2. 漂流

「あれほどまでの孤独感を、どうして……」

全ては何の目的も持たず流れ着いた街角で、不意に足を止め、道路を挟んだ向こうに見える幸せそうな恋人たちを見ながら言い放った、蘭の一言がきっかけだった。

それは、何気ない光景だった。
運転席から彼は彼女に優しく微笑みかけ、彼女は彼を真っ直ぐに見つめ返し、彼の手をしっかりと握っている。
年の頃は、彼の方が25歳前後で、彼女の方は20歳前後だろうか? 誰の目にも何ら問題の無いように見えるこの恋人たちから、蘭は一瞬にして彼女の深い孤独を感じたのだった。

新一もまた、蘭の視線の先に目をやり、蘭とは違う違和感を抱いた。
彼女に優しく微笑む彼のその笑顔の奥に、なぜか底知れぬ狂気めいたものを感じていた。

「本当にいいのか、ここで?」
「うん、今日中に手に入れたいものがいくつかあるから。それに、悟さん、私の買い物に付き合うの嫌いでしょ?」
「まあな……。それじゃあ、俺は行くけど、夜も遅いし、気をつけて帰れよ?」
「うん。今夜はありがとう」

走り去る車のテールランプが見えなくなるまで、彼女はその場に立ち尽くしていた。そして、どこか愁いを帯びた瞳で大きく一つ溜め息を零すと、踵を返し、ショッピングモールに足を踏み入れた。新一と蘭も、まるで引き寄せられるように、彼女の後を追った。

平日の閉店まで1時間を切ったショッピングモールは、併設されているシネコンの利用客を除けば、客は疎らにしかいなかった。
モール内を何店舗か梯子して、彼女は最上階にある書店に入る。メモを見ながら参考書らしき本を数冊手にし、レジへと向かおうとしたその時、不意に彼女の足が止まった。
「嘘……」
彼女の表情は驚きに満ちていた。

「杉本……、さん!?」
「覚えていて、くれたんだ……」

彼女の前に立つその男は安堵したように、そして、嬉しそうに微笑んだ。

会計を済ませ、どちらからともなく、2人は書店のさらに奥にあるラウンジへと向かった。アトリウムを望むように作られたラウンジには、上映時間を待っているのであろう、パンフレットを手にした数組の恋人たちの姿があり、2人もその光景に溶け込んでいった。

「まさか、こんなところで曽根さんと会えるなんてなあ」
「私も本当にビックリしました」
未だ興奮が冷めないのか、彼女は胸を押さえながら笑みを零した。

新一と蘭は、2人からは死角になっている大きな柱に寄りかかるようにして身を隠した。2人からは視線を逸らすように窓向こうの夜景を眺めつつも、2人の会話に意識を集中させていた。

「4年、いや、5年ぶりかな?」
「私が高1の時だから、そうですね。もう、そんなに経ってしまったんですね」
彼女はどこか哀しげに微笑み返す。

「わずか半年の間でしたけど、杉本さんには委員会の時、お世話になりっぱなしだったのに、ちゃんとお礼も出来ないまま、それっきりになってしまって……。ずっと気になっていたんです……」
「それは、俺も同じだよ。曽根さんのお蔭で高校最後の半年間は、本当に楽しく過ごせたから……」

『元カレ、なのかな?』
『どうだろう。それもなんか違う気がするんだよなあ……』

彼は最初から、どこか遠慮がちに、けれど、本当にいとおしそうに彼女を見つめていた。それはまるで、腫れ物に触れるかのように新一の目には映っていた。

「その後、彼とはどうなったの?」
遠慮がちに言った彼の言葉に、彼女は思わず目を見張る。そして、ややあって自嘲するように笑った。

「腐れ縁なんでしょうね……。あの頃ならまだどうにでもなったのかもしれないけど、今はもう、どう足掻いても後戻りできそうにない、かな……」
「うまく……、いってないの?」
「彼はそんなこと微塵も思ってないでしょうけど。自分のことしか考えていない人だから……」
そこまで言うと、彼女は深い哀しみを帯びた目で、アトリウムの天井越しに滲む月明かりを見つめた。

『あの2人は……』
『ああ。おそらく、かつて互いに想いを寄せ合っていたのに、2人とも一歩も前に踏み出せずにいたんだろう。その時既に彼女には今の彼がいたから。けれど、その想いはずっと失われることなく、今日まできてしまったってところじゃないのかな』
『彼女の心、今、凄く揺れ動いている。このまま大きなカルマに変わるかもしれない……』
『それだけで済むと良いんだけどな……』
『え!?』

「俺なんかが言うべきことじゃないかれしれないけど……、無理しない方が良いんじゃない? 実は……、さっき曽根さんの姿を見つけた時、声を掛けようかどうか、凄く迷ったんだ。何だか、凄く辛そうに見えて……」
「え?」
「でも、我慢できなくて、近付いていったんだけどね」
僅かに頬を染めて、彼は照れくさそうに微笑った。

上映時間が近付いたのだろう。ラウンジには彼女と彼を残して、いつの間にか、他の恋人たちは姿が消えていた。

「どうして? どうして、そんなに優しいの? あの頃もそうだった。いつだって杉本さんは私に……」
「曽根さん!?」
彼は思わず目を見張る。
彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

大きく深呼吸をして、彼は震える手でそっと彼女の頬を拭う。驚いて顔を僅かに上げた彼女にぎこちなく微笑みかけて、彼は彼女を強く抱きしめた。

「もう会うことは許されないんだって、ずっと言い聞かせてきた。でも、あの頃を思い出してはいつも後悔してた。本当は会いたかった。凄く、凄く会いたかったの!」
堰を切ったように言って、彼女は彼の胸の中で泣き崩れた。

彼女が落ち着きを取り戻すまで、彼はただ彼女の髪を優しく撫で続けた。

「こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけど、俺もこの5年間、忘れなきゃいけないと思いながらも、曽根さんのことを忘れられなかった……」
「嘘?」
「ホントだよ。――― ねえ、まだ、間に合うかな? こんな不甲斐ない俺でも曽根さんの力になれるかな?」
「え!?」
「今までロクに信じたことはなかったけど、今なら信じられる気がするんだ。運命って言葉を……」
「お気持ちは本当に嬉しいです。……でも、今ここで頼ってしまったら、きっと、杉本さんに迷惑をかけちゃう……」
「それでも構わない」
真っ直ぐに彼女の瞳を捉え、力強く言い放つと、彼はそっと触れるように唇を重ねた。

「ゴメン……」
「あ、ううん……」
困惑したような彼女の表情に、彼は慌てて手を放す。彼はバツの悪そうに苦笑し、財布を取り出すと、中から一枚の名刺を彼女に差し出した。
「コレ、俺の携帯。いつでも掛けてくれていいから」
「うん……」
彼女はぎこちなく微笑むと、小さく頷いた。

人気も疎らなアトリウムに閉館時間が知らせる館内放送が響き渡る。

「今夜はもう遅いし、家まで送っていくよ」
「ううん。歩いても10分と掛からないし、一人でも大丈夫だから」
「嫌っていうなら無理強いはしないけど、時間も遅いし、その、お詫びというか……」
「――― じゃあ、家のすぐ近くまでお願いできますか?」
「もちろん、喜んで」

2人がベンチを立った。

『ねえ、どうする?』
『彼女のカルマをここで狩っても、何の解決にはならないからな……、っと、蘭、悪い』
『え?』
目を見張ったままの蘭に構わず、新一は蘭を自分の身で隠すように抱きしめる。
『ちょっと我慢してくれ』
『う、うん……』

新一と蘭の姿が目に入らなかったのか、2人は足早にラウンジを後にした。2人からかなりの距離が離れたのを確認して、新一は蘭を解放する。

「急に悪かったな」
「あ、ううん。それより……」
「追いかけてみるか?」
「うん」

彼女の言ったとおり、ショッピングモールから10分ほど歩いて、2人は足を止めた。

「そこの角を曲がったらすぐそこですから、もうここで……」
「そっか……。また、会えるかな?」
遠慮がちに尋ねられた彼の言葉に、彼女は微笑って小さく頷いた。

だが、次の瞬間、一瞬にして彼女の顔が青ざめる。
2人のすぐ横を一台の車が僅かに通り過ぎて停まった。

「どういうことだ、美和?」
車から降り立った男は怒声を張り上げ、彼女に問い質す。
彼女と彼は言葉を失い、驚きと困惑の表情を浮かべた。

「欲しいものがあるとかいってたが、まさか、男だったとはな」
男の言葉は怒気と皮肉に満ちたものだった。

「あの、何か勘違いしてるみたいですが、彼女と僕は高校の先輩後輩の間柄で、偶然、そこのショッピングモールで久しぶりに会ったから、夜も遅いし、こうして送ってきただけで……」
彼が必至に彼女を守ろうと弁明するものの、車の男はまるで耳を貸す様子は無かった。

「7年も付き合ってきてやったのに、今さら裏切るつもりか? 何の恨みがあって、俺の顔に泥を塗るつもりだ?」
男の声が次第に大きくなっていく。
「今さら、そんな男に乗り換えるつもりか?」

「よっぽど、その方が良いかもしれないわね……」
彼女の声は低く、震えていた。そして、その瞳には涙を湛えていた。

「もう、疲れた……」
「どういう意味だ、美和?」
「あなたの側にいるのに疲れたのよ。今もそう。あなたはいつだってまず自分。私のことだって、外側しか見ようとしていない……」
零れ落ちる涙を拭うことなく、彼女は言葉を続けた。

「所詮、あなたにとって私はアクセサリーでしかないのよ」
「何だって今さら、そんなことを!?」
「今さらなんかじゃないわ。今までにも何度も何度もシグナルを出してきたのに、気付かなかったのはあなたの方……」

男の目に次第に哀しみの色が帯びてくる。

「いつからそんな風に……」
「多分、5年以上前から……」
「だったら、何でもっと早く言ってくれなかったんだ?」
「言えるわけ無いじゃない。あの頃はまだ子供で、愛も恋も良くわかってなかったし、はっきりと自覚した時にはもう、あなたのご両親からも可愛がって頂いていて、引くに引けなくなっていた。それに、私の両親にも余計な心配を掛けたくなかったから……」

「ハハハッ、てっきり大人しそうなメス犬だと思っていたのに、まさか、ここにきて裏切られるとはな……」
男の声が酷く冷淡なものへと変わり、その身を僅かに沈めた。
彼は咄嗟に彼女を庇って前に出た。

『蘭、二人を頼む』
『うん』

男が拳を上げ、彼女に襲い掛かる。
「人をコケにしやがってぇ!!」

その場に耳慣れない金属音が響く渡る。いつの間にか、男の右手に鎖が巻き付いていた。

「一体、これは!?」
「僕たちは聖です。あなたのカルマを狩らせてもらいます」

目を見開いたままの男の額を、新一の鎖が貫く。次の瞬間、辺りに閃光が広がり、男がその場に倒れこんだ。

「どういうこと? 何が起きてるの?」
彼女は混乱に満ちた表情で力なく呟き、崩れ落ちる。彼もまた、目の前の到底信じ難い光景に、呆然と立ち尽くしていた。

「驚かせてしまって、ごめんなさいね」
不意に声を掛けられ、2人ははっと我に返った。
「あなたたち、何者?」
蘭は質問には答えず微笑むと、彼女と彼の額にそっと触れる。間もなくして、2人とも意識を失った。

「蘭、その2人からは、自分に対する自信の無さだけを取り除いてくれるか?」
「それだけで大丈夫なの?」
「ああ。後は2人の問題だ。自分たちで解決しなければ、いつまで経っても同じことの繰り返しだからな」
「そっか……」
「3人とも下手に記憶を操れない。操っても何の解決にならない。俺もあの男からは狂気の部分しか狩らなかった。全ては自分の意志で前に踏み出せるかどうかだから」
「そうだね……」
蘭は出来る限り優しく、2人の額に苦無を突き刺した。

新一と蘭はすぐに3人の記憶を操作し、彼女と彼は彼女の部屋に、男は彼の車に乗せ、男の自宅近くまで運んだ。そして、夜が明ける前にこの街から立ち去った。

新しく訪れた街の片隅で、新一と蘭は目覚めゆく街の様子を眺めていた。

「ねえ、どうしてあの時、私が彼女を見つけた時に、彼女のカルマを狩るだけで済まないって思ったの?」
「ああ、それは、蘭が彼女の孤独に気付いた時、俺はあの悟って男から、犯罪者特有の臭いみたいなものを感じたんだよ。だから、男の方を解決しないと、事が大きくなると思ってさ」

「やっぱり、新一は凄いね」
蘭はどこか寂しげに俯いた。

「いや、今回は間違いなく蘭の手柄だよ」
「え?」
「蘭が彼女に気付かなければ、俺も彼に気付かなかったからな」
新一は蘭の顔を見つめ、穏やかに微笑んだ。

「あの2人じゃないけど、蘭ももっと自信を持てよ」
「新一!?」
「もっと自分を信じても良いんじゃないか? 俺のパートナーを務めてるくらいなんだからさ」
言って、きょとんとしたままの蘭に新一は悪戯っぽく笑うと、まっすぐに蘭の視線を捉えた。

「俺は蘭のこと、信じてるよ」

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3話目にして、イレギュラーというか、ちょっと実験的に書いてみたんですけど、やけに重くなってしまいましたね(苦笑)。しかも、新蘭の描写が少ないこと、少ないこと・・・・・・(冷汗)。
次回からは間違いなくコメディの部分が強くなりますので。って、留意の気が変わらなければですが(苦笑)。

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