『工藤新一だな? お前の女房の蘭と息子のコナンはこの俺が預かった。この携帯からの着信が証拠だ。二人を無事に帰して欲しければ、身代金を用意しておけ! 金額等は追って連絡する。じゃあ……』

* * *

「本当なのかね? 工藤君!」

警視庁内の普段は捜査会議用の長机が整然と並ぶ一室の後方片隅に、新一と高木、そして、目暮の姿があった。
目暮と高木とは新一が高校1年生の春、探偵として初めて事件に関わった時からの長い付き合いで、警視庁内でも特に信頼の置ける人間でもあった。

「はい、8割以上の確率で間違いないかと……」

冷静を装ってはいるが、新一はかつて経験したこともないほどに動揺していた。
怒り、焦り、戸惑い、憎しみ、後悔・・・
ありとあらゆる負の感情が次々と襲っていた。

「自宅や実家に電話してみましたが、どちらも応答はなし。鈴木園子や阿笠博士にも電話してさりげなく探ってみましたが、蘭たちの動向は知らないと言う。他にも何箇所か、可能性がありそうな場所に確認してみたのですが……。いつもは外出時にコナンにGPSを持たせるのですが、今日に限っては病院に行く予定があったからか、自宅に置いたままのようでして……」
「病院って、コナン君、何か病気なのかね?」
「いえ。今日は午前中に予防接種の予約を入れてあると、昨夜、蘭から聞いていましたので。今から二人が何時ごろ病院を出たかを電話で確認するつもりです」

意識しないとすぐに誰に対するものかもわからない怒りでその身を震わせそうで、新一は目を閉じ、大きく一つ息を吐き出した。

「蘭はよっぽどのことが無い限り、僕の携帯に電話してきません」
「そういえば、蘭さんから電話が掛かってきたところは、僕もあまり見た記憶はないかも?」
新一の前の席で後方に振り返りながらメモを取っていた手を止め、高木は軽く天井に視線を彷徨わせながら小さく頷いた。

「その蘭の携帯から声色を変えた男の声で電話があり、しかも、その男は蘭とコナン、そして、僕の名前を言った。蘭の携帯には僕の名前を残さないようにしてあるというのにも関わらず」
「それはどういうことだね? 工藤君」
新一の隣に座る目暮が、新一の顔を覗き込むように尋ねた。

「万が一のことを考え、メモリには僕のことを『パパ』と登録させていますし、メールについても必要なものにはロックを、そうでないものはすぐに削除させてます。写真等も残させていません。もちろん、警視庁などの名称もそのままでは登録させていないんです。何らかの形で蘭の携帯を手にした誰かに、持ち主が探偵工藤新一の関係者であると気付かれないために……」

探偵などという職業柄、人から恨みを買いやすいことを、新一は誰よりも承知していた。場合によっては、自分だけではなく蘭やコナンの身にも危険が及ぶことも想定の範囲内で、ゆえに日頃から注意を怠ることはなかった。ただし、現状を見る限りでは、そのつもりだったとしか言えないのかもしれない。

「だとすると、誰かが蘭君の携帯を手に入れて、いたずらしている可能性は低いと判断しても良いのかね?」
「はい。もちろん、バッグごと盗まれたのなら、母子手帳等を見て僕に連絡してくる可能性もありますが、その場合は蘭から直ぐに何らかの形で連絡があるはずです。もちろん、まだそのことに気付いていないとも考えられなくはないのですが……」
今の3人には無駄に広い空間でしかないその部屋に、重苦しい空気が広がる。

「ところで、工藤君、毛利君たちにも連絡は?」
「あ、はい、先ほ。妃弁護士と共に、今、こちらに向かっているはずです……」

新一は先ほどの小五郎とのやりとりを思い出す。
電話口に小五郎の声はいつになく落ち着いたものだった。

「お前から俺に電話があるということは、蘭たちに何かあったんだな?」
「はい、申し訳ありません。蘭とコナンが誘拐されたようです……」
「そうか……。今お前がすべきことはわかっているな?」
「はい」
「俺たちも今からそちらに向かう。いいか、余計なことは考えるな!」
「はい」

小五郎の性格を考えると、開口一番にどやされるに違いないと新一は思っていた。それだけに、小五郎のどこか冷ややかな声は、より事の重大さを認識させられ、自身の責任を痛感せずにはいられなかった。

新一は椅子から立ち上がり、目暮らに向かって深々と頭を下げた。
「お忙しいところを申し訳ありません。誘拐事件として捜査協力をお願い致します!」
「日頃世話になっているのは私たちのほうだ。もちろん協力は厭わないよ、工藤君」
「ありがとうございます!」
更に深く新一は頭を下げた。

* * *

黒のRV車は杯戸町を北へ向かって住宅街から幹線道路に抜け、次第にスピードを上げていった。
だが、間もなく杯戸町から出ようという時、突然減速をし、間もなくして車は停まった。

「おい、どうした? アヤ!」

「だって、あれ……」
と、女は前方を真っ直ぐ指差す。

「あれって、やっぱり……」
「クソッ! もう検問かよ!!」
男は舌打ちして、予想外の展開にイラつくのであろう、貧乏ゆすりを始めた。

「ねえ、どうしよう、ユウ君?」
運転席のアヤは、その顔色を失っていた。

男が細かい足の動きと、ハザードランプのカチカチという乾いた音だけが響く車内で、落ち着きを取り戻した蘭は、努めて冷静に状況を分析していた。 コナンは相変わらず蘭の手をしっかりと握り、その緊張の糸を解いていなかった。

(あの検問で私たちが助かる可能性はどれくらいあるのだろう?)

アヤという女の方は武器らしい武器も持っていないようだし、気もさほど強そうではないので、恐れる必要もそう無いだろう。問題なのはユウと呼ばれる男の方だ。蘭とコナンを拉致した状況を考えれば、短絡的な性格のようにも思えるが、その後のやりとりからは機転の良さが伺える。そして何よりも、ユウのアヤに対する執念にも似た強い思いを蘭は感じていた。

(この人は彼女を守るためなら、私たちはおろか、自分自身もその身を捨てかねない……)

やがて、男の貧乏ゆすりが止まった。
「アヤ、すぐ先の小道に入って車を停めろ。運転を変わる」

女は言われるままに車を脇道に停車し、怯えた様子で運転席から降り、後部座席のドアを開けた。

「俺の変わりに見張りを頼むな」
男は蘭とコナンから視線を逸らすことなく、自分が手にしていたものとは別のナイフをレザージャケットから取り出し、女に手渡した。
「お前は何も言わなくていい。窓から覗き込まれてもナイフを気付かれないように、それだけを注意しろ」
「う、うん……」
ナイフを持つ女の手は細かく震えていた。

女と見張り役を交代して車を降りると、男はその足で車の背後に回りこみ、バックドアを開けた。近くに人気が無いことを確認し、素早くレザースーツと汗まみれのタンクトップを脱ぎ、後部座席裏に置いてあったスポーツバックに押し込むと、代わりに取り出したカーキ色のカーゴパンツとTシャツに着替え、ショルダーバックを手にした。その中にナイフや拳銃らしきもの、そして、手錠など事前に用意した武器や道具を放り込むと、足早に運転席に乗り込んだ。

「いいか、筋書きはこうだ。俺とアヤは恋人同士で、蘭さんって言ったな、あんたはアヤの姉ちゃんで、遊びに来た姉親子を俺たちが家まで送り届ける途中ってわけだ」
「そっか。うん、わかった」
「あんたもいいな? 検問だからといって下手な真似はするなよ? 俺たちは言わば、あんたたち親子と心中する覚悟なんだ!」
凄む男の声に、蘭は小さく頷いた。

車は再び幹線道路の流れに戻る。女の手は相変わらず震えていた。

―――― 使い慣れていない武器を持つ人間は、使い慣れた人間より性質が悪い。
かつて、新一が言っていた言葉が蘭の脳裏を横切る。

(検問でチャンスがあるとしたら、顔見知りの警官に当たるかどうか……)
蘭は祈るような思いで、左手の中にあるコナンの手を右手でそっと包み込んだ。

間もなくして、一際大きい黒のRV車は他の車に倣い検問所で停車した。一瞬にして、車内は緊張感に包まれる。女は「ゴメンね」と小さく零すと、コナンの体をナイフを持つ手で引き寄せ、自身の体に密着させた。

蘭は努めて冷静に、薄いグレーのスモークガラス越しの警官たちを注視する。制服を着た男が3人――――
その中に見知った顔は無かった。蘭は小さく、されど、ゆっくり時間を掛けて、諦めの中、息を吐き出した。

「何かあったんですか?」
窓を開けて男は、さも興味津々といった様子で若い警官に声と掛けた。

「ああ。杯戸駅近くで強盗事件が起きて、その犯人が未だ逃亡中なんだけど……。さすがに、小さな子供連れの強盗犯はないかな」
若い警官は苦笑してコナンを見つめる。コナンは無表情なまま視線を返した。

「君たち、家族って感じじゃないけど……」
「えーっと、助手席側に座っているのが僕の彼女。右側がその子のお母さんで、彼女の姉なんです。今、家まで送り届けるところでして……」
「ああ、なるほど。でも、あまり似てない姉妹だね」
「ええ、まあ……」

疑う様子があまり無い警官にホッとしたのか、女の顔色に赤みが戻り、警官に微笑を返す。だが、次に発せられた警官の一言で、一気に元の色の無い表情に引き戻された。

「パトカーの中で君に事情を聞きたいところなんだけどなぁ……」
この言葉に男の顔が一瞬にして強張るのを、蘭はルームミラー越しに目にする。ごく僅かな期待が蘭の中に生まれるが、それはすぐに打ち消されることになった。

「その子、さすがにまだ6歳じゃないよね? 本来なら、チャイルドシード装着義務違反で、君に違反点数1点を付けなくてはならないんだけど、今はそれどころじゃないから……。たまたまのことのようだし、今日のところは見逃しておくから、今後は十分に気をつけるように!」
「あ、はい、すみません」

殊勝な風を装ってはいるが、男の声は余裕の表れか、不気味なまでに低く落ち着いている。その表情は勝ち誇ったかのような微笑に変わっていた。僅かな希望を絶たれ、蘭は堪らず視線を落とし、震える唇を噛み締めた。

* * *

警視庁内、捜査一課のあるフロアはこの日、いつにも増して閑散としていた。
2件の強盗事件と新一たちが逮捕した連続爆弾犯、その他にも事件が数件あり、数多くの刑事たちが現場へと狩り出されていたためだ。

そのフロアの一室で、新一の声が響いた。

「それは本当ですか?」
「ええ。確かにコナン君の予防接種の予約は午前中にということだったんですが、先生の方にどうしても外せない急用が出来まして、お母さんに連絡して、午後一番に来てもらうことにしたんです」
「では、二人が病院を出たのは?」
「えーと、午後の診療が2時からですから、2時15分とか20分くらいだったと思いますよ」
「そうでしたか。それじゃあ、行き違いになってしまったようですね。改めて連絡を取ってみます。お忙しいところをありがとうございました」

「工藤君、どうかしたのかね?」
「いえ、ちょっと聞いていた予定とは違ったもので……」

部屋には新一と目暮の二人のみだった。二人はかつて新一が関わった事件の中に、今回の誘拐事件を引き起こしそうな人間はいないかと、膨大なデータと格闘していた。高木は蘭の携帯の発信位置と微弱電波の動向を確認するために、今しがた部屋を後にしていた。

新一の脳裏に一つの可能性が浮かびつつあった――――

* * *

検問を抜けてから間もなくして、女はコナンを自分の膝の上に座らせ、蘭はその隣で体をくの字にして横たわらせるよう男に命じられた。外の景色を見づらくし、車がどこをどう走っているかわからなくさせるためだった。

しばらくその状態が続き、やがて、乱暴に左折した車がゆっくりと止まった。蘭はさりげなく腕時計で時間を確認する。シフォンケーキ店の中で目にした時間からは1時間近く経過していた。検問等もあったので、実質の車の移動時間は30分強ほどだろうか。

エンジン音が止んだ。運転席から降りると男はすぐさま後部座席のドアを開けた。
促されて女はコナンを男の手に委ね、車から降りると軽く背伸びをした。

「窮屈な思いをさせて悪かったな」
男は決まりが悪そうに小さく頭を下げると、コナンを抱えていない方の手を蘭に差し出した。

「いえ、大丈夫ですから」
男の手は取らず、蘭は自分で起き上がった。男の腕の中で冷静さを保つコナンの姿に、身を切られるような思いがした。
手早く自分のバッグを手にし車から降りる。冷え冷えとしたコンクリート作りの駐車場は、ビルの1階部分であろうか? 建物の半分ほどがピロティで、5台分の駐車スペースとなっていた。蘭たちが乗せられた車はその一番奥、建物側に停められていた。

女が先頭に立ち、蘭、コナンを抱えた男という順に建物へと進み、そのまま地下室に入った。

広さは20畳ほどはあろうか? オーディオルームなのか防音処理がされているらしく、窓は一つも無かった。部屋の入り口の直ぐ隣にはウィークリーマンション並のキッチンが備え付けられ、その奥にはトイレとシャワールームまであるようだった。

冷蔵庫などの必要最低限な家電以外には、部屋の中で目立つものはそう多くなかった。奥の壁に液晶プロジェクター、映像が見やすい位置にソファーとガラステーブル、ソファーと向かい合った壁側にパイプベッドがあるだけで、それ以外で目立つのは、部屋中至る所に散らばったゴミくらいだった。

蘭とコナンは女と共にベッドに座らされた。女の手にはナイフが握られたままだった。男が蘭の手を取り、その両方に手錠を嵌める。手錠には3メートルほどのロープが結ばれていて、その先は男の手に委ねられていた。

一呼吸を置いて、男と女は今後の作戦を練り始めた。全くの予想外の展開だったのだろう。二人は未だ動揺を隠せない様子で、次第に言い争い状態となっていった。

二人が興奮している隙をみて、蘭はコナンの耳元に何やら囁く。コナンは小さく頷いた。

* * *

「工藤君!」
高木が慌ただしく部屋に戻ってきた。

「蘭さんの携帯電話の最後の通話地点がわかったよ。杯戸駅の北側、半径約1キロメートルの範囲で、通話の時間も工藤君の携帯に掛かってきた時間とほぼ同じ。ただ、その後はどうやら電源を切ってしまったようで、微弱電波も確認できないとの報告なんだけど……」
「杯戸駅の北側、ですか……」
それだけ答えると、新一は顎に手をあてたまま黙り込んでしまった。

どれくらい、重苦しい時間が続いたのだろうか? その沈黙が突如、破られた。小五郎と英理が到着したのだ。小五郎は新一の前まで進むと、いきなり、その右拳を振り上げる。直後、鈍い音が鳴り響いた。

「おい、毛利君!」

やや沈黙があって、目暮が慌ててその場を立ち上がった。高木はどうして良いものかわからず、ただその場に立ち尽くしている。英理は一人、目を伏せていた。 そして、パイプ椅子から転げ落ちた新一は、殴られた左頬に触れることなく小五郎を見上げた――――

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