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項番毎に月単位で1年かけて取材予定です。 | ||||||||||||
5月:宮内橋からの街並み | ||||||||||||
上の写真は八千代50景「きりどうし」方面の高台から宮内橋と側の宮内水管橋を捉えながら八千代50景「飯綱神社」の高台左右の街並みを映したものである。撮影地点からちょっと遠いので街並みが小さくしか捉えられないが田畑の広がりは納得できるだろう。 今度は宮内橋上から八千代中央方面のビル街の街並みを紹介したい。中央の写真がそれである。新川の川辺に映る宮内橋の橋桁、宮内水管橋の下に見えるビル群は見事なほどであろう。 広がる田園風景と高層ビル街を撮影できる八千代市ではここが一番のポイントと思えるが、カメラポイントを変えなければならない。どちらの写真を載せるべきか迷ったが田園風景は上の写真で紹介済みとし、水管橋を選んでみた。 下の写真が飯綱神社の反対側を映したものである。手前の数件の民家は意外と近年出来た小さい集落である。写真では写さなったが、その右側には森の谷間の中央に丸いガスタンクが見える。その奥には村上団地が広がっている。この方面はこの程度の街並みしか見えない。 今月の写真は以前に撮ったものでまかなった。大腸癌の手術後なので無理を避けた。(2019年5月3日) |
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6月:城橋からの街並み | ||||||||||||
まず2006年に撮影した「城橋の碑」の後ろから撮影した城橋の全体像を紹介して置きます(写真最上段)。 この写真はこのサイトの「橋の名」で使用した写真で、この城橋碑には「国破れ 蛍哀しむ 城の橋」と刻まれています。また、昔の街並みは「江戸時代から昭和初期頃までは権現市(現在の飯綱神社)が開かれ、米本城址から城橋を中心に権現様までは今で言う商店街で日常品は何でも揃ったそうです。現在の城橋風景からは想像も出来ません。」と紹介してありますが、現在の街並みばかりでなく歴史を連想してみると面白いのではと再度掲載しました。 とりあえず歴史の連想にはおぼつかないほどの街並みに変貌してしまったと思える現在の城橋は立派な歩道橋も並列しております。今回はあえて歩道橋とともに城橋を取り入れて、飯綱神社方面(写真中央)と反対側の米本城跡方面(写真最下段)の街並みを紹介してみます。写真はいずれも昨年撮影のものを使用しました。(2019年6月1日) |
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7月:富士美橋からの街並み | ||||||||||||
したがって今回は富士美橋全体の姿とその橋から見える街並みを紹介します。上の写真が対岸から富士美橋を撮影したものです。この角度ですと後ろのこんもりとした林が飯綱神社方面で左側のくびれている箇所は城橋からゆりのき方面に抜ける「切通路」だと思われます。 日が暮れると富士山がぽっかりと浮かんで幻想的です。そこで富士美橋と名付けられたのでしょう。 中央が富士美橋中央の欄干に止まっている鳩と米本城跡方面を撮影してものですが欄干が新川のくねりと合ってしまった上、街並みが遠過ぎて何を映したいのか分かりませんね。八千代橋方面の米本団地のビル群も肉眼ではきれいに見えるのですが、撮影すると遠過ぎてビル群も台無しです。したがって、ちょうど対岸の御岳神社方面を映した写真を利用しました。小さな集落も写真では「街並み」とは言いえませんね。 富士美橋からの街並みの紹介は非常に難しい課題でした。(令和元年7月1日) |
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