〜日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。〜

第51回〜第60回
第61回
ヤマタノオロチ(1)

 故(かれ),避追はえて,出雲國の肥(ひ)の河上(かはかみ),名は鳥髪(とりかみ)といふ地(ところ)に降(くだ)りたまひき。この時箸(はし)その河より流れ下(くだ)りき。(略)
 この高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち),年毎(としごと)に來て喫(くら)へり。今そが來(く)べき時なり。故(かれ),泣く。

 高天原(神山町)から出雲国(吉野川下流)に追放されたスサノオは,川上から箸が流れてきたので上流に人がいると訪ね求めると,老夫婦が一人の娘を中にして泣いている。わけをたずねると
八俣(やまた)の大蛇(をろち),年毎(としごと)に來て喫(くら)へり。今そが來(く)べき時なり。」と泣きながら答えた。
と,「古事記」には「高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち)」と書かれている。
 徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,古くは「高志」という地名で,高志小学校・高志郵便局等が現在も使われている。
 また,徳島市国府町の観音寺遺跡から7世紀後半と見られる「高志」と書かれた木簡(木簡とは,墨で文字が書かれた木の板のこと。)が出土している。
「波ホ五十戸税三百□ 高志五十戸税三十四束」
7世紀中ごろのもので,「税」を示す木簡としては日本最古のものである。
 阿波には,このように「高志」の地名があり,「古事記」に「年毎(としごと)に來て喫(くら)へり」と書かれていることから,ヤマタノオロチは,吉野川の事であると考えられる。毎年のように洪水があり「頭が八つ,尾が八つ」とは,吉野川の河口と上流の支流を表現している事である。一方古事記に「出雲國の肥(ひ)の河上(かはかみ)」と書かれる出雲を流れる肥川は,古代の四大文明が大河のほとりの肥沃な地に発展したように,吉野川下流域の出雲(伊津面)に流れる吉野川と考えて何の違和感も感じさせない。

【「高志」と書かれた木簡 徳島市国府出土】

第62回
ヤマタノオロチ(2) 足名椎(あしなづち)

 ヤマタノオロチは吉野川の事であると考えられる事を,前回(第61回)に書いた。オロチは,
 「その目は赤(あか)かがちの如くして,身一つに八頭八尾(やがしらやを)あり。またその身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生(お)ひ,その長(たけ)は谿八谷峽八尾(たにやたにをやを)に度(わた)りて,その腹を見れば,悉に常に血爛(ちただ)れつ。」
“身体は一つで八つの頭と尾が八つあり,苔や桧・杉が生え,長さは八谷にまたがり,腹は常に赤黒い。”
と書かれている。それは山野にまたがる河川の事を表現していると考えられる。
 日本三大暴れ川は,四国三郎(吉野川),利根川(坂東太郎),筑後川(筑紫次郎)である。「古事記」の国生みの地域内にある川は,阿波の吉野川である。オロチがやって来ると話すのは
 「僕(あれ)は國つ神,大山津見(おほやまつみの)神の子ぞ。僕(あ)が名は足名椎(あしなづち)と謂ひ,妻の名は手名椎(てなづち)と謂ひ,女(むすめ)の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)と謂ふ。」足名椎(あしなづち)である。
 足名椎(あしなづち)は,大山津見の神の子と答えているが,大山と言えば,徳島県板野郡上板町神宅にある大山である。大山から一望すると上板町高瀬,旧高志村がある。また娘の名は,櫛名田比賣(くしなだひめ)と書かれているが,徳島県板野郡藍住町徳命字名田に名田橋がある。
 このように徳島県板野郡周辺には,高志のオロチに関連するものがたくさんある。


【吉野川と支流】

第63回
ヤマタノオロチ(3) 第十堰

 須佐之男命(すさのおのみこと)の問いに「我(わ)が女(むすめ)は,本(もと)より八稚女(やをとめ)ありしを,この高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち),年毎(としごと)に來て喫(くら)へり。今そが來(く)べき時なり。故(かれ),泣く。」
「私の娘は,年ごとにやって来たヤマタノオロチに喰われてしまった」と足名椎(あしなづち)は,泣きながら訴えた。と「古事記」に書かれている。
 年毎にやって来るのは,大洪水を指していると考えられる。須佐之男命(すさのおのみこと)は,それに対して
「汝等(なれども)は八鹽折(やしほをり)の酒を醸(か)み,また垣を作り廻(もとほ)し,その垣に八門(やかど)を作り,門毎に八棧敷(やさずき)を結(ゆ)ひ,その棧敷(さずき)毎に酒船(さかぶね)を置きて,船毎にその八鹽折(やしほをり)の酒を盛(も)りて待ちてよ」と足名椎(あしなづち)に「垣を作り,その垣に門を作れ」と命令する。
 須佐之男命(すさのおのみこと)が,退治した八俣(やまた)の大蛇(をろち)は,吉野川の治水工事のことであると考えられる。
 徳島県板野郡上板町第十新田にある第十堰のような大規模な治水工事は出来なかっただろうが,第十堰は,板野郡上板町高瀬にも近く,その周辺では盛んに治水工事が行われたと考えてもつじつまの合わない話ではない。
 平成19年度に南蔵本遺跡で,自然流路に杭を打ち込み,堰板をはめ込み巧みに利用した弥生時代前期前半の灌漑施設(堰)が見つかった。このような前期の灌漑施設は,全国で十数例しか確認されておらず,非常に貴重な遺構で,庄・蔵本遺跡についで県内2例目である。
 阿波では,このように古代から盛んに灌漑施設を作り,豊かな水を利用して水と共に暮らしてきたのである。


【第十堰】

第64回
ヤマタノオロチ(4) 草薙の剣(くさなぎのつるぎ)

 「故(かれ),その中の尾を切りたまひし時,御刀(みはかし)の刃毀(はか)けき。ここに怪しと思ほして,御刀の前(さき)もちて刺し割(さ)きて見たまへば,都牟刈(つむがり)の大刀(たち)ありき。故(かれ),この大刀を取りて,異(あや)しき物と思ほして,天照大御神に白し上げたまひき。こは草薙(くさなぎ)の大刀(たち)なり。」と,「古事記」に書かれている。
 スサノオ(須佐之男命)が倒したヤマタノオロチ(八岐大蛇)の尾から出てきた太刀が,草薙の剣(クサナギノツルギ),別名,天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)といい,ヤマタノオロチの頭上に常に叢雲が掛かっていたためこの名がついたという。
 草薙の剣(クサナギノツルギ)は須佐之男命から天照大神に奉納され,後に天皇の象徴,三種の神器〔草薙の剣(クサナギノツルギ)・八咫鏡(ヤタノカガミ)・八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)〕の一つとなった。
 吉野川の上,高越山の麓,徳島県吉野川市山川町村雲(ムラクモ)に式内社の天村雲(ムラクモ)神社がある。御祭神は,天村雲命 伊自波夜比賣命である。
 式内社の天村雲(ムラクモ)神社は,伊射奈美神社や事代主神社などと共に式内社の中で阿波にのみ有る神社である。
 これらのことを見てもヤマタノオロチ(八岐大蛇)の物語は,阿波を舞台に繰り広げられたものと考えられる。


【式内社 天村雲神社 徳島県吉野川市山川町村雲】

第65回
ヤマタノオロチ(5) 須賀の宮

 須佐之男命(すさのおのみこと)は,(ヤマタノオロチを退治した後)
「宮造作(みやつく)るべき地(ところ)を出雲国に求(ま)ぎたまひき。ここに須賀(すが)の地に到りまして詔(の)りたまひしく
『吾(あれ)此地(ここ)に來て,我が御心すがすがし。』」
と言ってその地に須賀の宮を造営すると「古事記」に書かれている。また,
「故(かれ),其地(そこ)をば今に須賀(すが)と云ふ。この大,初めて須賀の宮を作りたまひし時,其地より雲立ち騰(のぼ)りき。ここに御歌を作(よ)みたまひき。」と書かれている。
 さて須賀の地に「須賀の宮」を作ったと書かれているが,徳島県吉野川市には,前須賀,先須賀,東須賀,中須賀,北須賀,西須賀の多くの須賀地名がある。しかも吉野川市鴨島町牛島字先須賀は,牛島(うしのしま)という地名がある。
 「うし」は,「大人(うし)」のことで「主(ぬし)」が住んでいた所であるから,牛島周辺もしくは,牛島の南にある向麻山(こうのやま)に須賀の宮があったと考えられる。
 現在,鴨島町周辺は,住宅が建て込んでいるが,大河,吉野川に広がる須賀の地に雨上がりの後立ち上がる雲を見て
 八雲(やくも)立つ 出雲(いづも)八重垣(やへがき) 妻籠(つまご)みに
八重垣作る その八重垣を
と,須佐之男命(すさのおのみこと)が,日本最初の和歌といわれる歌を詠んだ地であることは,その風景から容易に想像できることである。


【向麻山】

第66回
式内社 八桙神社

 式内社 八桙神社(やほこじんじゃ)は,徳島県阿南市長生町宮内にあり,大己貴命(おおなむちのみこと)を御祭神として祀っている。
 「日本書紀」に大己貴命と書かれているが,大国主命のことである。
 「古事記」には,
「大國主(おほくにぬしの)。亦の名は大穴牟遲(おほなむぢの)と謂ひ,亦の名は葦原色許男(あしはらしこをの)と謂ひ,亦の名は八千矛(やちほこの)と謂ひ,亦の名は宇都志國玉(うつしくにだまの)と謂ひ,あはせて五つの名あり。」
と書かれ,八桙神は,八千矛(やちほこの)と考えられる。
 一方,阿南市長生町は,かって那賀郡であり,「長国」と呼ばれていた。
 大己貴命(おおなむちのみこと)は,「おおいなる長国の主」たる意味を持っている。また,「長生」は長(おさ)が生まれた地を意味している。
 阿波国国史研究会 笹田孝至氏は,「阿波に秘められた古代史の謎」(財)京屋社会福祉事業団発行「大嘗祭」の中で,
 「邑名の「長生」は,長(おさ・大国主神)が生まれた地を示す名とも考えられる。」
と書かれている。
 大国主命の治める出雲は,葦原中国(あしはらのなかつくに)であり,「長国」であり葦の生い茂った那賀川流域を指してこれらのことも符合しているのである。
 また,後に書く大国主命の子供,事代主命(えびす),建御名方神とも関係してくるので,それらのことを総合的に見ると,「古事記」の世界は,ますます阿波で広がっていることになるのである。


【八桙神社(やほこじんじゃ) 徳島県阿南市長生町宮内】

第67回
式内社 八桙神社と八千矛神
 「大國主(おほくにぬしの)。亦の名は大穴牟遲(おほなむぢの)と謂ひ,亦の名は葦原色許男(あしはらしこをの)と謂ひ,亦の名は八千矛(やちほこの)と謂ひ,亦の名は宇都志國玉(うつしくにだまの)と謂ひ,あはせて五つの名あり。」と「古事記」に書かれている。
 大国主神のまたの名に八千矛神とあるが,これをすなおに読めば,「多くの鉾を持つ神」と読むことができるが,「銅矛文化圏」は,考古学から見れば,北九州から四国西部の地域に広がり,四国東部は,「銅鐸文化圏」であるから銅矛は出土していない。にもかかわらず,式内社 八桙神社が,なぜ徳島県阿南市にあるのであろうか?
 「古事記」に高千穂峰とあるように,「ほ」は,山の頂き(ピーク)を意味していると考えられる。徳島県上勝町に高鉾山があるように八桙神社の周辺の山は,多くの山の頂が連なるところから八千矛神と呼ぶようになったと考えられる。

【上勝町にある高鉾山】

【阿南市長生町 八桙神社周辺の山並み】
第68回
大国主命は,出雲(島根県)にいなかった

 古事記は,奈良時代の初め和銅5年(712年)に編纂された日本最古の歴史書である。一方,和銅6年(713年)に,元明天皇は諸国に「風土記」の編纂を命じた。「風土記」に記録された内容は,
 ●郡郷の名(好字を用いて)
 ●産物
 ●土地の肥沃の状態
 ●地名の起源
 ●伝えられている旧聞異事
等が記されている。
 完全に現存する「風土記」は残っていないが,出雲である島根県の「出雲国風土記」は,天平5年(733年)に完成し,ほぼ完本で残っているといわれている。しかし,「出雲国風土記」には,大国主命の物語が書かれていない。「出雲風土記」の中に大国主命は一度も出てこないのである。しかも出雲国を造ったのは大国主命ではなく,八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノミコト)と書かれている。
 当時の出雲国(島根県)の人々は,「こちらには,こちらの神様がいる」と国の神話をかなり率直に語り,独自性を強調している。
 これらの事を見ても,「古事記」に書かれる出雲を島根県に当てはめるという極めて不自然な解釈が横行していると言わざるをえない。しかも,後世に出雲を島根県に当てはめ,ますます,その状況を作りあげてきたことに他ならないのである。
 「古事記」に書かれる出雲は,島根県の事ではなく,阿波の徳島県の海岸部だったのである。その状況は,阿波と島根の式内社の分布状況をみても明らかである。
 「古事記」に書かれる出雲の神々が島根県に祀られておらず,阿波にそろって祀られていることを知れば,それはわかることである。

【阿南市長生町にある大国主命を祀る 式内社 八桙神社】

第69回
稻羽(いなば)の素(しろ)うさぎ

 「各(おのおの)稻(いなば)の八上比賣(やがみひめ)を婚(よば)はむ心ありて,共に稻に行きし時,大穴牟遲(おほなむぢの)に袋を負(おほ)せ,從者(ともびと)として率(ゐ)て往きき。」と「古事記」に書かれている。
 大国主命は,袋を背負わされ兄のお供をして「稻」に向かう。
 通常の解釈では,「稻」を「因幡」として鳥取県にあてて考えているが,先ず,前回(第68回)に書いたように,出雲である島根県に大国主命がいない。それでもなお,島根県から鳥取県に来たというのが通常の強引な解釈だが,「古事記」には,「各(おのおの)稻(いなば)の八上比賣(やがみひめ)を婚(よば)はむ心ありて,共に稻に行きし時,大穴牟遲(おほなむぢの)に袋を負(おほ)せ,從者(ともびと)として率(ゐ)て往きき。」と書かれていて,「稻」に行こうとする時の話であるから,「稻」に行く前の事だと考えられる。
 大国主命が兎に出会ったのは,「稻」ではないのである。
 では「稻」が,どこになるのかといえば, 「大山津見神(おおやまつみのかみ)と鹿屋野比売神(かのやのひめのかみ)」(第16回)で書いたが,徳島県板野郡上板町神宅には,式内社の鹿江比売神社(かえひめじんじゃ)があり,この神社と合祀され祭られているのが,式外社の葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)である。

【式外社】「延喜式神名帳」に記載される神社を式内社といい,「延喜式神名帳」に記載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。

 この葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)があり,八上比賣(やがみひめ)の存在を感じさせる「矢上」という地名が藍住町にあることなどから,吉野川北岸が「稻」と呼ばれていたのではないかと考えられる。


【式外社 葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)】

第70回
蒲生田岬と氣多(けた)の前(さき)

 「大穴牟遲(おほなむぢの)に袋を負(おほ)せ,從者(ともびと)として率(ゐ)て往きき。ここに氣多(けた)の前(さき)に到りし時,裸(あかはだ)の兎(うさぎ)伏(ふ)せりき。」と「古事記」に書かれるように,大国主命(大穴牟遲)は,「氣多の前」で兎に会う。
 「氣多の前」とは,橋げたのような岬と思われる。
 徳島県阿南市蒲生田岬から沖の伊島の間には,橋杭の瀬と呼ばれる岩礁群が連なっている。
 蒲生田には,「岬の橋杭」伝説が残っている。これは,「燈下録」という江戸時代(文化九年・1812)の書物に書かれ,阿波の民話集「お亀千軒」飯原一夫著にも収録されている。
 そのお話は,
 伊島と蒲生田間に連なる,橋杭の瀬と呼ばれる岩礁は,昔,神様が伊島まで橋を架けようと思い,山から大岩を運んできて,海の中に橋の杭を立て始めた。
 そこに通りかかった天邪鬼(あまのじゃく)に「倒れんように番をしとれ」と言って,また,山に大岩を運びに行った。
 天邪鬼は,神様がいない間に大岩でできた橋の杭を海の中に倒してしまった。帰ってきた神様は,今度は倒れないようにと頑丈に作ったが,天邪鬼は,神様がいない間に端から倒していった。とうとう神様は,根負けして橋を架けるのをやめ,何処かに行ってしまった。それで残った伊島と蒲生田間に連なる岩礁群を橋杭の瀬と呼ぶようになった。
 このように蒲生田岬の伝説は,蒲生田岬が橋げたのように細長く突きだしている所からも,橋げたのような岬に連想されたとしてもなんら不思議なことではないと思われる。


【伊島にのびる橋桁のような蒲生田岬】