〜日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。〜

第91回〜第100回
第101回
竺紫の日向の禊ぎ(2) 飽咋之宇斯能神

 阿南古事記研究会の会員,請田和彦氏が阿南市にある ( あこめ ) 海岸について調べていた。袙とは,装束の中着のこととあり,さらに調べていると「のうし(直衣)」という言葉にいきあたった。
 「古事記」を毎日読んでいる請田氏は,ピンと来た。イザナギの神が,「 竺紫 ( つくし ) 日向 ( ひむか ) ( たちばな ) 小門 ( をど ) 阿波岐原 ( あはきはら ) 」で禊ぎ祓いした時に,杖から 衝立船戸 ( つきたつふなとの ) 神。帯から 道之長乳歯 ( みちのながちはの ) 神。 ( ふくろ ) から 時量師 ( ときはかしの ) 神。 ( けし ) から 和豆良比能宇斯能 ( わづらひのうしの ) 神。 ( はかま ) から 道俣 ( ちまたの ) 神。 ( かがふり ) から 飽咋之宇斯能 ( あきぐひのうしの ) 神。左手の飾りから 奥疎 ( おきざかるの ) 神・ 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさびこの ) 神・ 奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべらの ) 神。右手の飾りから 邊疎 ( へざかるの ) 神・ 邊津那藝佐毘古 ( へつなぎさびこの ) 神・ 邊津甲斐辨羅 ( へつかひべらの ) 神。以上の十二神が生れた。
 「のうし(直衣)」とは, 和豆良比能宇斯能 ( わづらひのうしの ) 神のことではないか?と思ったという。「古事記」の解説書では,「わづらいの主神」と書かれているが,衣から現れた神が, 和豆良比能宇斯能 ( わづらひのうしの ) 神であるので,けがれた衣の神と考える方がつじつまが合う。 奥疎 ( おきざかるの ) 神・ 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさびこの ) 神・ 奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべらの ) 神は,沖の伊島の當所神社に祀られ, 和豆良比能宇斯能 ( わづらひのうしの ) 神も ( あこめ ) に関係するとなると,イザナギの神が禊ぎした地は,阿南市の見能林である事がより鮮明に浮かび上がってくる。


(地図)阿南市

あこめ【衵・袙】(アイコメ(間籠)の義という)宮廷奉仕の男女の装束の下着。上の衣(きぬ)と下の単(ひとえ)の衣との間につける衵の衣の略称。季節に応じ,華麗を競って数枚重ねたのを重ね衵という。形状は単と同様で裏付きとし,女子は身丈(みたけ)より長く,男子は袴に着籠めるので腰下までで脇明(わきあけ)とする。
のうし(ナホシ)【直衣】(ただの衣,平常服の意)「直衣の袍(ほう)」の略。平安時代以来,天子・摂家以下公卿の平常服。大臣家の公達(きんだち)と三位以上は勅許を得れば直衣のままで参内できた。形状は衣冠の袍と全く同様であるが,衣冠とちがって位色の規定がなく,好みで種々の色を用いたので,雑袍(ざつほう)の名がある。平安時代の女房の物の具の略装も女房の直衣という。のうしのころも。すそづけのころも。
(資料)広辞苑 第二版より
第102回
御大之御前(みほのみさき)その2

 2011年9月21日台風15号は,阿波にも大雨を降らし過ぎ去った。徳島市のシンボル眉山は,まるで海に突き出した大きな岬のようである。これが古事記に書かれる御大之御前(みほのみさき)であることは,「阿波と古事記」第82回に書いたが,徳島古事記研究会元会長の佐藤文昭氏から「阿波志」に

 八幡祠
 富田山麓に在り 三保射枳 ( みほさき ) 神を以て合食す
采地二十石,舊隱谷の下に在り慶長七年
瑞厳寺を置く因て之を移す
祝河野氏,甚左衛門に至り
移て掃除街に居る故あつて
亡す麻植郡早雲氏之に代る

と書かれている事を教えられた。
 徳島市の瑞巌寺は,眉山の最東端に位置している。富田浜,中津浦,内浜,沖浜,新浜,沖の洲と町名が残るように,眉山周辺の古代は,海だったことがわかる。その眉山の際突端に,三保射枳神(みほさきかみ)が祀られていたのである。
 阿波に残る事実が発見される度につじつまが合い,ますます真実味を帯びて見えて来る。事代主神が釣りをした御大之御前(みほのみさき)が眉山の山なみである事は,間違いないようである。

 【阿波志】
 徳島藩に「阿波志」編纂を命じられた佐野山陰は,一七九二年(寛政四),全一二冊 郡ごとに,土地関係の情報,寺社,史跡,人物など多岐にわたる内容が記載されている。


【写真 「阿波志」・眉山 徳島市方上町にて撮影 2011.9.21】

第103回
大嘗祭と高天原

 「古事記・日本書紀」は,「高天原の文化が広がり,日本の文化になった。」ということが本旨であり,「天皇は,その根源から繋がり続いている。」という事を伝えている。そして日本国の天皇は,現在においても連綿と続いている。つまり,天皇は,高天原から繋がっていると言う事になるのである。
 前天皇から新天皇への“引継ぎ儀式”が大嘗祭で,皇祖神の「天皇霊」を新天皇が受け継いで心身一体化することにあり,それは当然,高天原から「天皇霊」が降ることにある。「大嘗祭」をひとくちでいえば,「天孫降臨」の故事を儀式的に再現したものであり,歴代天皇が何代にも渡って,天皇の一世一度の重大な祭儀として伝承されてきた儀式であることから見ても,阿波に高天原があるという事になるのである。
 なぜなら,阿波の木屋平という山間部の三木家に残る古文書に大嘗祭に使われる「麁服(あらたえ)」が,天皇が即位後,初めて行う践祚大嘗祭の神座に神衣(かむそ)として祀る「麁服」(麻の織物)を指名された忌部の氏人が御殿人(みあらかんど)となり,上古より阿波忌部氏の役割として,麁服神服(あらたえかむみそ)を調製し貢進してきた事が古文書に書かれているからである。大嘗祭を辿れば,
 三木家に残る一番古い大嘗祭に関する古文書が,鎌倉時代の文応元年(1260年)
 権中納言 藤原長兼が書いた「山長記」(1211年)
 内大臣 藤原忠親が書いた「山槐記」 (1184年)
 右大臣 藤原実資が書いた「小右記」 (1012年)
 大嘗(おおみにえ)の年に阿波から麁布(あらたえ)が運ばれたことを書いた「古語拾遺」(807年)
 さらに,21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)(在位456年〜479年)古墳時代にまで遡ることが出来る。


【三木山 徳島県美馬市木屋平】

第104回
倭には,倭大國魂神社がある。

 徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3に,式内社の倭大國魂神社がある。周辺には「八幡古墳群」「大国魂古墳群」があり,古代から発展した地域である。


 「倭(やまと)」といえば,一般には奈良と思うだろうが,なぜか阿波の美馬郡に「倭」の文字の付く神社があるのだろうか?しかも肝心の「倭」と思われている奈良の式内社二百八十六座の中に「倭」の付く神社は,倭恩智神社 奈良県天理市海知町32しか存在せず,大和坐大國魂神社 奈良県天理市新泉町星山306があるにはあるが,「倭」が「大和」と新しく発展した表記になっている事からも古代の「倭(やまと)」は,美馬市一帯のことである事は間違いない。
 また,式内社3,123座の中に大國玉神社は,

大國魂神社
 福島県いわき市平菅波字宮前54
大國玉神社
 茨城県真壁郡大和村大字大国玉1
大國玉神社
 三重県松阪市六根町879
大和國魂神社
 兵庫県南あわじ市三原町榎列上幡多857
水主坐山背大國魂命神(水主神社)
 京都府城陽市水主宮馬場30
大國玉神社
 長崎県壱岐郡郷ノ浦町大原触1125

等あるが,「倭」の付く神社は,阿波以外に見当たらない。しかし,「倭」であるにもかかわらず,天津神が祀らず,いずれの神社にも,大國主神や千戈大神,大己貴神など国津神である大国主神が御祭神として祀られているのは,国譲りの後,天津神が国津神の長(おさ)を倭國の長(おさ)として祀ったと考える。

第105回
天岩戸の秘文 「阿波礼」

 斎部宿禰廣成は,「古語拾遺」の中で,天岩戸が開いた時の状況を伝えている。日本人は,古来から精神文化の高みに至っていたということを改めて知ることができる。

 阿波禮【言天晴也】 阿那於茂志呂【古語 事之甚切 皆稱阿那 言衆面明白也】 阿那多能志【言伸手而舞 今指樂事謂之多能志 此意也】 阿那佐夜憩【竹葉之聲也】 飫憩【木名也 振其葉之調也】
(あわれ あなおもしろ あなたのし あなさやけ おけ)

 阿波禮(あわれ)とは,「折に触れ,目に見,耳に聞くものごとに触発されて生ずる,しみじみとした情趣や哀愁」。つまり,現れてきたものを気づき感じることである。

阿那於茂志呂(あなおもしろ)は,ああ面白い。
阿那多能志(あなたのし)は,ああ楽しい。
阿那佐夜憩(あなさやけ)は,ああさわやかな
飫憩(おけ)は,はやしことばと言われているが,
おけは最後に付くので終わりの意味と考える。

 そこで,私は下記のように訳してみた。

阿波は,ことにおいて
いつも面白く
いつもたのしく
いつもさわかに
心をそこにとどめる

 人間が生きる究極のことを謡ったものである。人は浮世に流され,喜怒哀楽に浮き沈みし一生を送っている。しかし,誰もが阿波礼を感じて生きていたいと願っている事である。
 阿波踊りの真髄,
   踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら
   踊らな そんそん
 という生き方で暮したいものです。