〜日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。〜

第71回〜第80回
第81回
阿波の新酒 高志のを呂智(おろち)

 徳島県名西郡石井町の鳴門金時蒸留所から,「古事記」の 八俣 ( やまた ) 大蛇 ( おろち ) に因んだ焼酎,「 高志 ( たかし ) を呂智 ( おろち ) 」が発売される。
  八俣 ( やまた ) 大蛇 ( おろち ) といえば,出雲の事と想像するかも知れないが,「古事記」には,高志の 八俣 ( やまた ) 大蛇 ( おろち ) と書かれ, 高志 ( たかし ) と書かれている。
 「高志」は,現在,高志小学校,高志農協,高志郵便局があるように,徳島県板野郡上板町にあった古地名である。この地名は,国府の観音寺木簡の出土によって古くからあった事を知ることが出来る。吉野川を挟んだその南は,鳴門金時蒸留所のある徳島県名西郡石井町高原である。
  八俣 ( やまた ) 大蛇 ( おろち ) は, 八塩折 ( やしほをり ) ( さけ ) を飲んで酔っ払ってしまう。 八塩折 ( やしほをり ) ( さけ ) とは,まさに焼酎のようなアルコール度数の強い酒である。
 鳴門金時蒸留所は,これまでにも鳴門金時芋で醸造した焼酎を製造してきたが,新発売の「 高志 ( たかし ) を呂智 ( おろち ) 」は,鳴門金時芋を遠赤外線の出る焼き芋機で,一回に400〜500kgの焼き芋にした後,発酵させ醸造するそうだ。
 「 高志 ( たかし ) を呂智 ( おろち ) 」を阿波の誇る酒にしたいものである。


第82回
御大之御前(みほのみさき)その1

 大国主神が,出雲の 御大之御前 ( みほのみさき ) にいた時,波の穂より, 天之羅摩船 ( あめのかがみのふね ) に乗り漂着した神は,少名毘古那神。」と「古事記」に書かれている。
 出雲の御大之御前というと,現在の島根県の美保岬に当てているが,「古事記」の神代に書かれている出雲は,島根県の事ではなく阿波の海岸部である事は,「阿波と古事記」第1回から何度も詳しく書いて来た事である。
 そこで,その出雲の「御大之御前」は阿波のどこに当たるかというと,それは,徳島市にある眉山と考えられる。現在,眉山周辺は陸地になっているが,徳島市内に残る地名,沖洲・新浜等を見ると徳島市は古代海で,八万町に中津浦,内浜,沖須賀等がある。上空から見ても眉山は,海に突き出た岬である。
 また,眉山東端,忌部神社のある勢見山の麓まで海が迫り波打っていたという伝承も重ね合わせると,横長に連なる眉山は「御大之御前」にふさわしい山なみであると考えられる。
 「御大の前」は,葦原中国に降りて来た建御雷神が,大国主神に出雲を譲るように迫った時,「我が子の事代主神に聞いてもらいたいが,魚を採りに行って御大の前からまだ帰って来ない」と答える。古代の島根には,大国主も事代主もいたという話は無いのだから,「古事記」は阿波の話である。


【徳島市地図・眉山復元】

第83回
事代主神と鮎占い

  御大之御前 ( みほのみさき ) といえば,えびすさん(事代主神)が鯛を釣っているというイメージが浮かびあがる。しかし事代主命の生まれた地は,式内社事代主神社のある勝浦町である。勝浦には海が無いので,川で鯛を釣る事はできない。(第76回 式内社 事代主神社 参照)にもかかわらず,なぜえびすさんが海で鯛を釣るようになったのだろうか?
 式内社事代主神社のある勝浦町には勝浦川が流れ,鮎釣りが盛んに行われている。
 鮎は,魚偏に占うと書く,つまり占いに使われた魚である。
 「古事記」や「日本書紀」には,神武天皇が大和に侵攻するとき,高倉山で敵に包囲されてしまい,そのときに「酒を入れた瓶子を丹生川に沈めて,もし魚が浮いてきたなら大和を平定できる」という霊夢に従ったところ,本当に酔った鮎が浮んできて無事に大和を治めることができた。という話や,神功皇后が朝鮮に渡る前に肥前松浦で,「もし私の希望が叶うなら川の魚は鈎にかかるべし」と神に祈念して,米粒をエサに糸を垂れたところ,鮎が釣れたので皇后は無事に渡海できた。とも書かれている。
 大国主大神を祀る式内社勝占神社は,勝浦川の河口,徳島市勝占町中山に鎮座することからも,鮎占いが行われていたと考えられる。釣り好きが高じてミホノ岬(眉山)に釣りに行ったことだろう。
 山で生まれた事代主神が釣り好きになったのは,鮎占いからと考えられる。
 なお,川魚といえば,天魚(あめご)である。天魚は,高天原を泳ぐ魚であり,天と呼ぶのは,四国中心とした地域である。 (第53回天魚(あめご)参照)


第84回
天照大御神と高御産巣日神

  天照大御神 ( あまてらすおおみかみ ) 天岩戸 ( あまのいわと ) ( こも ) った後,再び現れ「『 豊葦原 ( とよあしはら ) 千秋長五百秋 ( ちあきのながいほあき ) 水穂國 ( みづほのくに ) は, ( ) 御子 ( みこ ) 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命 ( まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと ) の知らす國ぞ。』と言よさしたまひて」と「古事記」に書かれている。天照大御神の単独で詔を発するのは二カ所で,その他の七カ所では,天照大御神の ( みことのり ) 命令 ( めいれい ) )を 高御産巣日神 ( たかみむすひのかみ ) が述べているのだから,天照大御神は天岩戸にお隠れになり,代わって高御産巣日神が,「この 葦原中國 ( あしはらのなかつくに ) は,我が御子の知らす國と 言依 ( ことよ ) さしたまへりし國なり。 ( かれ ) ,この ( くに ) 道速振 ( ちはやぶ ) 荒振 ( あらぶ ) ( くに ) 神等 ( かみども ) ( さは ) なりと 以爲 ( おも ) ほす。これいづれの神を 使 ( つか ) はしてか 言趣 ( ことむ ) けむ。」と天照大御神の詔を述べたと考えられる。
 これは,「第34回(特別篇)男系天皇」でも書いたように,皇位継承は男系で貫いてきた事を示している。国津神の娘,出雲生まれの天照大御神は,高天原に上り高御産巣日神の ( きさき ) となったのであろう。 天照大御神は, 須佐之男命 ( すさのおのみこと ) が高天原に登ってくるのを嫌う。須佐之男命は,子供が娘ばかりである事で高天原を奪いに来た事でないことを証明する。
 そして高天原から大国主神や事代主神(えびす),建御名方神が治める平野部の出雲,豊葦原の千秋長五百秋の水穂國へ天降ってこようという計画が立てられる。
 こうして「古事記」の物語は,阿波の山間部から平野部へと天孫降臨してくるのである。


【美馬市木屋平 東宮山】

第85回
高千穂峰(気延山)その1

  日子番能邇邇藝命 ( ひこほのににぎのみこと ) 詔科 ( みことおほ ) せて,「この 豊葦原水穂國 ( とよあしはらみずほのくに ) は, ( いまし ) 知らさむ國ぞと 言依 ( ことよ ) さしたまふ。故, ( みこと ) ( まにま ) 天降 ( あまくだ ) るべし。」と命令され,高天原から出雲にある「 竺紫 ( つくし ) 日向 ( ひむか ) 高千穂峰 ( たかちほのみね ) 」に降りて来たことが,「古事記」に書かれている。
 古事記に書かれたことをすなおに読めば,降りて来た高千穂峰は,徳島市の西に聳える 気延山 ( きのべやま ) にあたる。

 【高千穂峰の該当する条件】
1,    大国主命が治める出雲であること。
2,    豊葦原水穂國 ( とよあしはらみずほのくに ) であること。
3,    竺紫 ( つくし ) 日向 ( ひむか ) 高千穂峰 ( たかちほのみね ) であること。
4,    韓國 ( からくに ) に向っていること。
5,    笠沙 ( かささ ) 御前 ( みさき ) 眞來 ( まき ) 通っていること。
6,    朝日の 直刺 ( たださ ) す國,夕日の日照る 甚吉 ( いとよ ) ( ところ )
7,    天津久米命 ( あまつくめのみこと ) の住む所。
これらの条件が揃った場所が,高千穂峰に該当する。

 徳島県徳島市国府町と名西郡石井町にある標高212.3mの 気延山 ( きのべやま ) 周辺には,古墳が200基あると言われている。その数を知るだけで,いかに尊い山であるかが想像される。この山には,天岩戸を別けた,阿波一宮で式内社である 天石門別八倉比売 ( あまのいわとわけやくらひめ ) 神社がある。


【天石門別八倉比売神社の一鳥居から望む気延山】

第86回
天津神・国津神 その2 国津神 イザナギ

 第74回で,イザナギ神は国津神である事を書いたが,通説では,天津神は高天原にいる,または高天原から天降った神の総称,それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされているので,イザナギ神は天津神であると考えられている。

 天津神
  造化の三神(天之御中主神,タカミムスビ,カミムスビ)・神世七代(国之常立神など)イザナギ・イザナミ・アマテラス・ツクヨミ・アメノタヂカラオ・アメノウズメ・オモイカネ・タケミカヅチ・経津主神・ニニギなど

 国津神
  スサノオ・大国主神・事代主神・建御名方神・サルタヒコ・アヂスキタカヒコネなど

 しかし,高天原と出雲に住み分けていた神々を区別しているのであれば,天津神から国津神がわかれた事になる。つまり,天津神のイザナギから国津神が生まれた事になる。それでは同族が,なぜ国津神になったのか説明がつかない。
 もともと高御産巣日神の系統が,天津神の系統であり,神産巣日神が,国津神の系統である。国津神が頼りにしているのは,常に神産巣日神である。
 以上のように考えると,「古事記」に書かれる物語に整合性がでてくる。


【古事記に書かれる神々の系譜】

第87回
天津神・国津神 その3 天照大御神

 第77回で「天照大御神は国津神」を書いた。天照大御神は,通常では天津神と考えられているが,天照大御神は,国津神,イザナギの子供である。
 第75回第86回でも書いたように,国津神スサノオ・オオクニヌシの親であるからイザナギは国津神である。天照大御神の弟がスサノオであるから,天照大御神も国津神ということになる。
 国津神イザナギの子として生まれた天照大御神は国津神だが,高天原に送られ高御産巣日神系統の神と結婚したので天津神となったのである。
 そして正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命,天之菩卑能命,天津日子根命,活津日子根命,熊野久須毘命と5人の男子を生み,天皇の御祖先として伊勢神宮に祀られ天津神として祀られている。
 天津神は高御産巣日神から始まり,神産巣日神は国津神の祖先と考えると「古事記」に書かれたことのつじつまが合ってくる。
 「天津神・国津神」の事が理解できていなければ,「古事記」の読み方や日本の文化を正確に見る事が出来ないと考える。また,これは現実の世の中をみる時の非常に重要な物の見方の基準となる。すなおに「古事記」を読めば,阿波が浮かんでくる。従来の妄想に惑わされないようにしたいものである。


【阿南市見能林 賀志波比賣神社】

第88回
天津神・国津神 その4 高御産巣日神

 『古事記』に天地開闢の時,最初に 天御中主神 ( あめのみなかぬしのかみ ) が現れ,次に 高御産巣日神 ( たかみむすひのかみ ) 神産巣日神 ( かみすひのかみ ) と共に高天原に現れたと書かれている。
  高御産巣日神 ( たかみむすひのかみ ) は,葦原中津国平定・天孫降臨の際は 高木神 ( たかぎのかみ ) という名で登場する。
 天照大御神の御子・ 天忍穂耳命 ( あめのおしほみみのみこと ) 高御産巣日神 ( たかみむすひのかみ ) の娘, 萬幡豊秋津師比賣命 ( よろづはたとよあきつしひめのみこと ) と結婚して生まれたのが天孫 邇邇藝命 ( ににぎのみこと ) であるので, 高御産巣日神 ( たかみむすひのかみ ) は天孫 邇邇藝命 ( ににぎのみこと ) の外祖父に相当するとされ,天照大御神が皇室の祖とされている。しかし,男系によって続く天皇であるなら天照大御神から始まるというのでは,不自然ではないだろうか。(第34回参照)
 しかも,天孫降臨する際に 天兒屋命 ( あめのこやねのみこと ) 布刀玉命 ( ふとたまのみこと ) 天宇受賣命 ( あめのうずめのみこと ) 伊斯許理度賣命 ( いしこりどめのみこと ) 玉祖命 ( たまのやのみこと ) 邇邇藝命 ( ににぎのみこと ) に同行するが,高木神は思金神に「前のこと取り持ちて政(マツリゴト)せよ」と命じて送り出し,天照大御神より優位に立って天孫降臨を司令している。また,神武天皇の熊野から大和に入る時,天照大御神と高木神が,夢の中に現れ,やはり,高木神が,「今,天より八咫烏を遣はさむ。」と言い,八咫烏に導かれ神武天皇は大和に入ることができる。その後,「古事記」の中に高木神は,登場することはないが,これらのことから高木神は,本来の皇祖神であると考えられる。


第89回
天津神・国津神 その5 高木神

 祭りは,常緑樹のひもろぎ(神籬)を立て,それを神座(神の ( ) ( しろ ) )として始まる。
 イザナギとイザナミが,天津神の命令を受けオノコロ島に降り天の御柱を廻ったように,天津神が始めた神事の原型はそこにみる事ができる。その事からもわかるように,天津神の神事は,御柱である。そして高御産巣日神,高木神は,その名の如く御柱のことである。
 天孫降臨する際に,天照大御神が,
「これの ( かがみ ) は, ( もは ) ら我が 御魂 ( みたま ) として,我が ( まへ ) ( いつ ) くが 如拜 ( ごといつ ) ( まつ ) れ。 ( つぎ ) 思金神 ( おもひかねのかみ ) は,前の事を取り持ちて, ( まつりごと ) せよ。」と鏡を天照大御神と思って祀るようにと命令する。そして崇神天皇6年疫病を鎮めるべく,従来宮中に祀られていた天照大御神を皇居の外に移した。その後各地を移動し,垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮に御鎮座した。
 伊勢神宮の内宮には,天照大御神がお祀りされているのだから,鏡を一番に祀っているのかと思えば,NHKの取材で真の御神体は「 ( しん ) 御柱 ( みはしら ) 」であるという番組を放送していた。
 伊勢神宮は,20年ごとに建て直す(式年遷宮)が,深夜に古い宮から新しい宮に「心の御柱」を遷す。「心の御柱」は布に包まれているが,番組では石ではないかとほのめかしていたが,神主の「口に出すのも懼れ多い」という発言も映していた。
 心の御柱とは,高木神のことであろうか?


第90回
高千穂峰(気延山)その2 天孫降臨は,出雲の地へ

 事代主神は「この國は, ( あま ) つ神の 御子 ( みこ ) ( たて ) ( まつ ) らむ。」と父親の大国主神に葦原中国を譲るように勧める。
 ついに,出雲を治める大国主神は,「 ( ) が子等,二はしらの神の白す ( まにま ) に, ( ) は違はじ。」と出雲を天津神に譲ることを同意する。
 こうして高天原から天照大御神の孫, 邇邇藝命 ( ににぎのみこと ) が豊葦原水穂の国に降りて来るのだが,「古事記」には,大国主神が治める出雲は,葦原中国と豊葦原水穂の国と二種類表記されている。
 葦原中国は,出雲の全体を指すのか一部分の地域を指しているのだろうか? 阿波の海岸部の葦が生えている部分の全体をさして葦原中国と言っているのだろうか? むしろ県南の那賀郡(旧国名,長国)大国主の本拠地を指しているのであろう。
 豊葦原水穂の国は,文字の示すように豊かに葦の生える場所でなければ,豊葦原とは言わない。その点,大河吉野川流域は,豊葦原水穂の国のイメージに適した所である。しかも国府町にある気延山周辺には,古い古墳が200基もあるという。それを持ってみてもいかに尊い山であるかがうかがえる。
 天孫降臨は,出雲を譲ると言ったので,出雲に降りて来なければならないから,当然,高千穂峰も出雲にあると考えなければならない。
 「 竺紫 ( つくし ) 日向 ( ひむか ) 高千穂 ( たかちほ ) のくじふる ( たけ ) に天降りまさしめき。」と「古事記」に書かれる高千穂峰は,徳島市の西にそびえる気延山である。


【徳島市 吉野川河口 豊葦原水穂の国】