「おい、毛利君!」

目暮の叫び声が緊迫の間を打ち破った。
小五郎は目暮らには目もくれず、深呼吸の後、声を押し殺して言い放った。

「殴ってくれ!って顔をしていたからな」

苦々しく微笑う小五郎の瞳に怒りの色は無い。
新一は何も言わず、ただその場で深く頭を下げた。

「さあ、これで口元を拭いて、新一君。後で蘭たちがその姿を見て、余計な心配をかけたくはないでしょう?」
英理から差し出されたハンカチを新一は手にし、躊躇いがちに口元に当てる。自分では自覚が無かったのだが、ハンカチは鮮血に滲んでいた。
「申し訳ありません……」

* * *

地下の一室での若い男と女の言い争いは、次第にそのトーンを落としていった。どうやら、女の方が腹を括ったらしく、話し合いの内容は身代金の額や受け渡し方法などに移っていた。

彼らの視線が自分たちに向いていないことを確認し、蘭はコナンの顔を覗き込む。コナンは小さく頷いた。

「あの、すみません……」
蘭が弱々しく声を上げる。
「なんだ?」
返事をしたのは男の方だった。

「あの、この子をトイレに連れて行きたいんですが……」
蘭の隣でコナンはもぞもぞとし始める。
「ボウズ、我慢できないのか?」
コナンはコクリと頷く。
「我慢させるわけにもいかないからなぁ……」
と、男がコナンの手を取ろうとするのを、蘭が慌てて制した。

「あの、すみません。見ての通り、この子の服、自分で脱ぎ着するのはちょっと大変なので、私が手伝いたいんですが……」
偶然にもコナンはこの日、サロペットジーンズ姿だった。

「手錠をしたままでも大丈夫なのか?」
「はい、それくらいなら」
「まあ、あのトイレじゃ、何かをどうこうってできないだろうし、いいか! アヤ、念のため、ドアの前に立っててくれ」
「あ、うん……」

トイレに入るなり、蘭は迷うことなくコナンのジーンズを脱がし始めた。
「え? おか……」
コナンの言葉を制し、蘭はコナンの耳元で囁いた。

「ドアの向こうに聞こえているかもしれないから、一応、マネだけはしてね、コナン? それと、もしお父さんと電話か何かで話しができることがあったら、こう言って欲しいの。『…………』って」
最後の言葉は水の音に完全に紛れる中、コナンに伝えられた――――

* * *

長机をコの字に並べ替え、ホワイトボードも用意され、5人での臨時の捜査会議が始まった。高木がホワイトボードに事件のポイントを箇条書きしながら、順を追って説明がなされた。

「蘭たちの誘拐は計画的なものかしら……」
高木の説明が一通り終わると、英理が独り言のように呟いた。

「現段階では、僕は計画的か否かは五分五分だと思っています」
言って、新一はホワイトボードの前に立った。
「蘭の携帯を使って犯人が僕に電話してきたとき……」
と、新一は高木の書いたポイントの一つを指差す。
「犯人の声は意図的に変えられていたものの、咄嗟の犯行でも可能だと思われる簡単な偽装でした」
新一はおもむろに自分の携帯電話を取り出し、ボタンの一つを押した。

『工藤新一だな? お前の女房の蘭と息子のコナンはこの俺が預かった。この携帯からの着信が証拠だ。二人を無事に帰して欲しければ、身代金を用意しておけ! 金額等は追って連絡する。じゃあ……』

「これは僕が携帯電話のボイスレコーダー機能を利用して録音したものです」
新一の言葉に英理は頷いたが、すぐ隣の小五郎は顔色一つ変えず、視線を僅かに落とすだけだった。

「犯人が用意周到に今回の犯行を準備していたのだとしたら、当然、この時点で変声機か何かを使った方が安全だと考えるのが自然よね」
「その通りです。ただ、だからといって、この電話一つだけで、今回の犯行が計画的ではないと断定するには、まだ無理があると思います」
「ええ、そうね……」

「犯人からの接触はさっきの電話だけなんだな?」
僅かの沈黙の後、小五郎が静かに口を開いた。
「はい、そうです」
新一は真っ直ぐ小五郎のほうに向き直った。

「だとしたら、さすがにお前でも、犯人に辿り着くのは無理ってもんか……」
小五郎は独りごちるように呟く。

「ところで新一。もし今回の誘拐が計画的なものだとしたら、過去にお前が関わった事件の関係者と考えるのが普通だよな?」
「ええ」
「当然、資料の洗い出しはしているよな?」
「はい、お二人が到着されるまでの間も、ずっと確認していたんですが……」
「その資料の中に、俺が関わったものは含まれているのか?」
「え?」

「ったく……」
小五郎の表情が心底呆れたようなものに変わる。
「お前は蘭とコナンは自分のものだって意識が強過ぎなんだよ」
小五郎の意図が掴めず、新一は二の句が継げなかった。

呆れたままの小五郎の代わりに、英理が言葉を続けた。
「ねえ、新一君。今回の事件の責任はあなた一人が負うべきものではないはず。蘭は新一君、あなたの妻であるのと同時に、私たちの娘でもあるのよ。もしかしたら、私たちの側に犯人がいるのかもしれない。可能性は低いでしょうけど、あなたの両親の関係者という可能性も完全には否定できないんじゃなくて?」
「え、ええ……」

「まあ、お前の性格を考えれば、この状況では難しいことかもしれねーが、もっと冷静になれ、新一! 少なくとも、犯人からの次の連絡がくるまでは、責任の所在なんて考えるな! それとも何か? もう一発、殴られたいのか?」
「あ、いえ。……大丈夫です」

新一は大きく息を吐き出すと、高木が書いたホワイトボードを見上げ、そのままじっと考え込む。他の4人も新一に倣うかのように、各々で事件に思考を巡らせた。

しばしの沈黙の後、新一が椅子から立ち上がった。
「高木刑事。蘭から僕への最後の電話の発信場所は、杯戸駅の北側って報告でしたよね?」
「あ、うん、そうだけど」
「ちょっと確認したいことがあるので……」
新一はそれだけを言い残し、部屋を後にした。新一が部屋に戻ってきたのは、それから5分程経過してからのことだった。

「すみません。ついでに顔を洗って頭も冷やしてきました」
部屋に戻りなり、新一はそう言い訳をすると、再びホワイトボードに前に立った。

「蘭とコナンの誘拐地点ですが、杯戸駅の北1キロほどのところにある、みどり公園付近で間違いないと思います」
「どういうことだね、工藤君?」
「はい」
新一は誘拐地点と時間を書き入れてから自分の席に戻り、4人に説明を始めた。

「この公園のすぐ側に、『シフォンルーム』というシフォンケーキの専門店があるんですが、この半年ばかり、月に1〜2度、蘭は利用しているんです」
「ええ、確かにそこのケーキなら、蘭から事務所に何度か差し入れをしてもらったことがあるわ」
「蘭たちが杯戸駅ビル内の病院を出たのが午後2時20分頃、二人がケーキ店を出たのが午後3時少し前、犯人からの電話がその直後でした。ケーキ店には先ほど僕が電話で二人の来店時間を確認しましたので」
「なるほど! それで君はさっき……」
「ええ。顔を洗いたかったというのもありましたが……」
言って、新一はその場で姿勢を正す。

「犯人に計画性があったのかどうかはわかりませんが、あの公園なら人目につくことなく母と子を車に押し込むくらいのことは出来ると思います。元々、大きな木が繁っていて見通しが悪いですし、それに、昨今の連続公園爆弾魔のこともありましたから」

「せめて、あと一日早くあの男を逮捕できていたら、こんなことにはならなかったのかも……」
無念に満ちた言葉を発したのは高木だった。

* * *

「1千万円も!?」
「二人も誘拐してるんだぞ? これくらいは要求をしなきゃ、格好がつかないだろ?」
「それはそうかもしれないけど……」
「なあアヤ、1千万もあれば借金も返せるし、お前が見たがっていたサクラダ・ファミリアのあるバルセロナにだって行けるんだ。子供の頃からずっと憧れてたんだろ?」
「う、うん……」

蘭とコナンがトイレから戻ってからは、コナンの隣に女がナイフを手にしたまま座り続けていた。ナイフはコナンの体に触れるほどの近さではなくなったが、もし蘭が妙な動きを見せようものなら、直ぐにコナンの体に刃が突きつけられることは容易に想像できた。

それまでパソコンの画面に向かっていた男が、突然、蘭の方に向き直った。
「あんたの旦那さん、弁護士だっていったな?」
「あ、はい」
「今日は休日か?」
「いえ。本来は日曜日は休日なんですけれど、今日も仕事のはずです。週末じゃないと時間が取れないというクライアントの方も多いので……」

コナンが機転を利かせた嘘に綻びが出ないよう、蘭は英理の仕事ぶりを思い出しながら、不自然にならないよう慎重に言葉を選ぶ。少しでも探偵工藤新一のイメージから離れるようにと、蘭は思案を巡らせながら答えた。

「じゃあ、今、出先ってわけか……」
「おそらく、そうだと思います……」

蘭には新一が警視庁に留まっているという確信があった。新一はこれまで帰宅前の連絡を欠かしたことはなく、蘭たちが車に押し込まれるまでに連絡が無かった以上、あの時点で新一はまだ捜査に携わっていたはずだった。

「じゃあ、連絡は携帯にか……」
男は蘭の携帯画面を見ながら、パソコンに向かい直した。

* * *

張り詰めた空気の会議室に、規則的な機械音な鳴り響く。
その場にいた誰もが緊張した面持ちで、その音の元である携帯電話に注意を向けた。

「はい、工藤です」
『息子さんに聞いたが、あんた、弁護士なんだってな?』

固唾の飲んで相手の機械的な声に集中していた4人が、困惑の表情を浮かべる。電話を受ける新一だけが、顔色一つ変えずにいた。

「ああ、そうだが」
新一は軽く怒気を含ませながら、さらりと言い抜ける。

『さぞ、儲かっているんだろうなぁ』
「そんなことより、二人は無事なんだろうな?」
『ああ。まあ、そう焦るな。俺からあんたにお願いしたいのは、今日中に1千万円を用意してくれってことだ。警察に通報したらどうなるか、わかっているよな? 金さえ手に入ったら、二人ともちゃんと無事に開放するさ』
「今日中は無理だ。銀行に交渉しようにも、今日は日曜日だから開いていない。明日の朝一番で必ず金は用意するから、どうかそれまで待って欲しい」
『あんたのいうことも一理あるな。よし、わかった。明日の朝9時までに用意しておけ。金に引渡し方法は明日また、その時間に連絡する。じゃあ……」
「ちょっと待て! せめて、二人の無事な声を聞かせてくれ!」
『それもそうだな。ほら……』

『パパ、ママが……』
「コナンか? お前も蘭も無事なんだな?」
『うん。でも早く助けに来て』

コナンが最後まで言い終わるかいないかのうちに、ガサガサという音が聞こえてくる。が、すぐにその音は消えた。

『ごめんなさい。あなたに言われてたのに反対して、イングリッシュ・ブレックファーストが切れたから、つい……』

今度は激しい音が聞こえてきた。

『お願い。信じて!』

遠くに蘭の声が聞こえて通話は切られ、ツー、ツーという無機質な音だけが鳴り響いた。

「高木君、至急、携帯電話会社に確認を!」
「はい!」
携帯電話を手にし、高木は急ぎ足で会議室を後にした。

「とりあえず、蘭もコナンも無事であることは確認されたが、何なんだ、この違和感は……」
「ええ。ただ、新一君が弁護士だと犯人は思っていたということは」
「ああ、この誘拐は計画的だった可能性は低いってことだろうな……」
「高木君の報告にもよるが、工藤君の説明では、二人を誘拐した犯行現場は杯戸町のみどり公園付近であることは間違いないようだから、この付近で徹底的に聞き込み捜査をすることが先決だろう。君もそう思うだろ、工藤君? 「すみません。少し待って頂けますか?」

新一は目暮の返事を待たずに席を立ち窓辺に進んだ。独りその場に佇み窓の外を望みながら、いつもそうしているように右手を顎にあて、推理に集中する。

(パパ、ママ、イングリッシュ・ブレックファースト、反対に、信じて……)

「そういうことか……」

しばししの沈黙の後、独りごちると新一は自嘲的な笑みを浮かべた。

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