〜日本最古の歴史書・古事記には,阿波のことが書かれています。〜

第81回〜第90回
第91回
高千穂峰(気延山)その3 豊葦原水穂國

 天孫降臨の地は,大国主命の治める出雲に降りて来たのであるから,当然,高千穂峰も出雲にあると考えなければならない。
 「古事記」に書かれる出雲は,阿波の海岸部である事は,先に書いた,大国主命を祀る式内社の八桙神社(参照第67回)や大国主命の子供である事代主神や建御名方神を祀る,式内社の事代主神社(第76回),多祁御奈刀弥神社(第79回)が,阿波だけにあることからもそれを物語っている。なぜ,出雲といわれている島根に無くて阿波にあるのだろうか?
 通説では,天孫降臨の地は,宮崎県の日向といわれているが,地図を見ただけで判るように九州南部には,大河も無く豊葦原水穂国といえるような地形も無い。ただ,高千穂という地名が存在しているだけに過ぎない。
 出雲には,葦原中国や豊葦原水穂国がある。天孫降臨の地に該当する条件は,
 1,出雲であること
 2,豊葦原水穂国・葦原中国であること
 3,韓國に向っていること
 4,竺紫の日向の高千穂峰であること
 5,笠沙岬に眞来(まき)通っていること
 6,朝日が直ちに射し・夕日の照る地であること
 等の諸条件が整ったところでなければ,天孫降臨の地として該当しないのである。これらの条件を満たす,阿波の気延山周辺は,大河吉野川の河口に位置する肥よく地こそ天孫降臨した地である。


【徳島市の西にそびえる高千穂の峰(気延山)】

第92回
高千穂峰(気延山)その4 韓國に向う竺紫の日向の高千穂峰

 「 此地 ( ここ ) 韓國 ( からくに ) ( むか ) ひ, 笠沙 ( かささ ) 御前 ( みさき ) 眞來 ( まき ) ( とほ ) りて, 朝日 ( あさひ ) ( ただ ) ( ) ( くに ) 夕日 ( ゆうひ ) の日照る國なり。故, 此地 ( ここ ) ( いと ) ( ) ( ところ ) 。」と天孫降臨してきた地で,ニニギ命が国誉めをした。

※『国誉め(くにほめ)』日本では古来,国(地方)の統治者がその地を誉めるのがしきたりだった。

 「この降臨した地は,韓国に向い」と書かれているが,文脈を考えずあてると朝鮮半島の韓国となる。それでは,北九州に天孫降臨しないと考えなければならない。しかも通説にいう高千穂峰(宮崎)から笠沙の岬といわれる鹿児島県川辺郡笠沙町では,南方の台湾を向いていることになる。
 韓国とは,朝鮮半島を指す事ではなく,畿内を指して韓国と云ったことである。
 「 大倭豊秋津島 ( おほやまととよあきづしま ) ( ) みき。 ( また ) ( ) ( あまつ ) 御虚空 ( みそら ) ( とよ ) 秋津 ( あきつ ) 根別 ( ねわけ ) ( ) ふ。」と「国生み」に書かれるように,畿内は,「虚空」であり,「空き津島」である。
 高千穂峰である気延山(写真,右)の前に,笠沙岬が指差すように畿内(韓国)に向って伸びる山容を望む事ができる。


第93回
高千穂峰(気延山)その5 笠沙岬真来通る

 「 此地 ( ここ ) 韓國 ( からくに ) ( むか ) ひ, 笠沙 ( かささ ) 御前 ( みさき ) 眞來 ( まき ) ( とほ ) りて, 朝日 ( あさひ ) ( ただ ) ( ) ( くに ) 夕日 ( ゆうひ ) の日照る國なり。故, 此地 ( ここ ) ( いと ) ( ) ( ところ ) 。」と天孫降臨してきた地で,ニニギ命が国誉めをした。
 高千穂峰(気延山)から望む韓国(畿内)に向かう「 笠沙 ( かささ ) 御前 ( みさき ) 」は,どこにあたるのだろうか?「 眞來 ( まき ) ( とほ ) る」とは,どういう事だろうか?
 徳島市国府町にある気延山に登れば,一目瞭然に,それはわかる。目の前に雄大な吉野川平野(豊葦原瑞穂国)が広がり,北岸には,阿讃山脈が連なっているのである。
 その山なみ(写真)をよく見てみよう。南岸の平らな山なみは眉山とは違い,笠を並べたように,大山・大麻山・天ケ津山・袴腰山・金光山等の山なみが淡路島から畿内に向かって連なっているのである。
 「 笠沙 ( かささ ) 御前 ( みさき ) 眞來 ( まき ) ( とほ ) り」とは,「眞北」という言葉があるように,畿内に向い岬が真っ直ぐ延びているという事である。
 現在吉野川河口は,平野になっているが,当時は海が入り,大きな湾であった。眉山も海に突き出した岬だった。(第82回 御大之御前(みほのみさき)参照)
 その後,ニニギ命は, 笠沙 ( かささ ) 御前 ( みさき ) で大山津見神の娘, 木花佐久夜毘賣 ( このはなさくやびめ ) と出合うのだから,大山のある阿讃山脈の東部が 笠沙 ( かささ ) 御前 ( みさき ) にあたる。
 このように,阿波と古事記の整合性はいたる所に残っている。

第94回
高千穂峰(気延山)その6 朝・夕日の照る天孫降臨の地

 「 此地 ( ここ ) 韓國 ( からくに ) ( むか ) ひ, 笠沙 ( かささ ) 御前 ( みさき ) 眞來 ( まき ) ( とほ ) りて, 朝日 ( あさひ ) ( ただ ) ( ) ( くに ) 夕日 ( ゆうひ ) ( ) 照る ( くに ) なり。故, 此地 ( ここ ) ( いと ) ( ) ( ところ ) 。」と天孫降臨した地で,ニニギ命は国誉めをした。
 「 朝日 ( あさひ ) ( ただ ) ( ) ( くに ) 夕日 ( ゆうひ ) ( ) 照る ( くに ) 」とは,何を表しているのだろうか?
 「 朝日 ( あさひ ) ( ただ ) ( ) す」とは,朝日が直ちに射して来るという意味であるから,空が明るくなるとすぐ太陽が顔を出す,つまり海から朝日が出ることである。
 高天原で暮らしていた山の民は,空が明るくなっても,太陽はなかなか顔を出さない中で暮らしていた。その上,山間は,昼を過ぎしばらくすると,太陽は山間に入り陰始め,すぐ薄暗くなってしまう。日当たりのよい土地に降りて来た山の民は,一日が倍の時間に感じ,魅力的ないい土地に降りて来たと思ったに違いない。
 「 夕日 ( ゆうひ ) ( ) 照る ( くに ) 」とは,何を表しているのだろうか?
 阿波を貫く大河,吉野川は,一直線に西から東へと流れている。河口から見ると,まるで夕日が沈まないかのごとく谷間にいつまでも照り輝いている。
 「古事記」に書かれる天孫降臨の地に,阿波以外に諸条件が当てはまる地が何処にあるのだろうか? 豊葦原水穂国は,阿波の吉野川河口である。


【吉野川河口 合成写真】

第95回
高千穂峰(気延山)その7 天孫降臨の地に住む天津久米命

 「 竺紫 ( つくし ) 日向 ( ひむか ) 高千穂 ( たかちほ ) のくじふる ( たけ ) 天降 ( あまくだ ) りまさしめき。 ( ゆえ ) ここに 天忍日 ( あめのおしひの ) 命, 天津久米 ( あまつくめの ) 命の二人,天の 石靫 ( いはゆぎ ) ( ) ( ) ひ, 頭椎 ( くぶつち ) 大刀 ( たち ) ( ) ( ) き, ( てん ) 波士弓 ( はじゆみ ) ( ) ( ) ( てん ) 真鹿児 ( まかこ ) 矢を 手挾 ( たばさ ) み, ( ) ( さき ) に立ちて仕へ奉りき。」と「古事記」に書かれています。
 ニニギ命が天孫降臨する際に, 天忍日 ( あめのおしひの ) 命, 天津久米 ( あまつくめの ) 命の二人が先頭に立ち高天原から出雲に天下ってきたのです。天孫降臨の地,豊葦原水穂国は,これまでに何度も書いて来たように吉野川河口にある気延山周辺です。
 徳島県名西郡石井町の故久米勝夫氏は,全国の久米姓の分布調査をされました。その結果,久米姓の多い所は下記の通りです。

 1,愛知県(765戸)
 2,徳島県(540戸)
 3,大阪府(480戸)
 4,東京都(456戸)

 四国(986戸)  東海(1146戸)
 九州(617戸)  関東(1209戸)
 中国(134戸)  北陸(21戸)
 近畿(903戸)  信越(37戸)

【昭和55年度 全国電話帳より故久米勝夫氏調査】


 徳島県内の久米姓の分布は,徳島市に208戸(国府37戸),石井町に189戸です。これまで書いて来たように,気延山周辺には久米姓の42%が集中して住んでいますから,気延山は正に天孫降臨してきた高千穂峰です。
 九州の宮崎県は,49戸。鹿児島県は46戸。大分県10戸。熊本県41戸です。
 神武東遷の際に大久米命が,神武天皇を護衛して畿内に向かったのです。

第96回
下照比売(シタテルヒメ)

 「古事記」によれば,「葦原中国平定のために高天原から遣わされた 天若日子 ( あめのわかひこ ) は,大国主神の娘 下照比売 ( したてるひめ ) と結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき,下照比売の泣く声が高天原まで届き,その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神は葦原中国に降りて天若日子の喪屋を建て ( かりもがり ) を行った。そこに 阿遲志貴高日子根神 ( あぢすきたかひこねのかみ ) が訪れた。」と書かれている。
 葦原中国平定に降りて来たのは出雲であるから,出雲には大国主神がいて,娘の下照比売がいる。この下照比売を祭る式内社が,阿南市にある古烏神社(写真)である。「阿南市史」に,「『阿波志』には,「建比売神社祭下照姫下荒井ニ在俗小烏明神ト号ス,(略)」とあって,当社を古烏神社と比定する」と書かれている。
 下照比売が阿南市宝田町下荒井に祭られ,約3km西の長生町に父の大国主神が八桙神社に祭られ,まさに阿南市は,出雲の本拠地に該当する。
 あまり書く必要は無いことであるが,島根県には,これらの神々が祭られていた形跡は,古くから無いにも関わらず,「古事記」に書かれる出雲は島根県であるかの如く語られている。
  阿遲志貴高日子根神 ( あぢすきたかひこねのかみ ) は「今, 迦毛大御神 ( かものおほみかみ ) と謂ふぞ」と「古事記」に書かれている。辰砂採掘遺跡のある阿南市加茂町が気にかかる所である。


【式内社 建比売神社 古烏神社 阿南市宝田町】

第97回
阿遲鋤高日子根神 (アジスキタカヒコネノカミ)

 「 大國主神 ( おおくにぬしのかみ ) 胸形 ( むなかた ) 奥津宮 ( おきつみや ) ( ) ( かみ ) 多紀理毘賣命 ( たきりびめのみこと ) ( めと ) して ( ) める子は, 阿遲鋤高日子根神 ( あじすきたかひこねのかみ ) ( つぎ ) ( いも ) 高比賣命 ( たかひめのみこと ) ( また ) ( ) 下光比賣命 ( したてるひめのみこと ) 。この 阿遲鋤高日子根 ( あじすきたかひこね ) は,今, 迦毛大御神 ( かものおほみかみ ) ( ) ふぞ。」と,「古事記」に書かれている。
 大国主神の子供は,事代主命(えびす),建御名方神の他に, 阿遲鋤高日子根神 ( あじすきたかひこねのかみ ) ,妹の下照比売がいる。「 阿遲鋤高日子根神 ( あじすきたかひこねのかみ ) は, 迦毛大御神 ( かものおほみかみ ) というぞ」と書かれ,徳島県阿南市に加茂町があるが, 阿遲鋤高日子根神 ( あじすきたかひこねのかみ ) は加茂町に祀られていない。徳島県内では,阿南市津乃峰町長浜の 塩竃 ( しおがま ) 神社だけに祀られている。この塩竃神社は,元亀・天正年間(1570〜1592年)に,創建された神社という。
 高天原から葦原中国へ遣わした 天菩比神 ( あめのほひのかみ ) が3年経っても戻らないので,次に天若日子が遣わされた。天若日子は大国主の娘下照比売と結婚し,8年たっても高天原に戻らなかった。その上,高天原から遣わされた雉の 鳴女 ( なきめ ) を,高天原から与えられた弓矢で射抜いてしまった。矢は,高天原に届いたが,再び帰ってきた矢にあたり天若日子は死んでしまった。
 天若日子の死を嘆く下照比売の泣き声が天まで届くと,天若日子の父の 天津國玉神 ( あまつくにたまのかみ ) が降りてきて,葬儀のため喪屋を建て ( かりもがり ) をした。下照比売の兄の 阿遲志貴高日子根神 ( あぢしきたかひこねのかみ ) も弔いに訪れたが,天若日子とよく似ていたため,天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると 阿遲志貴高日子根神 ( あぢしきたかひこねのかみ ) は,「 ( けが ) らわしい死人と見間違えるな」と怒り,剣を抜いて喪屋を切り倒し,蹴り飛ばした。
 この「蹴り飛ばす」 ( かりもがり ) の「七日ガリヤ」の風習が,阿波の山間部に残っている事は,「神山町史」や「池田町史」に記録されている。これらの事は「古事記」の記述に一致していて,興味深い。


【塩竈神社 阿南市津乃峰町長浜】

第98回
天菩比神(アメノホヒノカミ)

 天孫降臨は,天津神が高天原から出雲に降る物語で,徳島県の山間部(高天原),木屋平や神山町から吉野川や那賀川流域の平野部(いずも)に降りてくる話であることを書いてきた。
 最初【図1】,高天原から出雲に天照大御神の第二子である 天菩比神 ( あめのほひのかみ ) が遣わされた。しかし三年経っても帰って来なかったので,二度目【図2】 天若日子 ( あめのわかひこ ) を遣わした。これも 大國主神 ( おほくにぬしのかみ ) の娘, 下照比賣 ( したてるひめ ) と結婚して8年経っても戻らない。
 三度目に 建御雷神 ( たけみかづちのかみ ) 天鳥船神 ( あめのとりふねのかみ ) が降りて来て,天津神が出雲を治める準備が整い,天照大御神の孫, 邇邇藝命 ( ににぎのみこと ) が,豊葦原水穂国にある高千穂峰に降臨してきた。
  天菩比神 ( あめのほひのかみ ) が祀られている神社は,徳島県小松島市中郷町豊の本4の豊国神社に合祀されている式内社の御縣神社である。
 これまで,天孫降臨に関係する事項を書き連ねて来たが,阿波には,島根県(出雲)や宮崎県以上に,天孫降臨を説明する項目がそろい過ぎるというほど残っている。にもかかわらず,みんなが言わないからという理由だけで,多くの人は語ろうとしない。しかし,多くが言うよりも,事実が真実を語っている。


                         【写真 御縣神社】

第99回
建御雷神と事代主神

 「 高御産巣日神 ( たかみむすひのかみ ) 天照大御神 ( あまてらすおおみかみ ) が,「葦原中国(出雲)は,我子の治める国。」と国譲りを迫り,三度目の折衝に 建御雷神 ( たけみかづちのかみ ) (別名 建布都神 ( たけふつのかみ ) )が高天原から降りてきて,出雲を治める大国主神に迫るが,「息子の 事代主神 ( ことしろぬしのかみ ) に聞いてくれ」と答える。すると事代主神は,すぐ国譲りを承諾して,船を踏み締めて傾けさせて,天の逆手を打って, 青柴垣 ( あをふしかき ) に打ち成して, ( かく ) りき。」と「古事記」に書かれている。
 この隠れた所が,徳島県阿波市市場町付近と考える。市場町伊月字宮の本には,式内社の事代主神社がある。一方,徳島県阿波市土成町郡字建布都には,式内社の建布都神社がある。延喜式神名帳に記録される阿波郡の式内社は,この2社のみである。
 奈良市の近鉄駅近くに 大神神社 ( おおみわじんじゃ ) (三輪神社)の摂社:率川阿波神社がある。この神社は,奈良で一番古い事代主神(阿波のえびすさん)を祀る神社であり,立札には,「七七一年に阿波国から勧請」と書かれている。
 社伝「大神神社史」に,「事代主神が阿波にいます時には,布都主神共々まつられていたが,奈良に春日大社が創建され,布都主神はそこに歓請される事になった。その折り,えびすさんも一緒に鳴門の海を渡り,この地まで同行してこられたが,布都主神が春日におさまり,事代主神は,率川阿波神社に祀られた」と記録されている。事代主神は,県南から県北,さらに奈良(大和)に移って行った事がわかる。


【徳島県阿波市市場町伊月字宮の本 式内社 事代主神社】


【徳島県阿波市土成町郡字建布都569 式内社 建布都神社】

第100回
竺紫の日向の禊ぎ(1) 奥津甲斐辨羅神

 「 竺紫 ( つくし ) 日向 ( ひむか ) ( たちばな ) 小門 ( をど ) 阿波岐原 ( あはきはら ) に到りまして, ( みそ ) ( はら ) ひたまひき。 ( かれ ) ,投げ ( ) つる 御杖 ( みつえ ) に成れる神の名は, 衝立船戸 ( つきたつふなとの ) 神。次に投げ棄つる 御帯 ( みおび ) に成れる神の名は, 道之長乳歯 ( みちのながちはの ) 神。……」と「古事記」に書かれている。イザナギの大神が,阿南市の橘湾に面した見能林で禊ぎ祓いする時に,身に着けていた杖から 衝立船戸 ( つきたつふなとの ) 神。帯から 道之長乳歯 ( みちのながちはの ) 神。 ( ふくろ ) から 時量師 ( ときはかしの ) 神。 ( けし ) から 和豆良比能宇斯能 ( わづらひのうしの ) 神。 ( はかま ) から 道俣 ( ちまたの ) 神。 ( かがふり ) から 飽咋之宇斯能 ( あきぐひのうしの ) 神。左の手につけた飾りから 奥疎 ( おきざかるの ) 神・ 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさびこの ) 神・ 奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべらの ) 神。右の手につけた飾りから 邊疎 ( へざかるの ) 神・ 邊津那藝佐毘古 ( へつなぎさびこの ) 神・ 邊津甲斐辨羅 ( へつかひべらの ) 神の 十二神 ( とをまりふたはしら ) ( ) れた神と書かれているのである。
 阿南市の沖に伊島が浮かんでいる。この伊島から太平洋を見渡す石島随一の絶景が,カベヘラという場所である。
 この「カベヘラ」に着目したのが,阿南古事記研究会会長立石量彦氏で,「カベヘラは, 奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべらの ) 神ではないか?」と調査を進めると,なんと伊島の當所神社に 奥疎 ( おきざかるの ) 神・ 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさびこの ) 神・ 奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべらの ) 神の三柱の神が,御祭神としてお祀りされていたことがわかった。さらに日本全国約8万社の神社を包括する神社本庁の記録から調べを進めてみると, 奥疎 ( おきざかるの ) 神・ 奥津那藝佐毘古 ( おきつなぎさびこの ) 神・ 奥津甲斐辨羅 ( おきつかひべらの ) 神を祀る神社は,伊島の當所神社しかお祀りされていない事がわかった。
 イザナギの大神が,阿南市の見能林で禊ぎをしたと話していたら,禊ぎ祓いをする時に沖に投げた手飾りから現れた神様が,伊島に祀られていた。偶然にしては,不思議な事だが,これに触発された阿南古事記研究会の会員,請田和彦氏が,さらに研究を進めると ( ころも ) から現れた 和豆良比能宇斯能 ( わづらひのうしの ) 神や ( かがふり ) から現れた 飽咋之宇斯能 ( あきぐひのうしの ) 神も阿南市に関連があるようだという事がわかってきた。


【伊島 當所神社】