冬水田んぼの歴史(第2回) 卑泥田について |
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記録:平成16年 2月14日 | ||
掲載:平成16年 2月14日 | ||
大学の先生 秡川 信弘 | ||
前回、江戸時代に書かれた『会津農書』の中に、冬場、田んぼに水をかけることを奨めている記述があることを紹介しました。それでは、『会津農書』を書いた佐瀬与次右衛門は、どのような考え方から「田冬水」を奨励しようとしていたのでしょうか。 『会津農書』の記述は「田地位(=田の等級)」から始められています。まず、田の土の種類を「黄真土(きまつち)」、「黒真土」、「白真土」、「沙(砂)真土」、「野真土」、「徒真土」、「沙(砂)土」、「野土(のつち)」、「徒土(すつち)」の9種類に分類したうえで((2)18-19頁)、田の種類を「卑泥(ひどろ)田」、「陸(おか)田」、「薄田」、「湿田」、「天水田」、「谷地田」、「肥過田」、「新田」の8種類に分類しています((2)19-20頁)。 このうち、たとえば「真土」は「耕作に適する良質の土で、岩石の風化した壌土」とされています。つまり、土壌の生成過程や農耕上の利用特性から土壌の性質を把握し、それをわかりやすくするために、色などの見た目(黄、黒、白、砂、野(=火山灰))、手ざわりなどの触覚(「細かく軟らかい」「粗く硬い」)あるいは味覚(「甘い」「酸っぱい」)によって示したものと考えられます。 また、水も養分含量と比重によって「大河水」「堤水」「鶴沼川水」「湯川水」の4種類に分けられ、これらの個性豊かな土と水によって特徴づけられる水田という資源の能力を発揮させるための稲品種との組み合わせが論じられています。品種名がまた面白い。たとえば、早稲の「香(こうばし)」「鶴首」「八八日」「越後」「つぶれず」、中手早稲の「赤シネ」(赤米)、中稲の「禾ナシ三寸毛」「ヨテロク」、晩稲の「ゴンスケ」「金モリ」「サンスケ」「北国」「白シネ」「ヂモタズ」「イナ泉」「京ジヤウロウ」、糯(もち)稲の「田神」「シヤウモチ」「九戸」「糸モチ」「細葉」など、それぞれの特性を親しみやすい言葉の中で端的に表現するものとなっています。 田んぼの立地条件と稲品種との組み合わせについては、たとえば、平坦地の田んぼを「里田」とした上で、 「里田ニハ晩稲ヨシ。早稲ハ養沢山ニ入テモ出来カネ、取穀モ不足ナリ。暖気久シク、水モ温ニテ遅キ稲モ能登ルナリ。但山崖之冷水ヲ用ユル所、秋寒早キ年ハ晩稲不作スル事有リ。其所ハ中乎モノヲ作タルガヨシ。」 などと説明されています。つまり、平坦地は暖いので生育期間が長く、収量の高い晩稲が作れるとしながら、冷水がかかる田んぼは不作になる危険性が高いので中稲の方が安全だとしているわけです。その辺りに、立地や圃場の条件にかかわらず経済性の高い品種を選択し、それに適した施肥・病害虫防除などの栽培管理(自然の制御)方法によって高収量を上げようと考える現在の稲作技術との違いを見ることができます。 もちろん、『会津農書』には「自然」や「環境」などという言葉は出てきません。また、その執筆理由が米の収量向上にあることも明らかでしょう。しかし、お墓に埋葬された人の魂が年月を経て神の宿る山に還り、春になると豊かな水とともに田の神となって山から降りて来て自分達の稲作を守ってくれると、その時代の人たちが信じていた「神」や「仏」の現代語訳は「自然環境」なのではないでしょうか。与次右衛門さんが同時代人としてそういった宗教観や自然観を共有していたことは疑いのないところであるように思われます。 もちろん、そんな憶測で『会津農書』の科学性を否定しようというのではありません。「土」と「水」を稲作の基本と考える『会津農書』の視点については既に述べましたが、土の種類の記載順を畑土(=乾土)1升当たりの重さ(黄真土520匁/升(≒1.08g/cc)〜徒土370匁/升(≒0.77g/cc))の順とし(20-21頁)、和算に基づいて俵の作り方を説明している(89頁)点からも明らかなように、与次右衛門さんは科学の進歩に対する理解を示し、さまざまな自然現象に関する探求心に富み、論理性を重んじるタイプの方であったと思われます。 少し前置きが長くなりましたが、本題の「卑泥田」の話に入りたいと思います。『会津農書』では、「卑泥田」を「常に水灑(そそ)く故に、水と泥等し。此卑泥浅き深きの義有。浅卑泥ハ地の底堅、泥浅きなり。深卑泥ハ地底やわらかに泥深也。厥(その)上下ハ本の土の上下に帰て、漢にハ塗泥と言なり。」((2)19頁)と説明しています。この説明から一年中、湛水状態にある田んぼが想像されます。したがって、「卑泥田」を現在の用語に置き換えれば、「湿田」あるいは「強湿田」が相当するものと考えられます。ただし、そのように説明するとややこしい問題が一つ持ち上がります。それというのも『会津農書』の中に「湿田」という用語も使われているからです。「湿田」と「卑泥田」との違いをどのように説明すればよいのでしょうか。 『会津農書』における「湿田」は「地底清水有て常に不乾也。其位ハ下の下。」とされ、稲作上きわめて条件の良くない田んぼであると説明されています。『会津農書』で「下の下」とされている田んぼはあと2つあります。1つめは「谷地田」であり、「卑湿の地にして、自然の游泥(ひちり)深く泥濘(ぬかる)也。厥位ハ下の下。」とされています。残りの一つについては後から紹介したいと思います。 「卑泥田」と「湿田」や「谷地田」は立地条件や水がかりの点で良く似ているように思われます。しかし、「卑泥田」の等級が「本の土の上下に」帰するとされているのに対して、「湿田」も「谷地田」も「下の下」とされています。それは何故でしょうか。少し目先を変え、「卑泥田」という用語について見てみましょう。「卑」は、「たけの低い平らなしゃもじを手に持つさまを示す会意文字」であり、その意は「ひくい位にある」((2)182頁)と考えてよいでしょう。したがって、「卑泥田」とは常に水が流れ込むような低地にある田んぼを指すと考えられます。しかし、それではますます「湿田」や「谷地田」と「卑泥田」との違いがわかりにくくなります。 少々こじつけになりますが、「湿田」は「地底清水有て常に不乾也」、つまり用水がかかるのではなく養分含有率の低い清水が湧いている状態にある。また、「谷地田」の土は「自然の游泥(ひちり)深く泥濘(ぬかる)」((2)20頁)、つまり水に浮くような養分のない軽い泥である。両者とも養分不足のために稲が十分に育ちにくい田んぼであると解釈できるかもしれません。つまり、山林に降る雨や雪が土壌中に浸透した後に湧き出る扇状地の湧水帯に位置する田んぼ(湿田)も、それらが直接流入する谷間の田んぼ(谷地田)もそのままの状態では稲作に不向き(下の下))であるという理解のしかたです。 このように理解すると、水槽田んぼでの岩渕先生の観察実験の結果や菅原さん、遠藤さんの冬水田でのイトミミズ調査などから知り得た「トロトロ層」が思い起こされるのです。つまり、自然の立地条件の下では(あくまでも稲作上ですが)まったくダメな田んぼが何らかの生物的作用によって肥沃化して「卑泥田」に変化する。それによって土の状態が変化し、田の等級が上昇しうる(「厥上下ハ本の土の上下に帰て」((2)19頁)と説明されているものと推察されます。つまり、与次右衛門さんも「イトミミズが創り出すトロトロ層が田んぼの生物生産能力をその上限にまで高めうる」ことを経験や観察の結果として知っていたのではないでしょうか。だからこそ「田冬水」を奨めたとは考えられないでしょうか。 『会津農書』が「下の下」としたもう一つの田んぼは「新田」です。その理由は「新土にて田土の性未成也」と説明されています。また、別の箇所には、「新田ハ新土にて田の性に成かたし。年月経て陸土の性を失る。」とあり、このような解釈のしかたに近い説明が付け加えられています。温故知新。たとえば、現代への応用として基盤整備が済んだばかりの田んぼに田冬水をかけることによって早期熟田化を図ることなどは考えられないものなのでしょうか。 いずれにしても、冬の田に水をかける「田冬水」が「川泥がよいということから有機成分の多い水をかけると菌類の活性と、イトミミズ、ユスリカの発生が多いことを利用することを考えていたと予想されます」((1))という岩渕先生の解釈は当を得たものと考えられます。江戸時代の農家(100の分野の専門家としての「百姓」)が持ち得た、現実に根ざした幅広く深い視角を早く取り戻したいものです。 |
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