新 川 風 景 (新川・橋の名
   

生 活 余 暇 の 橋 歴 史 を 語 る 橋 主要道路に架かる橋
1.ゆらゆら橋 2.なかよし橋 3.城橋 4.逆水橋 5.八千代橋 6.新川大橋
地 名 を 付 け た 橋 両側の地名から名付けた橋
7.村上橋 8.宮内橋 9.平戸橋 10.神尾橋 11.阿宗橋 12.松保橋
 新川風景の一つには橋の存在も大きい。2002年に「新川の橋」を写真で紹介しているが、橋の名、形、工事回数などから、歴史や地形などを推測するのも面白い。自分流に推測しエピソードとして語り、それぞれの橋の風景を紹介しながら新川の風景を尋ねてみたい。桑納川流入口の富士美橋、神崎川流入口の橋も取り入れたかったが、丁度12回からはみ出したので厳密に新川の橋のみとした。
 新川の橋を上記の区分で分類すると5種類に分かれる。一つは項番1・2の生活余暇の橋、二つ目は項番3.4の歴史を語る橋、三つ目は項番5・6の主要街道の橋、四つ目は項番7・8・9の地名の橋、最後に項番10・11・12の地名から地名への架け橋として両地名を名付けた橋である。
3.城橋
 今月期の橋は「城橋」、昭和38年12月に竣工とあります。先月までは「生活余暇の橋」として「ゆらゆら橋」、「なかよし橋」の風景を紹介しましたが、4.5月期は「歴史を語る橋」として「城橋」「逆水橋」を橋名から歴史を連想しつつ新川風景を紹介したいと思います。
 「城橋」は名のとおり「お城へ渡る橋」で、そのお城とは米本城です。米本城と城橋を一緒に撮影すると左上の様な風景になります。左側ぎりぎりに収まった橋が判るでしょうか。右側の小高い山が城跡です。この写真では城に適した地形かチョット判りにくいのですが山頂に登り新川側を見ると絶壁で、敵対する太田道灌軍(伝説ではそう言われているが年代的に合わないので、太田道灌の子孫か、年代的に考察すると武田軍かとも言われている)の本陣は飯綱のお山(現在の飯綱神社)に陣を構えているのですから最上の地形だった筈です。勿論当時は橋があったかわかりませんが、川岸はアシで一般人はふもとまでは行けなったか、蛇行した川岸が絶壁にかかっていたことでしょう。
 江戸時代から昭和初期頃までは権現市(現在の飯綱神社)が開かれ、米本城址から城橋を中心に権現様までは今で言う商店街で日常品は何でも揃ったそうです。現在の城橋風景からは想像も出来ませんね。しかし、この街並みに思いがある方も多いようで、八千代ふるさと50景に「城橋付近の街並み」が選ばれております。
 この城橋の名をいつまでも伝え残そうと言うことで2005年の夏
、城橋のふもとに「城橋の碑」が建立されました。その碑と城橋を写したのが左上の風景になります。碑には「国破れ 蛍哀しむ 城の橋」と歌われております。現在、この碑は市民に親しまれ1年中花に囲まれております。写真右、上から2段・3段目を参照ください。
 城址山頂には当然神社が祭られてはおりますが、自然保管のため荒れ放題で、何の神社か直ぐにはわかりません(右側写真下段2枚)。このサイトの昨年のテーマ「新川と神々」の反省として、この神社の紹介が洩れたことが残念であると記しましたが、ここに戦いに敗れ、現在の七百余所神社まで逃れながら、大木の穴でひっそりと隠れていた老兵が、敵兵が帰り始めた最後の最後に「咳」をしたため命を落とし、余りにも哀れと思いその老兵の死を祭った「咳の神」がある筈です。左下段の石碑は左から「金比羅大権現」「石尊大権現」「大瘻蝟セ神」と読めますから、写真下から2段目の手前の社が「咳の神」の社で、「咳の神様」(別名:しろぬし様という板碑)の祠が祀られていのが見えます。「咳の神様」の手前の木の枝には「ポーポー」という竹筒が吊り下げられていますが、これは咳止めのお祈りをして奉納されたものです。
 話を新川風景に戻し、左側中央の写真が平成15年に植栽された新川千本桜の「光陽」(手前の濃いピンク色の桜)と樹齢40年近いと思われる「染井吉野」(白く見える桜)のランデブーの後景に城橋を撮影したもので、その下の写真は夏のひまわりと城橋です。ここはボランティアの方々が菜の花・コスモス・菊・パンジーなど1年中花を絶やす事無く管理してくれておりますので、城橋の名から「権現市」や「城取りの争い」などの歴史を想像しながらボランティアの皆さんとお話しつつの散策はいかがでしょうか。
 

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