も加えて。
「お待たせ致しました」
と、最後までスムーズな動き。
更には、どうぞ、ととびっきりの営業スマイルまで、向けられてしまって。
もう、完敗です。
温もりに満ちたミルクティーを口に含んでみる。
「オイシイ」
とても優しい味に、ふぅーっと溜め息が零れてしまう。自分でも自然と笑みが溢れるのがわかった。
そんな私の様子に、新一も安心したようで、穏やかに微笑みながら、自分用にと、ポットの紅茶を一気に注ぐ。新一はいつもように、ストレートを選んだようね。
新一がカップを口にするのを待って、私も一口、二口と飲み進める。
色の濃さに反して、強過ぎることの無い、ほど良い渋みに、甘さが抑えられた香り。クセも無く、どこかほうじ茶を思い出させるような感じもあって。
「何かちょっと、懐かしい味……」
と、思わず呟いていた。
「イングリッシュブレックファースト」
「え?」
「紅茶好きな、それも、ミルクティー好きなイギリス人が、朝から飲むのに相応しいようにブレンドした茶葉だな」
あれ、どうして?
今、何か胸が、ちょっと痛くなったような気が!?
「ロンドンのホテルで、飲んだんじゃねーの?」
「あ、うん、そうかも……」
そうか! そうだったんだ!
あの朝の、あの味なんだ!
だから……
新一が少し訝しがる様子で、私の表情を窺っている。気恥ずかしくて、その真っ直ぐな視線を受け止めることが出来ない。ほんのり甘かったミルクティーの味も、急に甘酸っぱくさえ思えてしまう。
「蘭!?」
ふと逸らした視線の先にクリスマスツリーを捉える。逃げ道が見つかったような気がした。
「さっきね。この部屋に一人でいるときに、クリスマスツリーは一人で見るものじゃない、なんて思ったことを思い出して……」
新一は私が誤魔化していることに気付いていると思う。
けれど、ただ穏やかに微笑むだけで。
「クリスマスと言えば、キリスト教圏では、主に家族と過ごすものだからな。コイツとも繋がるけど……」
と、視線を手元のカップに移して。
「イギリスでクリスマスツリーの風習を紹介したのは、ヴィクトリア女王の夫、ドイツ出身のアルバート公と言われているな。1840年にまず、ウィンザー城にツリーを持ち込み、48年に王室のクリスマス風景の挿絵が新聞で紹介されることで、最初は上流貴族に、その後、広く国民に浸透していた、とされてる。女王一家は、国民の目には『理想の夫婦、理想の家族』と映っていたから」
「ホームズが活躍したのもヴィクトリア朝だよね」
「だな」
完全に何かのスイッチが入ってしまったみたい。
自分で言いながらも、『イギリス』や『ヴィクトリア』というキーワードで、鼓動が速くなってしまう。
「そうそう」
と新一がいきなり立ち上がり、おもむろに2台のベッドの間のサイドチェストを開けた。取り出されたのは、ホールケーキが入るくらいの白い箱で、赤と緑のリボンと靴下型のクリップでラッピングされていた。
「中身は、昨日の食卓でも使われていたのと同じキャンドルリースだそうだ。良かったらお土産にどうぞ!ってさ」
昨夜の食卓で彩ったキャンドルリースのことは、私も強く印象に残っていた。ナチュラルドライの花や木の実の淡い彩りが、ロウソクの灯りとも相まって、とても穏やかで温かい気持ちにさせてくれて。
「リースを育ててくれたら嬉しいとも言ってた」
「リースを育てる!?」
「生葉ではないとはいえ、乾燥するにつれ、どうしてもやせていってしまうから、すき間に花や葉を差し込んで養生すると良いって。ボリュームが出て、味わいも生まれるそうだ」
そういえば、リースには、はじまりも終わりもない、すなわち、永遠を象徴していると、前にどこかで見聞きしたことがある。10年後にまた新一と訪れてくれるように、との佐伯さん夫妻の思いが込められてる、なんて思うのは勝手過ぎるのかな?
陽光は相変わらず力強く、振り返ると、窓の外では風花が舞っていた。
「ねえ、新一」
「ん?」
「また、ロンドンに一緒に行けるかな?」
新一は私の突然の問いかけに、少し驚いたような表情を見せたけど、すぐに、いつもの優しい、そして、私を何よりも安心させてくれる笑みを浮かべて。
「ああ。この1、2年の内にとはいかないかもしれないけど、そう遠くない未来に必ず!」
胸の鼓動は相変わらず速いままに、最後の一口を口に含む。
すっかり、冷めてしまっていたけど、その味はとても甘く感じられた。
正直、今回は自分で作った年表設定にかなり苦しみました。その影響で、当初、イメージしていたものとは、かなり違ってしまってます。
ちなみに、作中のミルクティーの淹れ方は、一応、英国王立化学協会の紅茶の淹れ方を参考にしました。イングリッシュブレックファースの味の方は、ほぼ留意の主観かな?