彼女の笑顔

「すみません、高木刑事。そこの角を曲がったところで、降ろしてもらえますか?」
「え? でも、家までまだかなり距離があるけど、本当にいいのかい?」
「はい。すぐ先のコンビニに寄っていきたいので……」

夜の街に消えゆく車のテールランプを見ながら、俺は盛大に溜め息を零した。

明日から定期試験が始まるからと、いつもより早く事件現場を後にしたのは、一刻も早くその場を離れたかったからで。
この夜、俺は柄にも無く、犯人の男に詰め寄った。我ながら、大人気なかったとは思う。けれど、男が何か言う度に、やけにムカついて、やりきれなくて―――――

事件自体はありがちなものだった。
とある中年の男が邪魔になったからと、自分の娘とさほど変わらない、20歳そこそこの若い愛人を、密会場所のホテルの一室で殺害したというもので。
ただ、犯人の男は新進気鋭の実業家で、最近ではテレビなどでも持て囃されてる男で、俺が駆けつけた時、どこで聞きつけたのか、ホテルの周りには既に、マスコミたちや野次馬たちが集まっていたほどだった。

男は数々の証拠を見せ付け、言い逃れ出来なくなってからもなお、悪態を付き続けていた。
そして、血まみれで横たわる彼女を見やり、薄気味悪く笑いながら言い放った。
「この女だって、所詮は俺の金目当てだったんだ」と。
そして、
「妻や娘ですらそうだ。どいつもこいつも俺のことを、表向きには囃し立てながら、腹の底では似非ら笑いを浮かべてやがったんだ」と。

男のセリフだって、今までにも何度と無く聞いたものだった。
確かに、男の周りには挙げへつらう者が多かったのかもしれない。けれど、被害者の彼女もそうだったとは、俺にはどうしても思えなった。彼女の携帯の中に残されていた男の隣で微笑む写真が、彼女の幸せを物語っていたから。

不意に蘭の笑顔が脳裏に浮かんだ。

「あなたが望まなかったからではないんですか?」
「……」
俺の言葉の意味がわからなかったのだろう。男は訝しげに俺を見返してきた。

「あなたが本当の笑顔を見たいと思わなかったからでは?」
「そんな奇麗事を言ったところで……」
男が何か言い訳しようとしたが、俺はあえて聞く耳を持たなかった。

「彼女と逢瀬を重ねている時、一度たりとも娘さんの顔を思い浮かべてみたことはありませんでしたか?」
「そ、それは……」
「人が大切な誰かの笑顔を望む時、何を思い、何をすべきかは限られていると思いますが?」

男のチープな自尊心が崩れたのか、それきり、彼は言葉を失った。

テールランプが完全に見えなくなり、俺はゆっくりと歩き出す。
別にコンビニに寄るつもりなどない。
ただ、寒空の中を歩きたかった。
頭上には、曇り空なのか、星一つ輝くことない、くすんだ闇夜が広がっていた。

身も心も冷え切った頃、我が家の前まで辿り着く。
門に手を書けたとき、不意に家の中に明かりが灯っていることに気付いた。
「蘭……?」

慌てて玄関を開けると、軽快な足音が近付いてきた。
「お帰りなさい、新一!」
「た、だいま……。って、どうして、蘭がこんな時間に……」
「新一に差し入れをと思ってね!」
「差し入れ?」
「うん!」
蘭はもったいぶる様に、ただ屈託無く笑った。

わけがわからぬままリビングに通され、俺はソファーに座らされる。
ややあって、キッチンに消えていた蘭が、トレーにティーサーバーとカップ、そして、パイらしきお菓子を載せて戻ってきた。

「今日ね、お父さんが麻雀仲間の人からリンゴをたくさん貰ってきてね。酸味が強いリンゴっていうから、ちょっと試しにショーソン・オウ・ポウムにしてみたの」
「明日から試験だって言うのに、オメー、随分と余裕だな?」
「新一と違って、余裕なんかないわよ! けどほら、ショーソン・オウ・ポウムなら普通のパイと違って、冷凍パイシートさえあれば短時間で作れるし、試験勉強の合間に片手で摘んで食べれるから、ちょうど良いかなって思って」
「なるほどね……」

蘭はこう言っているが、きっと、ホテルを抜け出すときの俺の様子を、テレビかなんかで見たのだろう。
平静を装ってはいたものの、蘭の目には、俺がいつになく心を乱していたのは、お見通しだったってところか。

蘭はいつだってそうだ。
俺がらしくなく落ち込んでいる時、苛ついている時、疲弊している時、蘭は笑顔で俺を出迎えてくれる。
直接会えない時には、明るい声を聞かせてくれる。
俺がそんな蘭の心遣いにどれだけ癒されているか、言葉に表しようもなかった。

「今夜は珍しく、甘いものが食べたいと思ってたんだよなぁ」
と、俺は蘭の手作りの小さなパイをひょいと摘み、口に頬張る。
口の中いっぱいに、リンゴの甘酸っぱさが広がった。

「味、どう?」
「ちょっと甘い、かな?」
「そっか……」と、蘭は首を傾げて、僅かに表情を曇らせる。

「嘘。上手いよ、コレ。紅茶との相性も抜群だし!」
「もう!」とムスッとしたように口を結ぶが、すぐに蘭は笑顔を取り戻した。

「良かった!」
と、ホッとしたように笑う蘭を、すっと抱きすくめる。
「ちょ、ちょっと、新一?」
「ありがとうな、蘭」
「う、うん……」
蘭の身体から無駄な力が抜けていく。

「ところで、蘭、おじさんは?」
「あ、うん、事務所でお父さん、酔い潰れていたから、その隙に家を抜け出してきたんだけど……」

上目使いで見つめてくる蘭と視線を合わせたその時、聞き覚えのあるメロディーが聞こえてくる。
蘭の携帯の着信音だった。
「起きちゃった、みたいだね」
「だな……」

せっかくのティータイムもそこそこに、蘭を家まで送り届けて。
別れ際、事務所からも自宅からも死角になる階段で、そっと触れるだけのキス―――――

「それじゃ、明日な」
「うん」

今度は家まで僅かな道のり。
先ほどと違って、いつまでも見も心も温かかい。
ふと空を見上げると、いつの間にか雲は晴れたようで、星の光が一つ二つと瞬いていた。

Influenced song : 彼女の笑顔 〜 『 Memphis 』   by 忌野清志郎

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前作の『 4 to 3 』と同時期なんですけど、当時、細野晴臣(H)と忌野清志郎(I)と坂本冬実(S)の3人からなるユニットの「HIS」が好きで、その流れで買ったのが、翌年発売されたこの『Memphis 』だったりします。
発売から15年以上経っているんですけど、今聞いても清志郎さんらしいユニークで、それでいてカッコ良さを楽しめるアルバムですね。
補足として。作中の「ショーソン・オウ・ポウム」とは、半月型の小型のアップルパイのことです。

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