ストーリー
2005年6月19日放送 第二十四回「動乱の都」(演出:木村隆文) 義仲(小澤征悦)を説得する為に、単身義仲の屋敷を訪れた義経(滝沢秀明)だったが、義仲を説得できず失意のまま屋敷を出る。 帰り道を歩く義経は弁慶(松平健)と落ち合うが、巴(小池栄子)と兵達が現れ義経に襲いかかる。 しかし、そこへ義仲が馬で駆けつけ、兵達を引かせる。 義仲は義経は義高(富岡涼)の相手役だと巴を叱責し、義経に頭を下げ去って行く。 この頃、木曾勢の兵達の乱暴狼藉は収まることはなかった。 「衣服を剥がないだけ木曾勢より平家の方がマシ」との都の人々の声を、公卿達から聞く後白河法皇(平幹二朗)。 鎌倉の力を使うよう進言する丹後局(夏木マリ)だが、法皇はそれを義仲が気付いたら何をしでかすか解らないと答え、義仲と行家(大杉漣)の間に生じている亀裂を利用すると告げる。 寿永2年(1183年)10月。 義仲は、西国で勢いを盛り返した平家追討に出陣することになった。 平家を討てば、西国や東国、朝廷も自分のものと気勢を上げる義仲と巴。 一旦、九州にまで落ち延びていた平家の元には、三種の神器を返還するようにと法皇の書状が度々届けられていた。 平家と共にいる安徳帝(市川男寅)を廃位、新しい帝を践祚したと知り激怒する宗盛(鶴見辰吾)。 知盛(阿部寛)は法皇が三種の神器の返還を求めるのは、新しい帝の践祚が正式なものでないのを解っているからだと諭す。 知盛と重衡(細川茂樹)は、三種の神器が手元にある限り帝は安徳帝、安心するよう建礼門院徳子(中越典子)に告げる。 義経は三郎(南原清隆)から、平家が西国で兵を募り巻き返しに出たとの報告を受けていた。 木曾勢が兵を出したのは、東へ上る平家勢を迎え討つ為だったのかと納得する弁慶。 木曾勢が西国へ向かった為に都は空になると言う継信(宮内敦士)に、どういうわけか行家が残っていると答える三郎。 そこへ景季(小栗旬)が現れ、鎌倉へ向かう頼盛(三浦浩一)の一行を留めたと義経に告げる。 頼盛は対面した義経や景季から、清盛(渡哲也)の弟の頼盛が何故鎌倉へ行くのかと問われる。 頼朝(中井貴一)の命を助けた池禅尼(南風洋子)の息子として、頼朝挙兵後は全て池禅尼のせいという目で見られ続け、これは都落ち後も変わらないと決意、頼朝の恩情に縋ることにしたと答える頼盛。 義経は頼盛に、今宵はこの地で休むよう告げる。 弁慶から朝廷の様子について尋ねられた頼盛は、法皇は義仲を何れ見限るだろうと答える。 頼盛の法皇が鎌倉へ密書を送ったという言葉に、何かが動き始めたことを実感する義経。 義経は鎌倉に向かう頼盛に、後で頼朝への書状を託すことにする。 三郎達の前に手古奈(上原美佐)が現れる。 自分に会いに来たのかと喜ぶ次郎(うじきつよし)に、皆に会いに来たと答える手古奈。 手古奈は時子(松坂慶子)に仕えていたが都落ちで暇を出され、都に残っていた頼盛に仕えることになったと話す。 鎌倉を出奔したのに再び鎌倉へ向かって危なくないのかと心配する忠信(海東健)だが、手古奈は自分のような女のことは忘れているだろうと答える。 手古奈を何とも逞しいと笑う継信達。 頼朝への報告の書状に、義仲の都での振る舞いを書くべきか躊躇う義経。 源氏同士の争いを焚き付けることになると悩む義経に、弁慶はそのような情けは今は捨てるよう諭す。 義仲の行状に関する報告は、何れ他の者達から頼朝に届くことになる、それなのに義経だけが義仲の行状を伝えなければ頼朝は義経を何と思うか、先陣を任された義経の役目怠慢ということになると話す弁慶。 弁慶の言葉に義経は納得し、「情けは情け、務めは務め」と自分に言い聞かせるように呟く。 その頃、義仲の軍勢は備中において平家方の妹尾勢を討ち破り、その勢いは留まるところを知らぬ程であった。 このまま屋島の平家を滅ぼすと息巻く義仲は、兼光(堤大二郎)と兼平(古本新之輔)から法皇に不穏な動きがあるとの報告を受ける。 法皇の使いが鎌倉に向かい、頼朝に東国だけでなく北国も任せるのではという声がある、そして法皇の御所に行家が足繁く通っていると聞いた義仲は、直ちに都へ戻ることにする。 行家は法皇から、都の荒廃は義仲の責任、頼りになる行家に平家追討を任せるとの言葉を受け平伏する。 法皇の命を受けた行家は播磨の国で、知盛と知盛の軍勢約2万との戦いに臨んだ。 しかし、行家の軍勢は瞬く間に敗れ、行家は都に戻ることなく和泉へと逃げた。 一方、都に戻った義仲は、急ぎ法皇の御所に向かった。 御所の中を法皇を探して回る義仲は、自分を蔑ろにしたことへの怒りを顕にする。 丹後局と共に隠れる法皇。 勢いを盛り返した平家の人々は、摂津一ノ谷まで陣を進めていた。 知盛と重衡から、行家の軍勢を討ち破った報告を受け喜ぶ時子。 宗盛も知盛達を労い、この勢いならば都へ戻ることも夢ではないと喜ぶ。 急いてはならないという知盛の言葉に頷く時子は、福原を再び作ってそこを本拠とすることを勧める。 福原での暮らしを懐かしむ時子達。 義経主従は平家や義仲の動きについて話し合っていた。 平家が屋島と一ノ谷に本拠を置いたのは、瀬戸内四国の水軍を味方に海戦に持ち込むためではと説明する次郎。 船戦では木曾勢に勝ち目はないと言う義経に、次郎は平家には阿波の田口などの名うての水軍があると告げる。 木曾勢は都に戻ったが、河内に入った行家が解せないと話す三郎。 行家が義仲のいる都に逃げなかったのは、義仲と袂を分けたのではという継信の言葉に、義経は三郎に都の様子を尋ねる。 木曾勢の都での乱暴狼藉は甚だしいとの三郎の答えを聞き、義経は義仲が都をどうするつもりか憂う。 義仲と行家が不和だとすれば、西に平家、河内に行家、近江に義経がいる為、義仲は都にいて孤立無援の状態だと話す弁慶。 義経は喜三太(伊藤淳史)に馬を用意するよう告げるが、弁慶は喜三太を制し、義経に行き先を尋ねる。 再び義仲の元へ行き説得すると答える義経に、弁慶達郎党は自分達も供をすると告げる。 前回は事無きを得たが、今回は戦に発展するのは必定。 義経の為に共に戦うのが郎党の役目、義経の為に討ち死にできれば本望との三郎達の言葉に、義経は戦はならぬと告げる。 「戦を起こしてはならぬ」という頼朝の命に背くわけにはいかないと、義経は義仲に会いに行くことを思いとどまる。 この日、義仲の宿舎を、法皇の使いとして鼓判官こと知康(草刈正雄)が訪れていた。 知康は法皇の使いで来た自分を略装で迎えた義仲を注意するが、義仲はお構いなしであった。 木曾勢の都の振る舞いを鎮めてほしいという知康の言葉に、頼朝に頼めば良いと答える義仲。 但しその場合はこの都で合戦になると告げる義仲に、言葉を失う知康。 義仲は鼓を叩くマネをして知康を愚弄する。 知康から義仲は噂以上の愚か者との報告を受けた法皇は、知康に頼朝のことを尋ねる。 「言葉遣いは明瞭、立ち居振る舞いに寸分の隙無し、十分に将たるに相応しい器」との報告に、満足気に頷く法皇だか、頼朝が再三の上洛要請に応えないことを嘆く。 近江に頼朝の弟が陣を敷いているらしいがどれ程の者か解らず、取り敢えずは諸山諸寺の僧兵や無頼の輩を借り集め、義仲に備えるよう進言する丹後局。 鎌倉。 時政(小林稔侍)は法皇と互角に渡り合う頼朝に感服する。 頼朝は法皇は義仲に対して、何れ鎌倉を頼るだろうと告げる。 義仲は巴や兼平に、法皇とは相容れないところにきたと話す。 いざとなれば平家と和睦する手もあると話す義仲に、法皇が密かに兵を集めていると報告する兼光。 義仲はすでに頼朝に義仲追討の院宣をだしている筈、法皇に目に物見せてやると巴らに告げる。 義仲は法皇が立て籠もった法住寺殿を襲撃する。 法皇と丹後局を捕らえた義仲は、都が万一の時は木曾勢と共に北国へ移ってもらうと告げる。 その夜、法皇の御所は焼け、法皇は義仲によって五条内裏に押し込められた。 義仲は更に、天台座主の明雲大僧正以下数多の首を六条河原に晒すという暴挙に出た。 義仲は法皇の近臣49人の官職を解いて追放、都でも有名な美人で前関白・藤原基房(中丸新将)の娘の任子(楊原京子)を強引に娶った。 義仲は自ら「旭将軍」と名乗り、義仲の増長はここに極まった。 幽閉されている法皇は、義仲の所業を頼朝が許す筈はない、義仲もこれで終わりだとほくそ笑む。 義仲の暴挙を知った義経は、身内としての庇い立ては無用と憤る。 今の義仲は源氏一族の恥、その恥は同じ源氏として自分がそそがねばならない、義仲は自分がこの手で討ち取るとの決意を弁慶に告げる義経。 明けて寿永3年(1184年)正月。 ついに範頼(石原良純)を大将に、鎌倉勢約10万の大軍が近江に到着した。 景時(中尾彬)は義経に、義経の書状に頼朝が満足していたと話す。 範頼は「木曾義仲、例え一族といえども、追討の院宣が下されたる上は逆賊である。必ずや討ち取るべし」という頼朝の言葉を義経達に言い渡す。 義仲を討ち取る覚悟を決めた義経に、義仲との決戦が近付いていた。 |
2005年6月26日放送 第二十五回「義仲最期」(演出:木村隆文) 寿永3年(1184年)正月、近江。 近江に集まった鎌倉勢は、義仲(小澤征悦)追討の軍議を重ねていた。 5万騎あった木曾勢だが、宿舎の不備や兵糧の不足に不満を抱いて都を去った者が多く、今では4千騎となっていた。 範頼(石原良純)は自分達は大手として瀬田から攻め、義経(滝沢秀明)には宇治から京へ向かう搦手を任せると告げる。 義経から搦手を命じられたと聞いた弁慶(松平健)達郎党は気勢を上げる。 一方、鎌倉軍の動きを知った義仲は、後白河法皇(平幹二朗)を連れて一旦北国へ退くと告げる。 そこへ兼光(堤大二郎)が現れ、行家(大杉漣)が裏切ったことを義仲に報告する。 行家が法皇と通じていると知った義仲は、行家に対する怒りを顕にする。 義仲の命で、兼光が行家討伐へ出陣する。 1月20日、義経は宇治川に布陣していた。 そして、鎌倉勢と木曾勢の決戦の火蓋が切られた。 宇治川を一気に渡り、迎え撃つ木曾勢と戦う義経軍。 陣中に義仲の姿が見つからず、物見から未だ都にいると報告を受けた義経達は、急ぎ都へと向かう。 義仲は宇治を破られたとの報告を受け、瀬田へ出陣することにする。 都を出て瀬田へ向かう義仲軍と入れ替わるように、義経軍が都へ入る。 義仲の宿舎に着いた義経軍だったが、宿舎は既に蛻の殻であった。 義経は義仲によって幽閉されている法皇の救出に向かう。 義仲が瀬田に出陣した時には、すでにその兵の数は僅かに百騎、それも次第に減っていった。 都では、法皇が幽閉されている六条殿に義経軍が到着、三郎(南原清隆)と次郎(うじきつよし)が木曾勢が戻って来たと怯えている法皇と丹後局(夏木マリ)を見つける。 現れた義経達に驚く法皇だったが、義経が鎌倉勢として法皇の救出に来たと知り安堵する。 瀬田での戦に敗れた義仲は、もはや法皇を連れて行くことも敵わず、僅かな兵と共に都を落ちた。 途中で休息していた義仲は巴(小池栄子)に、落ち延びるよう告げる。 巴は片時も離れず義仲の側にいたい為に女武者となったのだと、1人で落ち延びることを拒否する。 義仲は1人残る義高(富岡涼)の行く末を誰が見るのかと話し、巴はその場に泣き崩れる。 「北国を従え、平家に勝ち、将軍にまで上ったというのにこのような仕儀になったのは、何処かで道を間違えたのか」という義仲の言葉に、泣きながら首を横に振る巴。 巴に「生き延びよ」と告げた義仲はその場を去る。 後を追おうとした巴を兄の兼平(古本新之輔)が止め、義仲は自分が守ると諭す。 馬に乗って巴の前に現れた義仲は、「いろいろと楽しかったな」と言葉をかけ、兵と共に去って行った。 去って行く義仲の後姿を見送る巴の前に、鎌倉軍の兵が現れる。 巴は兵を薙ぎ倒して大将を討ち、その場から走り去っていく。 義経達は庭にて、御台帳の中の法皇と改めて対面する。 義経は自分は都の生まれで、知り人や法皇の心を痛めるようなことはないと告げる。 丹後局から問われて自らの生い立ちを答える義経に、「生々流転、艱難辛苦の末に都に戻ったるか」と法皇は言葉をかける。 法皇から院の御所の護りをするよう申し付けられる義経とそれを喜ぶ弁慶達郎党。 法皇は丹後局から義経についての印象を尋ねられ、清々しい若武者だと答える。 丹後局も義仲と違い品があると告げ、法皇は義経が鎌倉軍の大将ならば気を揉む事はなさそうだと笑う。 近江の粟津。 小雪の降る中、疲れ果てた義仲と兼平を乗せた馬が、ゆっくりと進んでいた。 「日頃は何とも思わない鎧がやけに重い」と呟く義仲の前に、鎌倉勢の追手が現れる。 弓を構える鎌倉勢の兵に対し、兼平は自分が防ぐから逃げるよう義仲に告げる。 兼平の言葉に従おうとした義仲だったが、兼平の腕に矢が命中すると立ち止まる。 意を決した義仲は太刀を抜き、鎌倉勢へと向かって行く。 一斉に放たれた矢の内の1本が、義仲の眉間を射抜いた。 血を流し馬から落ちた義仲は、立ち上がって空を見上げる。 そこには義仲にしか見えない夕陽があり、夕陽を見て微笑んだ義仲はその場に倒れ絶命する。 義仲の最期を見届けた兼平は太刀の切先を口にくわえ、馬から飛び降り自害して果てた。 1月20日夕刻、疾風の如く駆け抜けた義仲は冬空の下、壮絶な最期を遂げた。 義経主従は宿舎で、入洛と法皇から警護の役目に任ぜられたことを喜び合っていた。 そこへ景季(小栗旬)が現れ、義経に義仲討死を知らせる。 摂津・一ノ谷。 時子(松坂慶子)と領子(かとうかずこ)は、宗盛(鶴見辰吾)、知盛(阿部寛)、重衡(細川茂樹)から都に鎌倉勢が入ったと聞かされる。 2月4日は清盛(渡哲也)の命日、そのような時に義経が都入りしたと嘆く時子。 知盛は法皇が平家追討の院宣を頼朝(中井貴一)に遣わせたかもしれないと話すが、宗盛はその時はこの天然の要害である一ノ谷で戦うと告げる。 都を追われるように去ること13年、義経は今、源氏の大将として晴れて都に凱旋した。 馬に乗り誇らしげに都を行く義経達を、お徳(白石加代子)、うつぼ(上戸彩)、烏丸(高橋耕次郎)が見ていた。 義経主従は京・三条の吉次(市川左團次)の家を訪れていた。 13年前を懐かしむあかね(萬田久子)と、京に戻ってきたことを喜ぶ吉次のもてなしを受ける義経主従。。 義経は吉次の勧めで奥州へ行ったおかげで、秀衡(高橋英樹)や頼朝、範頼、そして郎党と巡り会えた、何か事を成そうとする時は留まらず動くことだと話し、吉次は義経の言葉に感激する。 吉次邸には、都落ちの折りに平家の者がお徳に買い取りを頼んだ品々があり、三郎、次郎、喜三太(伊藤淳史)は品々を見て回る。 その中に宗盛が燃やすことのできなかった福原の泊を描いた屏風があった。 清盛との思い出深い屏風が今、目の前にあることなど義経には思いもよらぬことであった。 吉次は義経に母の常盤(稲森いずみ)と会うか尋ねる。 義経が会いたいならば自分が手筈を整えると言う吉次に、義経は常盤の意向もあるからと答える。 義経が院の御所の護りから宿所に帰ったその日、行家が訪ねて来ていた。 行家は自分は義仲とは早くに決別し、法皇の命により義仲追討に向かったと話し、義仲の悪口を並び立てる。 行家の言葉に腹を立てた義経は行家を責め、その場を立ち去る。 義経は弁慶に「同じ一族の者が悪し様に貶めるのが哀しかった、同じ一族の義仲と対決した自分も哀しかった」と話す。 そして義経は、無性に母の常盤に会いたいと告げる。 吉次の計らいで義経が一条長成(蛭子能収)邸へ常盤を訪ねたのは、翌日の夜だった。 義経の到着を今か今かと待つ長成に、常盤はまるで我が子を待つようだと話しかける。 常盤を妻とした時から義経は我が子と思っているという長成の言葉に、頭を下げる常盤。 そこへ義経が現れる。 義経と常盤は2人きりで向かい合う。 奥州のことは吉次から聞いていたが鎌倉に入ってからのことは知る由もないと話す常盤に、頼朝と対面を果たし、鎌倉の御所の一棟に郎党と住んでいると告げる義経。 郎党ができたのかと喜ぶ常盤に義経は、喜三太、弁慶、三郎、次郎、継信(宮内敦士)、忠信(海東健)のことを話す。 常盤は立派な武士となった義経に喜ぶが、義経と平家が戦うことを思えば清盛が亡くなっていてかえって良かったのではと話し、義経の異父妹の能子(後藤真希)が平家に従い都落ちしたと告げる。 能子は都落ちの前夜に密かに常盤の元を訪れ、平家の血を受け継ぐ者として平家の人々と共に行くと告げていたのだった。 常盤は義経に、今後は二度と一条邸を訪れてはならないと言い渡す。 公家で正四位下大倉卿の長成が武門の者と親しいと有らぬ疑いを抱かれること、そして兄と妹が源氏と平家に分かれたことを理由として話す常盤に頷く義経。 義経は常盤に笛を聞かせてほしいと願い出る。 常盤の奏でる笛の音に耳を傾ける義経。 義経にとって、嬉しくも切ない常盤との対面であった。 |
(一部敬称略)
このページTOPへ