第71回
ワニと兎と橋杭ノ瀬
四国最東端の蒲生田岬に立つと目の前に伊島が見える。
伊島から蒲生田岬に連なる岩礁は,「橋杭の瀬」と呼ばれる海の難所である。
江戸時代に書かれた「燈下録」という書物に「橋杭の瀬」の昔話が残っている。
「昔,神様が蒲生田岬から伊島に橋を架けようと岩を運んできて橋の杭を作り始めた。そこに現れた天の邪鬼が,邪魔をするので,神様は根負けして何処かに行ってしまった。それで残った岩を橋杭の瀬と呼ぶようになった。」と伝わっている。それは大国主命が素兎とあった気多岬(橋げたのような岬)を連想する。
岬に立って海を眺めていると,連なる岩礁に次々と白波が打ち立てて行く。それを眺めていると,以前,ヨットに乗る人が,「船乗りは,白波が立つと『兎が跳ぶ』という。」と言っていた事を思い出した。まさしく兎が跳ねている。
蒲生田という地名,蒲が生い茂る池は,古事記の舞台そのままである。
素兎は,沖の島からワニの背を数えながら飛び越えてきたというが,ワニは,海神の乗る船の事であろう。後の山幸彦・海幸彦の物語で,海神の乗る船「ヤヒロワニ」が橘にいると「日本書紀」に書かれている。橘に居るワニとは,阿南市の橘湾周辺に暮らしていた海人のことであろう。
後世,戦国期の細川・三好氏の活躍や蜂須賀家を陰から支えた阿波水軍は,全国諸藩からその勢力や技術力がうらやましがられたという。森水軍の本拠地が椿泊にある。
【伊島と蒲生田岬の間の橋杭ノ瀬に立つ浪】
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第72回
波の上を跳ぶ兎の彫刻
前回(第71回)で,蒲生田岬から沖の伊島に連なる橋杭の瀬に立つ波の写真を掲載したが,椿町周辺の神社には,下記の写真のような「波の上を跳ぶ兎の彫刻」が彫られている。
一つは,阿南市椿泊町にある佐田神社の拝殿の柱の礎石に彫られた二羽の兎。前の兎が,後の兎を導いているように彫られている。
次は,阿南市福井町土佐谷の金刀比羅神社の境内の後世山遙拝所の拝殿に彫られた「波の上を跳ぶ兎」。可愛く後ろ足を跳ねて波の上を跳んでいる。
一番みごとに豪快に彫られているのは,蒲生田岬突端の浜にある賀立神社(椿町蒲生田)の兎である。まるで波の音が,ゴーォーと聞こえて来そうである。兎の下に彫られた波もみごとであるが,兎の後ろ側に彫られた大波は一段のみごとに彫られている。
他にも兎の彫刻を彫った神社は時々見ることがあるが,この地区のように波の上を跳ぶ兎をみごとに彫っている彫刻を他の神社では見たことがない。蒲生田岬周辺は,稲羽の素兎の話を彷彿とさせる所である。
【椿泊町 佐田神社 拝殿柱の礎石に彫られた兎】
【福井町 金刀比羅神社】
【椿町蒲生田 賀立神社 波の上を跳ぶ兎】
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第73回
長の国の祖
徳島県阿南市長生町宮内にある,延喜式内社の八桙神社(やほこじんじゃ)の境内の看板に,「長(なが)の国の祖神は,大己貴命(おおなむちのみこと)」と書かれている。そのように書いているにも関わらず地元の人は,「長の国」は出雲ではないと思っている。大己貴命が「長の国の祖神」というならば,そこは,「古事記」に書かれる古代の出雲と呼ばれた所ということである。
阿波の南方は,古代から「長の国」と呼び,阿波の北方を「粟の国」と呼んできた。大己貴命の子供に,事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいるが,阿波には,大己貴命も事代主命も建御名方神も,すべて延喜式内社として存在していて,他県には無いといっていいほど見当たらない。
建御名方神も名方神(なかたのかみ)という以上,「長の国」の神,あるいは,長の国の方の神という意味を表していることからも,やはり「古事記」に書かれる「出雲」は,古代の「長の国」と言わざるをえない。
「出雲国風土記」(島根県)には,「古事記」に書かれる出雲の物語は語られず,島根独自の物語が伝わり,出雲(島根県)は,八束水臣津野命(やつかみづおみつのみこと)が造ったと書かれ,須佐乎命(すさのおのみこと)の御子(みこ)や大穴持命(おおなもちのみこと)の御子等が活躍する事が書かれている。
以上のことからも,古代「出雲」は島根県の事ではなく,阿波の県南部に広がる平野部「長の国」を中心とする地域が,「古事記」に書かれる古代の出雲であったと考えられる。
【八桙神社 看板】
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第74回
天津神・国津神 その1
712年に書かれた「古事記」,720年に国史として書かれた「日本書紀」等が,示している事の本旨は,「日本国を治めているのは天津神である。」ということである。それは,日本全国に暮らしていた人々が祀っていた神々の中に,天津神を中心に信奉する人々が広がっていった事を示している。
しかしながら「古事記」は,天之御中主神から続く「天津神」の子孫が,途中で「天津神」,「国津神」と別れる矛盾を示している。今日まで一系統で続けてきたのであるから,これは伝えが誤ってしまったと考えるべきである。(【第34回】男系天皇 参照)
私は,天之御中主神を祀る高御産巣日神の下に,神産巣日神信心集団として集まった中に伊邪那岐神が加わっていたと考えている。「国津神」である伊邪那岐神の子孫であるスサノオや大国主神が「国津神」にあたるのは,当然のことである。
これは,「古事記」が正しく伝わり,正確に書かれていない部分で,「古事記」,「日本書紀」等を基に日本の国が出来上がり,今日まで続いていることであるから「古事記」等を全体から見れば,何ら矛盾はない。
【古事記に書かれる神々の系譜】
天之御中主神
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高御産巣日神
(たかみむすびのかみ)
│
神産巣日神
│
宇麻志阿斯訶備比古遅神
│
天之常立神
┌─────┴───┐
伊邪那岐神 伊邪那美神
(いざなきのかみ) ==(いざなみのかみ)
┌──────┼────────
天照大御神 月読命
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邇邇藝命
(ににぎのみこと)
│
神武天皇
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──┐
スサノオ
│
大国主神
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〔天津神〕
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〔国津神〕
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第75回
伊邪那岐大神は,国津神
前回に引き続き天津神・国津神について考える。伊邪那岐命は,通説では,高天原にいた天津神と考えられている。しかし,前回でも書いたように,伊邪那岐命の子孫である大国主命が,国津神となっている。天津神の子孫が男系で続いていて,途中で国津神に変わる事はない。伊邪那岐命は,もともと国津神であったと考えられる。
「古事記」の「黄泉国の段」には,次のように書かれている。
千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて,その石を中に置きて,伊邪那美命言ひしく,「愛(うつく)しき我(あ)が汝夫(なせ)の命(みこと),かく爲(せ)ば,汝(いまし)の國の人草(ひとくさ),一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。
千引き岩をはさんで伊邪那岐命と伊邪那美命は,相争う。伊邪那美命が,「そんなことをするなら,あなたの国の人々を一日に千人殺す」と云う。伊邪那岐命は,伊邪那美命達に追われ,黄泉国から葦原中国に逃げてくる。葦原中国にいるのは,国津神である。その国津神を一日千人殺すという。しかも,「汝の國」と云っているから,伊邪那岐命は,葦原中国の出身であることを示している。よって伊邪那岐大神は,出雲の出身者であり国津神である。
伊邪那岐命は,祭祀,祭礼を修得する修験者として高天原にやって来た。そして国津神の娘,伊邪那美命と出会い,葦原中国の開拓を命じられるのである。
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第76回
式内社 事代主神社
大国主神の子供に事代主命がいる。阿波では,阿南市に大国主神がいて,隣町の勝浦町に事代主命がいる。
平安時代に記録された式内社の中に事代主神社があるのは,阿波国の勝浦郡の事代主神社と阿波市の事代主神社だけである。それ以外に,事代主命が祀られるのは,宮中と奈良の鴨都波八重事代主命神社だけである。
勝浦町の「勝浦町前史」第二章 生夷荘に
生夷(いくいな)の地名については,阿淡郡庄志に「昔時,当村(沼江村)に蛭子誕生阿(あ)りしと也,故に生るゝ夷と書,いくいなと唱(うた)ふ」
と書かれている。
つまり,蛭子は,エビス(事代主命)のことであるから,勝浦町はエビスが生まれた地という意味である。また,勝浦町には,「生比奈」という地名がある。
岐阜県岐阜市に式内社の比奈守神社(ひなもりじんじゃ)があるように「比奈(ひな)」は,夷曇り(ひなぐもり)・夷振り(ひなぶり)夷守(ひなもり)とあるように,これもまた「えびす」のことである。
事代主神を祀る奈良で一番古い神社といわれる奈良市駅近くにある式内社の率川阿波神社は,宝紀二年(771年)阿波国から勧請したと伝わっている。
このような資料を集めていくと,「古事記」に書かれる出雲は,阿波にあったことがわかる。
島根県には,大国主神や事代主神,あるいは,名方神がいたという事実が残っていないのである。
【勝浦郡 生夷神社】
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第77回
天照大御神は国津神
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが,「竺紫の日向の橘の小門」で禊ぎをすると天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。と「古事記」に書かれている。
一般では,天照大御神を天津神と考えているが,天照大御神は,国津神であるイザナギの子供で,イザナギが出雲の阿波岐原で禊ぎをした時に生まれたのである。高天原で生まれたわけではない。
イザナギは,最初に高天原でいたので,天津神と考えるのだろうが,第75回で書いたように,イザナギは国津神である。
最初から天津神は,天津神の系統。国津神は,国津神の系統にわけているのだから,イザナギから生まれた天照大御神が天津神で,片方の須佐之男命が出雲の代表者,国津神の大国主命の父であるというなら,つじつまが合わない。
イザナギの子として生まれた天照大御神は国津神だが,高天原に送られ高御産巣日神系統の神と結婚して,正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命,天之菩卑能命,天津日子根命,活津日子根命,熊野久須毘命と5人の男子を生んだので,天皇の御祖先として伊勢神宮に祀られ天津神として考えられているのである。
天津神は高御産巣日神から始まり,神産巣日神は国津神の祖先と考えると,つじつまが合って,「古事記」を読むことができる。
【阿南市見能林 打樋川から津乃峰を望む】
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第78回
高志の沼河比売
八千矛神(大国主)が高志国に住む沼河比売を妻にしようと思い,高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ事が「古事記」に書かれている。
高志といえば,通説では「この高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(をろち),年毎(としごと)に來て喫(くら)へり。」と八俣の大蛇を出雲(島根県)の話としてあてている。そして沼河比売の住む高志は,北陸にあてる。これでは話のストーリーが噛み合わなくなる。同じ高志の話であるのに,人が移動せず,島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまう。なぜ高志を北陸にあてるかというと,新潟県糸魚川市に沼河比売を祀る式内社の奴奈川神社があるからであるが,いくら奴奈川神社が北陸にあるからとしても,高志を「コシ」と読み「越」にあてはめるという解釈は,論外の話である。
また,『先代旧事本紀』に,建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。建御名方神は大国主命の子供であるから,高志は出雲でなければ話がますます合わなくなる。
徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は,名西郡石井で関の八幡神社(写真下)に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり,建御名方神が祀られている。関の八幡神社の周辺は,吉野川の川縁で,まさに沼や川のある風景が広がり,沼河比売が住んでいた情景が浮かんでくる。
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第79回
建御名方(たけみなかた)神社
高志に住む沼河比売と大主国命の子供が,建御名方神(たけみなかたのかみ)である。
建御雷之男神と天鳥船神が,葦原中国を譲るように高天原から出雲に降りてくる。力競(ちからくら)べに負け,建御名方神は州羽(すわ)の海に逃げていったと「古事記」に書かれている。
平安時代に編纂された延喜式神名帳に,阿波国の名方郡に多祁御奈刀弥神社があったと記録されている。多祁御奈刀弥神社は,現在,石井町浦庄諏訪にある。
社伝によると,信濃諏訪郡の南方刀美神社(現在の諏訪大社)は,この阿波の多祁御奈刀弥神社から,宝亀10年(779年)に移遷されたと伝わっている。『名西郡史』にも,「社伝記ニ光仁帝ノ御宇宝亀10年信濃國諏訪郡南方刀美神社名神大,阿波国名方郡諏訪大明神ヲ移遷シ奉ル」と書かれている。
「建御名方神」というと,諏訪大社(長野県諏訪市)に祀られている神と一般には教えられているが,諏訪大社は式内社の南方刀美神社であり,長野県には健御名方富命彦神別神社などがあり,「別」と書かれているように,別けた神社であることを示している。
発祥地は忘れ去られ,後に発展した大きな社殿を持つ神社に目を奪われ,それを本家と見てしまう場合が一般には多いものだが,一般に言われている事と事実とは異なる事を知っていたいものである。
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第80回
豊葦原水穂国と葦原中国
天照大御神は,「豊葦原水穂国は我が子,天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)の治める国である。」と,第二子の天菩比命(アメノホヒ)を葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わした。しかし,天菩比命は大国主神の家来になってしまい,葦原中国に住み着いて三年間高天原に戻らなかった。次に天若日子命(アメノワカヒコ)を遣わしたが,天若日子命は,大国主の娘 下照比売(シタテルヒメ)と結婚し,八年たっても高天原に戻らなかった。そこで,天照大御神は,建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)を遣わし葦原中国を平定した。最後に天照大御神の孫 日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギ)が高天原から豊葦原水穂国に降りて来た。
豊葦原水穂国は,豊かな葦原であった吉野川平野を指し,葦原中国は,阿波の海岸部全体を指しているが,長国である那賀川一帯を指して「古事記」は書かれている。
天照大御神の孫 日子番能邇邇芸命は,出雲である豊葦原水穂国に降りてくるのだから,九州の宮崎に降りて来たのでは,つじつまが合わない話となってしまう。
阿波には,そのほかにも天孫降臨の足跡を示す数多くの史跡が点在している。順を追ってたどっていく。
【葦原中国を示す阿波の海岸部】
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