〜日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。〜

第31回〜第40回
第41回
母国 根の堅州国

 須佐之男命は,父のイザナギの大神に命じられた国を治めず泣き叫んだ。イザナギの大神に「何故,国を治めずに泣くのか?」とたずねられると「母の国 根の堅州国に行きたいから泣く」と須佐之男命は答える。
 母の国とは,須佐之男命の母 イザナミが暮らし葬られた地である。つまりオノコロ島である舞中島周辺であり,埋葬地の高越山である。
 では,根の堅州国とはどこだろうか? 川の中に砂や砂利でできた島を中洲という。そのことから考えると堅州は,岩盤でできた島のことである。徳島県阿波市岩津より上流は,写真のように川の中に岩盤でできた島が点在する。まぎれもない「母国 根の堅州国」であり,岩津上流である。
 古事記は,読めば読むほどにつじつまが合う物語として書かれている。「根の堅州国」は,大国主命が兄達に追われて「須佐之男命のいる根堅州国に向かう」場面にも書かれる。


第42回
式内社 伊佐奈伎神社 (淡路島)

 古事記に「伊邪那岐大神は,淡海(あふみ)の多賀に坐(いま)すなり。」と書かれ,イザナギの神は淡路島の多賀に祀られたと書かれている。解説本の多くは「淡海(あふみ)の多賀」を「近江の多賀」と読み,滋賀県の多賀大社にあてているが,平安時代(927年)に完成した延喜式神名帳には,全国の3,132座(2,861カ所)の神社のうちイザナギの名の付く神社は,下記の8社である。
 伊佐那伎神社(島根県)
 伊佐奈伎神社(淡路島)
 伊射奈岐神社(奈良県)
 伊射奈岐神社(奈良県)
 伊射奈岐神社(奈良県)
 伊射奈岐神社(福井県)
 伊射奈岐神社(大阪府)
 伊射奈岐宮 (伊勢)
 見ていただくとわかるように「近江(滋賀県)の多賀」にはイザナギの名前の付いた神社はない。多賀大社は,式内社だが,多荷神社が多賀神社になったのである。古事記に書かれる「淡海(あふみ)の多賀」を多賀大社にあてるのは無理がある。その上,まだ神武天皇が奈良に入ってない時のことであるから,近江まで話を広げるには,なお無理がある。
 古事記 上巻の話は,阿波周辺の話である。式内社伊射奈美神社(日本一社)が徳島県の美馬郡にあることからも,阿波の別れの淡路島からイザナギ命がイザナミ命に会いに来て国生みが始まったのである。


【淡路島 伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)】

第43回
倭について その(1) 倭(イの国)から阿波へ

 阿波という国名は,713年(和銅6年)に「粟国」から「阿波国」に変わったといわれているが,今回は,なぜ阿波と国名が変わったかについて考えたい。
 「粟」から「阿波」に変わったというより,これまでに書いたように「倭(い)」から「阿波」に変わったのである。
 古事記・日本書紀等には,四国は「伊予二名島」と表記され,四国東部が「伊の国」であり,その中心部が阿波であったことがわかる。
 なぜ,その「イ」を変えたのかについては,中国の史書「旧唐書」に中国へ渡った遣唐使(西暦702年)が,「倭という名称がよくないから日本と改めた」と記録されて,「倭(い)」は,中国から軽蔑の意味を込めて,柔順で背の低い東海の島々の人を指した言葉であることに,日本人が気づいたからである。このため,自分たちを「イ」と呼ばず「日本」といい「イ」を使わなくなったと考えられる。
 だから「倭国」は,“わこく”と読まず,最初は「倭国」を“いこく”と読んでいたのだが,「イ」を嫌い使用しなくなり「ワ」と呼び始め“わこく”と読み始めた。
 それと同じように,阿波も「倭(イの国)」といわず「阿波」に変えたと思われる。
 その後に,鎌倉幕府を開いた源頼朝が,征夷大将軍の位を得て,「イ」は,夷(い・えびす)であり,逆に「イ」を使うようになったことからも,「イ」が使われなくなったことがわかる。
 神武天皇のまたの名は,神倭伊波礼田比古命(かんやまといわれひこのみこと)と呼ばれている。また,日本各地の「風土記」には,「伊波神」がやってきたという記述が,たくさん書かれ伝わっている。「伊波神」が「阿波神」にも変わっていったのである。
 このように見てくると「イの国」から「阿波」に変わった事が,考えられる。


第44回
須佐之男命(すさのおのみこと),高天原(たかまがはら)に登る

 スサノオが父のイザナギに,海原の国(出雲)から追放され,母に会いに行く途中,姉の天照大御神に挨拶するため高天原に登っていく。その登ってくる様の仰々しさから,天照大御神は,スサノオが高天原を奪いに来るのかと思い武具を身につけ戦闘態勢に入る。しかし,スサノオはそんな気持ちはさらさらない事を告げるが,そのことを証明するために,神に祈って吉凶を伺う〔うけい〕をする。
 スサノオの剣からは,タギリビメ・イチキシマヒメ・タキツヒメの三人の女児が生まれ,天照大御神の首を飾る玉からは,オシホミミ命・ホヒノ命・ヒコネノ命・イクツヒコネノ命・クマノクスヒノ命の五人の男児が生まれた。するとスサノオは,
「私にやましいことのないが証明されたから,私は勝った。」と言って数々の狼藉を始める。
 解説本には,なぜスサノオが勝ったと言ったのか判らないと書かれているが,先の第34回にも書いたが,「男系」を継承している皇室を,このことからもその流れを知ることができる。
 「男系」からみると,イザナギ大神もスサノオ神も国津神であり天津神では無いことがわかる。
 イザナギ大神が,葬られた淡路の多賀。
 スサノオ神は,どこに葬られたか? 「古事記」には書かれていないが,高志(たかし)の八俣大蛇(やまたのおろち)を退治した後に,母の国に帰り着き,そこで暮らしたことは書かれているから,阿波市岩津より上流,美馬市周辺に葬られていることであろう。今後なお研究が進むと,スサノオの葬られたところが発見されるかも知れない。


 【勝浦川より高天原を望む】

第45回
高天原は山間部

 古事記に書かれる「高天原」や「天」を空の上と考えるか,地上と考えるか,色々の考え方があるが,古事記にスサノオは地響きを立てながら高天原に登って来ると書かれているのだから,山に登ると読むのが,すなおな読み方だと考えられる。
 高天原で,天照大御神と[うけい]をして勝ったスサノオは,数々の狼藉をするが,その内の一つに「畦はなち」という天津罪がある。畔を壊すことが,なぜ天津罪という大罪にあたるのだろうか。平地の畑で畦を壊しても,また埋め戻して畦を作ればよいことである。
 しかし,山間部にある棚田では,そんなに簡単に直すことはできない。棚田で耕作している方の話では,畦が壊れると一枚の田んぼだけで終わらず,上の田から下の田へ次々と壊れていくそうである。だから畦を非常に大事にすると聞いた。
 高天原が山の上だったことをうかがわせる記述は,この後にも天孫降臨の箇所などで書かれている。空の上からというよりも山間部で暮らしていた人が,平野部に降りてきたと考える方が合理的である。
 徳島県の木屋平・神山周辺を高天原と見て,徳島県の海岸部(平野部)を出雲と当てはめて古事記を読めば,すなおに古事記の物語を読むことができる。


【徳島県名東郡佐那河内村の棚田】

第46回
神御衣(かむみそ)を織る 天照大御神

 天照大御神が,神御衣(かむみそ)を織っているとき,スサノオノミコトが,屋根に穴を開け天斑駒(あめのふちこま)(カモシカか?)を生きたまま逆さに皮をはいで落とし入れたことは誰もがよく知っている話である。
 天照大御神,忌服屋(いみはたや)に座(ま)して,神御衣(かむみそ)織(お)らしめたまいし時,
と古事記に書かれていて,天照大御神ご自身が高天原で神御衣(かむみそ)を織る仕事もされていたと書かれている。いったい最高神である天照大御神が神御衣(かむみそ)を織られるとはどういうことなのだろうか。
 神御衣(かむみそ)とは,神が着られる衣服,または神に捧げる衣服のことで,荒妙(あらたえ)(麻織物)・和妙(にぎたえ)(絹織物)のことでもある。つまり,この事からもわかるように天照大御神は,祭主となって神に捧げる神御衣(かむみそ)を織り,それを捧げ祀る神があったのである。その神は天御中主神を初めとする八百万神である。
 天皇が即位の礼の後,初めて行う大嘗祭という儀式がある。実質的に践祚の儀式(皇位を受け継ぐこと)である。その際には,阿波から麁妙(あらたえ)が貢進される。麁妙(あらたえ)は,先に書いた荒妙(あらたえ)(麻織物)のことである。この神御衣(かむみそ),荒妙(あらたえ)(麻織物)・和妙(にぎたえ)(絹織物)が,伊勢神宮で織られているにも関わらず,大嘗祭の際に使われる麁妙(あらたえ)は,古代から阿波の木屋平村三木家(阿波忌部の子孫)から運ばれている。阿波はそれくらい古いのである。
 この事実から見ても古事記の舞台が阿波であったことが,一段と鮮明になるであろう。

第47回
天岩戸は,神山にあり その(1) 阿波風土記

 スサノオノ命の狼藉により,天岩戸に籠もった天照大御神を呼びだすため,神々は思いをめぐらし祀り事の準備をする。そして,思金神は,天香山から鹿・ははか(朱桜)・榊を集めて来る。天宇受売命は,天香山のヒカゲカズラ・マサキカズラ・笹を持ち,桶をふせてその上で踊るということが,「古事記」に書かれている。
 天岩戸の近くには,天香山があるわけである。天香山といえば,奈良の香具山を思い浮かべるが,各地の風土記には次のように書かれ伝えられている。
「阿波国風土記」
 そらより降り下りたる山のおおきなるは,阿波国に降り下りたるを,
 天のもと山と云い,その山のくだけて,大和国に降り着きたるを天香具山
 というとなん申(まをす)。

「伊予国風土記」
 天山(あめやま)と名づくる由(ゆえ)は,
 倭(やまと)に天加具山(あめのかぐやま)あり。
 天(あめ)より天降(あも)りし時,二つに分かれて,
 片端(かたはし)は倭(やまと)の国(くに)に天降(あも)り,
 片端(かたはし)はこの土(くに)に天降(あも)りき。
 因(よ)りて天山(あまやま)と謂(いい)ふ,本(もと)なり。
 この記述からも,天(あめ)とか倭(やまと)は,阿波であることが判る。しかも奈良の香具山の南側に天岩戸神社があり,その御神体の磐座(いわくら)と同形の磐座が,徳島県名西郡神山町鬼籠野元山の天岩戸立岩神社にもある。しかも「風土記」に書かれている通り,阿波の磐座は大きいのである。この事からも「神山町に天香具山があり,天岩戸がある」ということが判る。


【天岩戸立岩神社 御神体の磐座】

第48回
天岩戸は,神山にあり その(2) 岩戸とは

 「古事記」では天岩戸の表記を「天の岩屋戸」と書き,「日本書紀」には「天石窟」と書いている。すると,どうしても岩戸(いわと)は,洞窟というイメージにつながるが,「いわと」の表記には「天石門別神(あめのいわとわけのかみ)」というように「石門(いわと)」という表記もある。延喜式内社の天石門別(あまのいわとわけ)神社の表記は,全て「石門(いわと)」で書かれ,石門(いわと)をわけていったことが判る。また,神山町にある天岩戸立岩神社の御神体の磐座(いわくら)は,大岩が真ん中から割れている。また,奈良の天香具山にある天岩戸神社の御神体の磐座(いわくら)も同じく真ん中から割れている。天照大御神が籠(こ)もったというので,洞窟と考えるが,岩戸は,石門(いわと)なのである。
 戸や門と表記される「と」は,瀬戸・水戸・水門(みと)などのように,入口や狭い所を指す言葉であるから,イザナギ命が禊ぎした狭い水路を指す「橘の小門(をど)」や「やまと」の「と」も山の谷間の狭い地域,あるいは,山に入る入口(谷間)を指す言葉と考えられる。つまり,皇室の御祖先が住まわれた狭い谷間を「やまと」と呼んでいたのが,倭(やまと)・大倭(やまと),大養徳(やまと),大和(やまと)などの表記に変わり,後に日本の国名に変わってきたのである。
 これらのことから見ても,天岩戸は,洞窟ではなく,狭い所を表す石門(いわと)で,その狭い所から新しい命が現れてくることの象徴なのである。


【天岩戸立岩神社の御神紋】

第49回
天岩戸は,神山にあり その(3) 長鳴鳥

 「天照大御神,見畏(かしこ)みて天石屋戸(いわやど)を開きてさしこもりましき。ここに高天原皆暗く,葦原中国ことごとに闇し。これによりて常夜往きき。ここに万(よろず)神の声(おとなび)はさ蝿なす満ち,万の妖(あやかし)悉に発(おこ)りき。ここを以ちて八百(やおよろず)の神,天の安の河原に神集ひ集ひて,高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子思金神(おもひかねのかみ)に思はしめて,常世(とこよ)の長鳴鳥を集めて鳴かしめて」と『古事記』にある。
 アマテラスはスサノオの行動に怒り,天岩戸に引き篭ってしまった。高天原も葦原中国も闇となり,様々な禍(まが)が発生した。そこで,八百万の神が天の安河の川原に集まり,どうすれば良いか相談をした。思金神の案により様々な儀式を行い,朝を告げ,太陽神である天照大御神を再びこの世に呼び戻す役割を果たす鶏を集め,鳴き声が引いて長く鳴く「長鳴鳥」を鳴かせた。
 この「長鳴鳥」で有名なのは,高知県原産といわれる長く鳴き続けることができる鶏「東天紅」である。
 日本三大長鳴鶏の一つに数えられ,その鳴き声は,世界で最も長く鳴き,30秒鳴き続けた記録もある。東天紅の名前も,夜明けの東の空が紅に染まる頃,天性の美声で鳴き続けることから命名されたといわれ,昭和11年9月3日には,国の天然記念物に指定された。
 「長鳴鳥」が四国の原産というだけでも,「古事記」の物語を構成する資料がそろい,天岩戸神話が現実のものとして見えてくる。


第50回
天岩戸は,神山にあり その(4) 布刀玉命

 布刀玉(ふとだま)命は,忌部の祖神で「古事記」に「天児屋(あめのこやね)命・布刀玉命を召(よ)びて・・・」と天岩戸の神事を執り行う祭司として書かれている。一方,忌部といえば粟国の忌部の遠祖天日鷲(あめのひわし)で,日本書紀に依れば,やはり天岩戸の神事を執り行う祭司として書かれている。
 粟国の天日鷲(あめのひわし)は,天岩戸の神事に参列していたのである。多くの国から集められたとするなら他の国の参列者も書かれているはずだが,粟国以外は書かれていないのだから,このことから推察しても,天岩戸の神事は阿波国内で執り行われたと考えられる。
 そこで,粟国と阿波国の関係であるが,阿波国は徳島県全体のことで,粟国は現在の阿波市周辺と考えられる。延喜式神明帳での記録でも,板野郡・阿波郡・美馬郡・麻植郡と書かれていて,阿波の地名は古くからあった。
 また「古語拾遺」には「天富命(あめとみのみこと)をして日鷲命が孫(うまご)を率(ひき)て,肥饒(よ)き地を求(ま)ぎて阿波国に遣はして」と書かれているように,ここに書かれる阿波国は,吉野川の肥沃な土地をさしているので,阿波国とは,徳島県全体を指すのではなく,阿波市周辺を指している。そしてその一部を「麻植(おえ)」と名付けている。