〜日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。〜

第41回〜第50回
第51回
天岩戸は,神山にあり その(5) 阿波忌部の祖 天日鷲神

 粟国の忌部の遠祖は,天日鷲(あめのひわし)である。忌部といえば,徳島県全体を指すように考えがちである。前回(第50回)でも書いたが,「古語拾遺」には「天富命(あめとみのみこと)をして日鷲命が孫(うまご)を率(ひき)て,肥饒(よ)き地を求(ま)ぎて阿波国に遣はして」と書かれているように,麻植(吉野川市)に降りてきたのが,粟国の忌部の遠祖,天日鷲(あめのひわし)である。だから,吉野川市に式内社の忌部神社がある。
 つまり高天原から降りていったのが,天日鷲神であるから,式内社の忌部神社があることが,忌部が高天原の住民でないことを物語っている。
 高天原に住んでいるのは天津神であるから,天津神は忌部ではない。忌部は,天津神が執り行う儀式の準備をする役目を担っていたのである。だから,忌部の天日鷲神は,高天原で執り行われる天岩戸の神事に呼ばれて天岩戸の神事に参列したのである。
 高天原にある木屋平の三木家は天津神の末裔にあたる。もちろん天日鷲神も天津神の別れであるが,天日鷲神の子孫が三木家とすると,なぜ皇室に平成・昭和・大正天皇の即位の際,三木家から麁服(アラタエ)という神御布(かむみそ)が貢進されるのか,つじつまが合わなくなる。なぜ,三木家にこだわり,それが慣わしとなる程こだわってきたのだろうか?
 天日鷲神の末裔が,吉野川市(麻植)に住み,忌部の末裔が,全国に広がっていったのである。


【忌部神社 吉野川市山川町】

第52回
天岩戸は,神山にあり その(6) 鍛人 天津麻羅

 今にも落ちてきそうな,幅4m高さ7mの巨岩が,小山の斜面にそそり立っている。写真の磐座(いわくら)は,徳島市多家良町の立岩神社の御神体である。
 天照大御神が天岩戸に隠れた時,八咫鏡(やたのかがみ)を造るため鍛人(かぬち)の天津麻羅を呼び寄せた。
 八咫鏡(やたのかがみ)とは,天皇の皇位継承の徴として受け継がれる三種の神器の一つである。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ),八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま),そして八咫鏡(やたのかがみ)である。
 立岩神社の西は徳島市八多町に接している。八多は,八咫鏡のヤタで,多家良町はタタラ(金属の製錬)から変化した地名である。多家良町周辺には,明治の頃までタタラ集団がいて,タタラ音頭が村の祭りで踊られている。
 立岩神社の御神体を見ればわかるように,「マラ」とは,男性のシンボルで,古代から鍛冶集団は,天津麻羅や天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を神として祀ってきた。
 マラ石は,タタラの鞴(ふいご)の先端を「火吹竹」(吹いて火をおこすのに用いる竹筒)から連想して,祀るようになったのではないだろうか。
 「古事記」の天岩戸の物語に関連する史跡の中でも,見学者は,この立岩神社に来ると,一様に驚嘆の声をあげる。

第53回
天魚(あめご)

 木々の間の見え隠れする渓流にひそむ「清流の女王」天魚(あめご)には,その美しい青紫の縦縞模様と朱色の斑点があざやかに輝いている。
 天魚(あめご)は,ヤマメと同じサケマス科の川魚である。南北に弓なりに長い日本列島の河川には,図のように,天魚(あめご)は東海地方から四国周辺に,ヤマメと棲み分けて棲息している。
 しかし,天魚(あめご)は,それぞれの地方によって,その呼び名が違っている。

 アマグ・クロゾフ
・・・福井
 アマゴ
・・・関西一円
 ヒラメ・ヒラベ・ヘラベ
・・・中国地方
 アメゴ・アマゴ
・・・四国
 エノハ・マダラ・マンダラ
・・・九州

 以上のように,日本全国で“あめご”と呼ばれているのではない。
 天魚(あめご)を「天魚」と書くように,「天」いう言葉を使う習慣があるのは,四国・関西周辺であることがわかる。しかも,天魚(あめご)は山間部に棲息するのだから,なおのこと「天」は山間部である高天原を指していることになる。
 この事からも,古事記の初元の世界は四国の阿波にあったことがわかる。畿内でアマゴと呼ぶのは,四国から神武天皇が畿内に行ったので,関西でも“あめご”をアマゴと呼ぶようになったと考えられるのである。

第54回
天岩戸は,神山にあり その(7) 太布(たふ)

 徳島県の山奥,木頭には「太布(たふ)」という梶(かじ)や楮(こうぞ)の繊維から織られた布がある。この「太布」の伝統技法を後世に繋げようと「阿波太布製造技法保存伝承会」の人達が,守り育てている。現在全国でその技法が伝承されているのは那賀町(木頭)のみである。
 太布は,古代神を招き,神に奉げられる神聖な布であった。木頭村では,この古代の布が生活衣料として使用されながら,伝承されてきたのである。
 また,楮の皮の繊維を蒸して水にさらし,細かく割いて作った糸を木綿(ゆう)ともいう。
 「古事記」には,天岩戸の神事の際に
 「天の香山の榊(さかき)の上の枝に,玉を取り著(つ)けて,中の枝には,八尺鏡を取り懸け,下の枝には,白丹寸手(しらにきて),青丹寸手(あおにきて)を取り垂でて,…」
と書かれている。
 天岩戸の神事には,下の枝に木綿(ゆう)と麻(あさ)を取り付けたと書かれている。
 本居宣長は,随筆集「玉勝間」の中で
「木綿(ゆう)は,穀(かじ)の木の皮であり,これで織った布が太布である。阿波では現在でも,この太布が織られているが色白く,丈夫ですばらしい布である」とほめ上げている。また,阿波の国学者,野口年長(1780〜1858)は,「粟の落穂」の中で「昔の大嘗祭の荒妙(あらたえ)は太布のことである。」と書いている。
 また,高越山は,別名木綿麻山(ゆうまやま)ともいい,皇室に貢進する麁服(あらたえ)とも深くかかわっている。
 このように,阿波に残る伝承と古事記の記述が一致しているということからも,古事記の舞台が,阿波であったことがうかがえるのである。


第55回
ソラ(高天原)について その(2)

 古事記は,出雲と高天原を舞台にした物語,つまり地上と天空を往き来する話が書かれているように思われている。しかし,この出雲と高天原は,地上と天空ではなく,山と平野部を舞台として書かれているのである。
 「そら」というと「空・天」を思い浮かべるであろうが,ソラ(高天原)について第38回でも書いたが,徳島県では,昔から吉野川の西の方を「ソラ(空)」と呼び,吉野川下流域に住む人から見れば四国山地,あるいは上流に住む人を「空に住む人」というイメージを持ったのであろう。
 そこで,全国各地に残る「そら」の方言を調べてみた。
全国方言辞典(東京堂出版 東條繰編)には,「そら」はこう書かれている。

〈1〉 上「机のソラにある」 石川・岐阜・三重・滋賀・京都・兵庫・出雲・大分
「木のそら(樹の上。樹上)」 鹿児島
〈2〉 頂上 和歌山
〈3〉 高地の田 島根(徳島でもいう)
〈4〉 山口
〈5〉 上流 徳島
〈6〉 物置用の二階
〈7〉 長男 奈良
  また,「そら」の関係語,あるいは原形として「そら」は,「あま」であるとしている。「あま」とは,「天」を差しているのである。
 一方,美馬市木屋平字貢にある三木家(皇室に神御衣(かむみそ)麁服(アラタエ)を貢進する御衣御殿人(みぞみあらかんど))は,古くは空地(そらのち)という地名だった。
 これらのことから,「古事記」に書かれる高天原の話は,天空の話ではなく現実にあった話であることがわかる。
 次回は,この話に基づき山の「ま」に迫り,「美馬」「やまと」について書いてみたい。


【空の地を彷彿とさせる三木家】

第56回
(やまと)について その(2) 倭大国玉神社

 「四国のまほろば美馬市」をキャッチフレーズに掲げる美馬市は,名実ともに「まほろば」の地である。「まほろば」は,古事記に倭建命が歌う国ほめの歌。
  倭は 国のまほろば たたなづく 青垣
       山こもれる 倭しうるはし
 倭(やまと)は,山に囲まれた所であると歌っているのである。倭(やまと)というと大和(奈良県)を思い浮かべるだろうが,古事記は,倭と大倭を書きわけて大倭秋津島と書かれている。奈良は,阿波の倭が発展した地の大倭である。
 それを示すのが,延喜式内社に記録される美馬郡にある倭大国玉神社である。一方,大和坐大国魂神社が奈良県にある。
 大國玉神社は,日本各地に8社あるが,倭の付く神社は,阿波の美馬だけで,淡路に大和大國玉神社,奈良に大和坐大国魂神社があるだけである。これまで,なぜ,美馬市に式内社の倭大国玉神社があるか説明がつかなかったが,今回ハッキリした。高天原(木屋平)から降りてきたところを倭と呼んだのである。
 大国主命が,「出雲より倭に上(のぼ)りまさむ」と書かれているのは,上郡のソラと呼ばれる美馬市だったのである。
 美馬市には,大国魂古墳・郡里廃寺跡・荒川遺跡・三島古墳群・太鼓塚古墳・棚塚古墳・段の塚穴古墳群・拝原東遺跡など数多くの遺跡がある。
 現在は,阿波を北と南に文化圏を分けて考えるが,吉野川の中流,岩津から西に別の文化圏があったと考えられる。


 【倭大国玉神社 美馬市美馬町重清字東宮上三】

第57回
天宇受売命(あめのうずめのみこと)

 「古事記」には,次のように書かれている。天の岩戸の前で天宇受売命が神がかりして踊り,これを見た八百萬の神が皆笑いだした。天照大御神は,
 「私が隠ったことで世の中は暗くなったと思うのに,なぜ天宇受売命は楽しく踊り,八百萬の神が皆笑い踊るのか」
と言いながら天の岩戸を少し開けた。すると天宇受売命は,
 「あなたにまして貴(とうと)き神がいます。ですから,よろこび,笑い,踊っているのです。」
と天宇受売命は,天照大御神よりも貴(とうと)き神様がいるというのである。なぜ,天宇受売命がそんなことを言ったかを説明する書物を読んだことはない。天照大御神よりも貴(とうと)き神様は,どの神様といっているのだろうか。
 「古事記」の最初に,天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神が現れる。「古事記」は一貫して高御産巣日神の子孫が現れてくる。
 現在皇居には,宮中八神として高御産日神・神産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神がお祀りされている。これを見てもわかるように高御産巣日神が中心をなしている。
 そして忌部の祖神は高御産巣日神であるから,高天原は阿波にあったと云わざるを得なくなるのである。
 なお,昨年結成した阿波おどり「天の渦女連」は,阿波おどりの起源は「天の岩戸からはじまる」として踊り始めたグループである。


【イラスト とき】

第58回
阿波にいた スサノオ

 「古事記」は,天岩戸の物語の後,
 「また食物(をしもの)を大氣津比賣(おほげつひめの)神に乞(こ)ひき。ここに大氣津比賣,鼻口(はなくち)また尻(しり)より,種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出(いだ)して,種種(くさぐさ)作り具(そな)へて進(たてまつ)る時に,速須佐之男命(はやすすさのおのみこと),その態(しわざ)を立ち伺(うかが)ひて,穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るおもひて,すなはちその大宜津比賣神を殺しき。」と続く。
 大氣津比賣(おほげつひめの)神は,食糧の神,阿波の穀霊であるから,ここを読むだけで須佐之男命(すさのおのみこと)は阿波にいたこととなることがわかる。
 この大氣津比賣(おほげつひめ)は,須佐之男命(すさのおのみこと)に殺されても殺されても食べ物として生まれ変わって来ることが書かれている。これは,命の永遠を意味して書かれていると考えられる。大氣津比賣(おほげつひめ)の命が生まれ変わり永遠に続いていくのである。
 須佐之男命(すさのおのみこと)は天岩戸物語の後,高天原(神山町)から追放され吉野川河口に降りてくる。そして物語は,ヤマタノオロチの物語へと続く。
 一方大氣津比賣(おほげつひめ)は,御食津神(みけつかみ)として保食神(うけもちのかみ)・稲荷神(いなりかみ)・稲倉魂神(うかのみたまのかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ)と名を変え伊勢神宮の外宮に祀られ日本全国の人々に祀られるようになっている。また,稲荷神(いなりかみ)は日本全国で一番多く祀られる神様である。


第59回
種穂神社(たなぼじんじゃ) 吉野川市山川町

 「古事記」は,天岩戸の物語の後に,
「また食物(をしもの)を大氣津比賣(おほげつひめの)神に乞(こ)ひき。ここに大氣津比賣,鼻口(はなくち)また尻(しり)より,種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出(いだ)して,種種(くさぐさ)作り具(そな)へて進(たてまつ)る時に,速須佐之男命(はやすさのおのみこと),その態(しわざ)を立ち伺(うかが)ひて,穢汚(けが)して奉進(たてまつ)るおもひて,すなはちその大宜津比賣神を殺しき。故(かれ),殺さえし神の身に生(な)れる物は,頭(かしら)に蠶(かひこ)生(な)り,二つの目に稻種(いなだね)生(な)り,二つの耳に粟(あは)生(な)り,鼻に小豆(あずき)生(な)り,陰(ほと)に麥(むぎ)生(な)り,尻(しり)に大豆(まめ)生(な)りき。故(かれ)ここに神産巣日(かみむすひ)の御祖命(みおやのみこと),これを取らしめて,種(たね)と成(な)しき。」
と書かれ,阿波の穀霊大氣津比賣(おほげつひめの)神が速須佐之男命(はやすさのおのみこと)に殺され,その身体から稲,粟,小豆,麦,大豆が生え五穀の種になったと書かれている。まさに吉野川下流域の肥沃な母なる大地は,豊かな食糧をもたらす穀倉地帯で大氣津比賣(おほげつひめの)神そのものである。その豊かな大地を見下ろす,吉野川市山川町の種穂山に種穂神社がある。種野山は,麻植の山分の一帯で,阿波忌部の阿波地域開拓の本拠地であった。「古語拾遺」に,
「肥沃な地を求めて阿波(吉野川下流域)に降りてきた忌部が,その一部の地域を麻殖(おえ)と名付けた。」
と書かれている。
 阿波・麻植地域一帯を見下ろす種穂神社は,社名からも想像されるように,種籾を下賦した神社であったと思われる。


【種穂山 (吉野川市山川町)】

第60回
式内社 和奈佐意富曾神社(わなさおほそじんじゃ)

 須佐之男命(すさのおのみこと)が「海原を治めよ」と父のイザナギノ大神に命じられた海原の国は,阿波の県南部である。
 それを物語るのが,延喜式内社の和奈佐意富曾神社(わなさおほそじんじゃ)である。この神社は,現在,徳島県海部郡海陽町の大里海岸にあるが,以前は,那佐湾に面した鞆奥の大宮山にあった。
 この阿波国の和奈佐意富曾(わなさおほそ)を祀る神人集団が,豊宇賀能売神(とようかのめのかみ)を奉じ広く宣布したことを第11回に書いたが, 『出雲国風土記』に書かれる阿波枳閉和奈佐比古(あはきへわなさひこ)神社は,アワキへは阿波から来た意味であることは,この神人集団の本拠地が阿波国にあったことを示している。谷川健一氏も折口信夫氏の説をひきながら,阿波・徳島県海部郡にある和奈佐意富曾・ワナサオフソ神社を信仰する海人が,水の信仰を背負って丹後にやってきた『丹後国風土記』を紹介している。
 また,島根県(出雲)には,和名佐や忌部町の地名もあり,阿波から広がって行った忌部集団の痕跡を示すものである。
 このように,阿波の海洋民が海原を越え全国に広がっていったことを示すものが,和奈佐意富曾神社であり,「古事記」に書かれる須佐之男(すさのお)が父イザナギノ大神に命じられた海原の国である。


【和奈佐意富曾神社】