階下からの物音で、俺は目を覚ました。
どうやら昨夜遅くから降り続いていた雨は止んだらしい。カーテン越しに窓から小鳥たちが戯れる声が聞こえてくる。
頭上の携帯電話で時間を確認すると午前8時過ぎ。
(約5時間か・・・)
俺にしては上出来の睡眠時間だな。
音源はおそらくキッチン。
そして、キッチンに居るのは間違いなく蘭で……
まどろみの中で俺は、ささやかな幸せに浸っていた。
間もなくして漂ってきたのは、いつものようにコーヒーの香り、のはずが、
「あれ?・・・紅茶?・・・何で?」
未だはっきりしない意識の中、リビングに向かうとそこには、
「あら、おはよう、新ちゃん♥」
大きなスーツケースと共に、いるはずの無い母さんの姿。
手放しそうになる意識をどうにか保ちつつ、思ったことをそのまま口にしてみる。
「何でこんな時間にいるんだよ?」
「あら、自分の家にいつ帰ってきたって構わないでしょ?」
「それはそうだが……」
(いつから早朝の成田に着く便が出来たのかって聞いてるんだけどな……)
何だかもう、それ以上追求するのは面倒くさくなっていた。
「あ、新一、おはよう。もしかして、私、睡眠の邪魔しちゃった? 昨日も遅かったんだよね?」
蘭の笑顔に、ようやく意識が戻ったような気がした。
「いや、昨日はそうでもなかったから」
「それなら、いいんだけど……。そうそう、おばさまがね、イギリスから本場の美味しい紅茶を持ってきて下さったの。新一も飲むでしょ?」
「いや、紅茶って気分じゃないな。いつものコーヒーにしてく」
『まあ、新ちゃんもなの!!』
俺の言葉が終わらないうちに、なぜだか興奮し始めたのは母さんで、
「はい?」「え?」
俺も蘭も母さんの急変に、完全に呆気に取られていた。
「どうして、男って奴はこうなの! 少しは人に合わせるって気は無いの!」
なおも母さんの独り言は続く。
(さては――)
「なあ、母さん。父さんは?」
「どうせまだ、オックスフォードでしょ? 今日は特別講義をするとかって言ってたし」
「で、今度の喧嘩の理由は?」
「せっかく、紅茶の本場にいるっていうのに、優作ったらコーヒーって言うのよ。コーヒーより紅茶の方だ断然美味しいのに! その前だって……。たまには、情緒とか味わおうって気にならないのかしらね、あの人!」
「って、まさか、それだけのことで?」
「悪い? 第一、優作も新ちゃんもホームズが好きなんだから、英国式に従うべきなのよ!」
「あ、あのさ、言ってることが滅茶苦茶なんだけど?」
「いいのよ、そんなこと! それより、蘭ちゃん、悪いけど車の鍵を持ってきてくれる?」
「あ、はい」
相変わらず呆気に取られたままの蘭は、母さんの言うがままで。
「蘭ちゃん、今すぐ、出かけるから準備して」
「はあ?」「え?」
気が付けば、母さんの目には殺気の様なものが漂っていた。
一応、目的地を聞いてみると
「軽井沢よ。あそこには、紅茶に合うジャムがいろいろとあるでしょう?」
ここまで言われてしまうと、俺にも阻止することは出来ない。
当然、蘭には断る術などなく、
「ごめんね、新一」
と、小さく呟くのがやっとだった。
「悪いのは俺の方、っていうか、父さんだから……」
母さんの暴走は、残念ながら、誰にも止めることはできないのである。そう、当然、父さんにも。
数分の後、バタン!と玄関が閉まる大きな音がしたのを最後に、その場に静寂が訪れた。
念のため、自分の頬を抓ってみると痛みが走る。
夢かも?という一縷の望みは絶たれたのである。
「やっとの休日だって言うのに、何で俺たちが母さんたちの夫婦喧嘩に巻き込まれなきゃならないんだよ! 今日こそ蘭と二人で出掛けようと思ってたのに!」
時間の経過と共に怒りは増す一方。当然、怒りの矛先は父さんなのだが。
無駄だとわかってはいても、一応、父さんの携帯に電話してみるが、案の定、繋がらない。
「ったく、迎えに来るなら、もっと早く来いよな!!」
外は恨めしいほどの青空だった。
どうやら留意は、有希子さんを登場させる時は、少しでも長く書きたいらしい(笑)。
ちなみに、有希子さんが怒っている理由は紅茶だけではないはずです。おそらく、ウエストエンドで優作さんとミュージカルを一緒に見るつもりだったのにドタキャンされたとか、有希子さんが知らないうちに、優作さんがパリに向かっていたとか、何かがあったはず。
一応、補足しておきますが、最後、優作さんの携帯が繋がらなかったのは、日本に向かう飛行機に搭乗中だったからです。有希子さんの方は……、どこかで寄り道をしてたってことで(苦笑)。