〜日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。〜

第11回〜第20回
第21回
黄泉の国【1】 伊邪奈美命を葬る祠

 古事記に伊邪奈美命(いざなみのみこと)は「出雲国と伯伎国(ははぎのくに)との堺との比婆山に葬りき」と書かれているから,伊邪奈美命(いざなみのみこと)は,亡くなると山に葬られた。そして夫の伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)は,葬られた伊邪奈美命(いざなみのみこと)に会うために比婆山へ行った。その比婆山にあたるのは徳島県山川町にある高越山であると読み進めてきた。
 では,高越山のどこに祀られているのだろうか。
 江戸時代に書かれた阿波国最初の史書に,「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山之絶頂にあり,俗に高越大権現,祭神一座伊弉冉尊(いさなみのみこと)」と書かれている。
 高越山は,古くから修験道のメッカであり,修験道の祖・役行者小角(えんのぎょうおづぬ)が七世紀に建立したと伝えられ,また,弘法大師も801年28才の時にこの山で修業されたとも伝えられている。
 このように高越山は,古くから聖なる地として拝まれてきた。高越寺から山頂に登り,少し下って奥の峰に,奥の院がある。この小高い峰の山頂に祠が祀られている。この小高い峰の下に,伊邪奈美命(いざなみのみこと)は葬られていると想像し感じる事ができるのは,その地を訪れた人ならば,そう難しい事ではない。
 ここで,伊邪奈美命(いざなみのみこと)の死体を見た夫の伊邪奈岐命(いざなぎのみこと)は,黄泉の軍団に追われ,山中を逃走する。


第22回
緊急報告 伯耆の国(ほうきのくに)

 先日2月12日土曜日午後2時から徳島県埋蔵文化財センターの催した拝原東遺跡の現地説明会に参加した。
 弥生時代終末期〜古墳時代初頭(約1750年前)と,平安時代末〜戦国時代の集落住居跡からは,鉄鏃,刀子などの鉄製品のほか,未製品,切片,鍛造薄片,加工道具である石器が出土し,鍛冶による鉄製品の生産が行われていたことが判明した。
 帰り際会場近くの神社を通りかかった際に,説明会で知り合った方が,
 「ここに,ホウキの神さんが祀ってある」と言う。最初,箒の神さんでも祀ってあるのかと思っていたが,何度もいうので見てみると「伯耆神社」と書いてあるではないか!目を疑った。
 先の第14回で「出雲国と伯伎国」について書いたが,『古事記』に「伊邪奈美神は,出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬(ほうむ)りき」と書かれている。
 岩津を境に,上を伯耆国と書いていたことに合致する一つの神社出現である。徳島県西部には,他にもあるかも知れないので調べてみなければならない。


【伯耆神社と書かれている祠】

第23回
黄泉の国 千引の岩 看板設営

 古事記に書かれる「千引の岩」看板が,2005年4月3日に那賀町(旧相生町)内山に設置される。
(以下,文面)
 日本最古の歴史書『古事記』によると,国造りの途中で亡くなった妻,伊邪那美命(いざなみのみこと)を追って黄泉(よみ)の国の比婆山(ひばやま)へ会いに行った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は,「見てはいけない」と言われた妻の醜(みにく)い亡骸(なきがら)を見たため妖怪(ようかい)達に追われるはめとなった。
 逃げる途中に投げつけた,髪(かみ)を束(たば)ねた葛(かずら)や櫛(くし)が,山葡萄(やまぶどう)や竹の子に変わる。それを追っ手が食べる間に逃げたが,なおも追ってくるので坂本にあった桃の実を投げつけると追っ手は逃げ帰ってしまった。最後に伊邪那美命が追いかけてきたので,伊邪那岐命は,千人で引くような大岩で道を塞いだ。
 黄泉(よみ)の国から逃げ帰った伊邪那岐命が,竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)の阿波岐原(あわきはら)で禊(みそ)ぎ祓(はら)いすると,天照大御神(あまてらすおおみかみ)と月読命(つきよみのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれた。
 『古事記』の物語は,徳島県内の地名に当てはまる所が多く,上記の物語は,徳島県の山川町から阿南市見能林町までの地域を舞台として繰り広げられた物語と考えられる。
 平安時代に書かれた『延喜式(えんぎしき)神名帳』(九二七年)には,全国に一社のみ,伊射奈美(いざなみ)神社が記録され,徳島県美馬市以外にはない。
 黄泉(よみ)の物語は,この式内社 伊射奈美(いざなみ)神社がある穴吹町舞中島から始まり,高越山(こうつざん)を経て「カズラを投げたら実が生った」と書かれる上勝町には,雄中面(おなかづら)・生実(いくみ)の地名があり,相生町竹ケ谷の旧八面(きゅうやつら)神社には,「櫛(くし)から竹の子が生えた」と書かれる竹を型取った燈籠(とうろう)がある。「桃を投げた」と書かれる丹生谷(にゅうだに)地域には,百合(もあい)・桃の木坂・桃付等の地名があり,神社には桃を型取った木彫りや瓦がある。また,相生町には,昔からヨミ坂と呼ばれる坂もある。
 黄泉(よみ)の坂を逃げ帰った伊邪那岐命が,四国最東端の阿南市見能林町(打樋(うてび)川)で禊(みそ)ぎ祓(はら)いをすると,天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。
 以上のことから,この大岩群は『古事記』等に書かれる「千引(ちびき)の岩(いわ)」にあてはまる。

阿波古事記研究会


第24回
黄泉の国【2】 カズラとヤマブドウ

 「『見てはいけない』と云われた妻のイザナミの死体を見た夫のイザナギは,黄泉の軍団に追われ,逃げる途中,頭の髪を束ねていたカズラをほどいて投げた。するとそのカズラに山葡萄の実が生り,追っ手がそれを食べている間に,イザナギは逃げた。」と古事記に書かれている。
 前回(第21回),高越山に葬られているイザナミについて書いたが,徳島県勝浦郡上勝町には雄中面(おなかづら)・生実(いくみ)・喰田(しょくた)という地名がある。
 イザナギが「頭の髪を束ねていたカズラをほどいて投げる」に該当する,雄中面(おなかづら)。
 「そのカズラに山葡萄の実が生り」に該当する,生実(いくみ)。
 「追っ手がそれを食べている」に該当する,喰田(しょくた)。喰田は,「くった」と読める。
 こじつけと思うかも知れないが,和銅6年(713年,飛鳥時代)に「風土記」を作るように命令が出る。その地名のいわれの一例を「常陸国(ひたちのくに)風土記〔多可(たか)郡〕」から紹介する。
「道前(みちくち)の里に飽田(あきた)の村がある。古老は伝えてこう言っている。 ― 倭武(やまとたける)の天皇が,東国の地を巡幸した時,その地には,野に鹿,海にあわび等が豊富にいることを聞き,それを獲って飽きるほど食べた。後の人々は,そこを飽田(あきた)の村と名付けている ― と。」
 各地の風土記には,これと同じように地名を付けたことがたくさん書かれている。
 この後も古事記の物語に沿って阿波の地名が続くことは,つじつまの合わない他の地方に比べても不思議である。
 これらの事から古事記の物語は,阿波で繰り広げられた事だったと思わざるをえない。


第25回
黄泉の国【3】 竹・桃

 「ヤマブドウを喰い終えた追手達は,なおもイザナギを追い迫って来た。そこでイザナギは,右の頭に指していた櫛を投げすてるとタケノコが生えてきた。それを追っ手達が抜いて食べている間に逃げたが,今度は,その上に黄泉軍団までが加わって黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本まで追ってきた。イザナギは,坂本に生っていた桃に実を3個取り投げつけると黄泉軍団はことごとく逃げ失せた。」と古事記に書かれている。
 徳島県上勝町を南に山を越えると那賀町の竹ケ谷がある。淡水荘(マスの養殖場)近くの(旧)八面神社には,竹を型取った灯籠がある。そこから,平野・谷内・鷲敷町・阿南市加茂町に下る間には,百合(もあい)や百付(ももつき)の桃のつく地名や,神社には桃を型取った木彫りや瓦が点在する。
 写真の桃の瓦は,那賀町教育委員会に保管されている。桃の瓦があったのは,那賀町平野の蔭宮八幡神社である。神社の屋根を銅板に葺き変えたため無くなってしまった。
 桃の木彫りがある神社は,
阿南市加茂町   八幡神社
那賀町鷲敷 仁宇 丹生八幡神社
那賀町鷲敷 仁宇 百合(もあい)八幡神社
などである。
 このように,古事記の黄泉の国脱出の物語に書かれる舞台として那賀郡那賀町一帯に広がっているのは,不思議なことである。


第26回
黄泉の国【4】 桃と辰砂

 イザナギがイザナギに追われた黄泉比良坂(よもつひらさか)は,次回,第27回で書くこととして,前回の桃に引き続き,もう少し詳しく書いてみようと思う。
 上勝町を南に越えると,そこは丹生谷と呼ばれる地域である。丹生とは,水銀鉱石の辰砂で赤色をしている。「丹」は赤土の意味で,日本では古くは水銀鉱を丹や朱と呼んだ。阿南市にある二十一番札所太龍寺の若杉山は,弥生時代の辰砂採掘遺跡として知られ,辰砂の産するところは丹生谷と呼ばれてきた。
 辰砂は,原始古代社会において炎や血と同色の赤色は呪術・霊力があるものと信じられ,古くから土器に塗られ,古墳の中にまかれ使われてきた。
 一方,道教では,豆や桃も除鬼の呪力があったとされる。
 那賀町鷲敷には,桃の木谷や百合(もあい)の地名もあり,若杉山の山麓には,百付(ももつき)の地名もある。また,丹生谷地域にある神社,
 丹生八幡神社 那賀郡那賀町仁宇
 百合八幡神社 那賀郡那賀町百合
 加茂八幡神社 阿南市加茂町
これらの神社には桃を型取る木彫りがある。以上のように,桃と辰砂が同じように使用され,同じ地区に,木彫りや桃の瓦や辰砂採掘遺跡や地名が点在している事から,桃は辰砂のことであると考えられる。


【徳島県那賀郡那賀町仁宇 丹生八幡神社の木彫り】

第27回
黄泉の国【5】 黄泉比良坂

 イザナギが黄泉の国から逃げてくる道を,古事記は「黄泉比良坂(よもつひらさか)」と書き,それは,「今の出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)という」と書かれている。
 古事記に導かれ,徳島県那賀町の山深く曲がりくねった細い道を登り,たどり着いた淡水荘で「今登ってきた坂は,昔からヨミ坂といようでよ…」と若社長に教えられた時は,驚いた。
 地図上にある地名をたどるだけと思い調査にきたが,地元に奥深く入れば入るほど,これまで書いてきたように次々と出てくる古事記に符合する事実に出逢うと驚きは隠せなかった。ヨミ坂まであるとは…。
 何げなく走ってきた山道の道路標識に「四方見坂」と書かれ,通り抜けたトンネルのある坂道がヨミ坂であったことは後になって気付いた。
 「地元では,ヨミ坂と行っているのに『四方見坂』と書いてある。建設省に直してもらうよう言わないかん」と若社長はつぶやいていた。
 道路標識のあるヨミ坂近くには「ユヤノ坂」という地名もあり,湯谷神社がある。この神社の手水鉢には,「桃木尊」と彫ってあるから,また驚いた。「古事記」に書かれる「今の出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)という」は,「ユヤノ坂」のことであろう。
 「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は,伯伎国(ははぎのくに)から出雲につながる道である。この「黄泉比良坂(よもつひらさか)」は,徳島県美馬市穴吹町から山を越えて阿南市までつながる道であり,大穴牟遅神(オオナムヂノカミ,大国主の別名)が,須佐之男命(スサノヲノミコト)の娘,須勢理毘売(スセリビメ)を背負って逃げる道として再び書かれるので,注目する道だ。
 古事記に書かれていることを阿波に照らし合わせると,符合するところが多いことに驚く。


第28回
黄泉の国【6】 千引きの岩(ちびきのいわ)

 桃の実を投げつけて黄泉の軍勢を追っ払ったが,最後にイザナミの命自身が追いかけてきた。
「そこで,イザナギの命は,黄泉比良坂(よもつひらさか)に,千人で引くような巨大な岩で道をふさいだ。」と古事記に書かれている。
 徳島県勝浦郡上勝町にある月ケ谷温泉から美杉峠を越え南へ下ると,徳島県那賀郡那賀町内山の谷間に巨大な岩が道をふさぐかのごとく出現する。
 「日本書紀」には,「千人所引の磐石(ちびきのいわ)」と書かれ,千人で引くような大岩である。古事記に「黄泉比良坂の坂本に到りし時」と書かれるように,この巨岩の上に「字 坂本」の地名もある。
 以前,島根県八束郡東出雲町揖屋にある千引の岩を見に行った事があるが,高さ2m幅2mほどの岩の前に「千引き岩」と看板が書かれていた。想像するだけでもわかるだろうが,とても「千引の岩」といえるものではない。
 これまで黄泉の国の物語について書いてきたが,イザナミを葬った所,つまり,母の国(伯耆の国)から黄泉比良坂(よもつひらさか)に沿って,カズラ,ヤマブドウ,タケノコ,桃などがあり,イザナギの禊ぎした地につながっていく。古事記に書かれるように順序よく並び,その後に展開する古事記の物語ともつじつまが合う。「古事記」の物語を以上のように説明ができるところを阿波以外には知らない。
 次回は,いよいよ天照大御神誕生へと続く。


第29回
竺紫の日向の橘(つくしのひむかのたちばな)(1)

 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは,竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(をど)でミソギをしたと,古事記に書かれている。
 古事記に,「竺紫の日向」と書かれているので,通常は,九州の日向(ひゅうが)と読み,単純に宮崎県のことと考えてしまうだろう。
 しかし,古事記をよく読むと,竺紫は「国生み」の箇所では,九州を筑紫国と書いている。竺紫(つくし)と筑紫,あきらかに書き換えている。「竺紫の日向」と続く時は,「竺」の文字を使っている。「竺紫の日向」とは,九州の事ではない。それでは,「竺紫の日向」とは,どこにあたるのだろうか。
 古事記は,最初「国生み」から始まる。「国生み」は,阿波から始まり,淡路島・四国・九州へと広がっていくのだが,神武天皇が畿内に入るまでは,四国が一番東の地域であった。西につきた島を九州と呼んでいるのだから,「ツクシ」とは,つきるという意味である。
 日向(ひむか)とは,ヒムカ・ヒムカシ・ヒンガシ・ヒガシと変化してきた言葉で,東という意味である。すると「竺紫の日向」とは,「東につきた所」という意味になる。
 神武天皇が畿内に入り,国の領域が広がる前の国の一番東につきた地域は,四国の最東端に位置する徳島県阿南市である。その阿南市にある橘湾周辺は,イザナギのミソギをした「竺紫の日向の橘」と考えられる有力な所である。

 岩波新書「日本の神々」
        谷川健一著
 「橘の小門」p.96 参照

第30回
竺紫の日向の橘(2) 橘の小門(をど)

 イザナギノ大神が「竺紫(つくし)の日向(ヒムカ)の橘の小門(をど)」つまり,橘湾に面する徳島県阿南市見能林町でミソギをすると,天照大御神・月読命・建速須佐之男命が生まれたと「古事記」に書かれている。
 現在,見能林地域は陸となっているが,国道55号バイパスの走る附近は,雨が降るとすぐ冠水する低い土地である。近くには打樋川(うてびがわ)が流れている。その東側(写真,右側)は,小高い山が連なり大潟町の山の上,諏訪神社の飛地境内社に矢剣神社があり,剣の出土した古墳もある。
 「小門(をど)」の「と」は,鳴門,瀬戸など「と」は,狭い地域を指す言葉である。つまり,古い時代は,55号バイパスの走る附近は,狭い海峡となっていた。
 農地の圃場整備の際に,田んぼを掘るとカキ殻のついた岩がたくさん出て来たと聞く。この水の流れのゆるい所で,イザナギノ大神がミソギをして,天照大御神が生まれたのである。
 すると,天照大御神・月読命・建速須佐之男命が生まれたのは,出雲で生まれたということになる。日本書紀に「天照大御神は,天に送る」と書かれ「古事記」に「天照大御神は高天原を治め」と書かれていることは,天照大御神は,高天原で生まれたのではないという事である。