1. 動き始めた時間

西日が強く射し込むその窓を彼女は今日も開ける。
眼下には子どもたちのはしゃぐ姿。遠くから聞こえてくるのは酔いどれたちの歌声。
いつもと何ら変わり映えのしない光景……
路地裏で繰り広げられる光景の向こうに、彼女はまだ見ぬ世界を想っていた。

それはまだ、彼女が幼い頃のこと。
彼女が眠れないでいると、彼女の母はいつもその窓から見える景色について語り、そして、最後には決まってこう話してくれた。

『この窓から見えているのは、世界のほんの一部分だけ。この景色の向こうには、あなたの知らない世界があるの。そこに住む人たちとは言葉は通じないかもしれない。食べるものだって着るものだって違うかもしれない。でもね、どんなに遠く離れていたとしても、どんなに違う環境にあったとしても、みんな同じ空の下で生きているのよ』

いつの頃からかこの言葉は、彼女にとって大切なものとなっていた――――

数日後。

「それじゃあ、お父さん、行ってくるわね!」
「お、おう」

親友との約束の時間が迫り、彼女は足早に自宅を後にした。

彼女の名前は毛利蘭。
街の中心から少し離れたところにある古ぼけた安アパートに、父親と二人で暮らしている。 彼女の父の小五郎は、かつて警吏をしていたのだが、10年ほど前に突然辞めてしまった。その後、町の何でも屋のようなことを始めたのだが、仕事らしい仕事はそう多くなく、昼間から酒を飲むような日々が続いていた。そのため、蘭が家計の助けにと、小五郎の知人の雑貨屋で働くようになったのは2年前、蘭が15歳になる年のことだった。

この日の待ち合わせ場所は、街の中心部に位置する広場。この広場にある噴水は街のシンボルとなっていた。蘭が広場に駆けつけると既に、噴水の前に親友の姿があった。

「ゴメン、園子! だいぶ待たせちゃった?」
「全然、私もついさっき着いたところ。それに蘭、まだ約束の時間前よ。とはいえ、蘭が私より後に来るだなんて珍しいわね? もしかして、お父さんに反対されたとか?」
「ううん、ちょっとお父さんのお昼ごはんの支度に手間取っちゃって……」
「相変わらず、お父さん思いよね、蘭は」
「そうかな……」

蘭と親友の鈴木園子との出会いは1年程前、蘭の働く店に客として園子が来店したのがきっかけだった。その時の蘭の応対ぶりに好感を持った園子は、その後、何度となく店に通うようになる。同じ年齢だったこともあって、1年経った今では、お互いに気が置けない存在となっていた。

最近では、蘭の仕事が休みの日ともなると、街を南へ下り、城壁を越えて、郊外に広がる森に二人で出掛けることも多かった。この日の目的地も、その森を少し分け入ったところにある湖のほとりだった。全くといっていいほど人気のないそのほとりでは、季節の花が咲き乱れ、リスやウサギなどの野生動物の姿も数多く見ることができ、二人の一番のお気に入りの場所となっていた。

二人はそこで何をするでもない。お互いに持ち寄ったお菓子などを広げながら、ただおしゃべりをするだけ。
たったそれだけのことだが、二人にとって有意義で大切な時間となっていたのである。

この日もいつもと同じように楽しい時間を過ごし、春の色増す木漏れ日が斜めに強く射す頃、蘭と園子は湖を後にした。木々の枝葉によって遮られていた太陽の光が次第に強くなる。間もなく森を抜けようとする時、二人の身に思いもよらぬ事態が起こった。見るからに粗野な男たちが数人、蘭と園子を取り囲むようにして、二人に行く手を阻んだのである。

「こんなに綺麗なお嬢さんたちに、こんな場所でお会いできるとは、俺たちにも、ようやく幸運の女神とやらが微笑みかけてきたようだな」
その内の一人が不適な笑みを浮かべながら言った。彼らの手にはそれぞれナイフが握られ、鈍色の目は蘭と園子の姿をしっかりと捉えていた。二人は自らの血の気が失せてゆくのを感じていた。

「俺たち、今日食うものにも困ってるんだけど、どうにかしてもらえませんかね?」
彼らの目的が単なる金銭目当てだけじゃないことくらい、蘭も園子もわかっている。けれど、今の二人には、互いの身を寄せ合うことしかできなかった。

「何だ? 俺たちみたいな人間とは、話しもできないってか?」

明らかに強くなる語気。男たちの自制心が限界に近づいていた。
二人の耳に届くのは、遠くから聞こえてくる小鳥たちのさえずり。
自分たちもつい先ほどまで、あんなにも楽しい時間を過ごしていたというのに……
蘭と園子は恐怖のあまり抵抗することも忘れ、死をも覚悟していた。

その場に男たちの殺気が満ち、間もなく暴力だけが支配する時を迎えようとしていた。運命にその身を委ねるかのごとく、蘭と園子は互いの手を強く握り、その目を閉じる。二人の耳にはもう何も届かない。ただ、運命の時を待つだけ。不思議と先ほどまでの恐怖心は薄らいでいった。

それは、刹那のことだった。蘭と園子の間を一陣の風が吹き抜けたかと思うと、男たちの呻き声がその場に響き渡った。蘭と園子はさらに身を寄せ合い、恐る恐る目を開ける。二人の目に飛び込んできたものは、今しがたまで二人を取り囲んでいた男たちの、あまりにも無様な姿だった。そして、見ず知らずの、二人と同じ年頃と思われる男が一人――――
到底信じ難い光景に、蘭も園子も完全に言葉を失った。

「どこぞのお嬢さまがたった一人の侍女だけを連れて、こんな人気の無い森まで来れるとは、よっぽどこの国は平和らしいな?」
溜め息混じりで吐き捨てるように言われた言葉で、二人はようやく我に返った。

「ちょ、ちょっと、それ、どういう意味で言ってんのよ? あと、あんた、勘違いしてるみたいだけど、蘭と私との間に主従関係なんてないわよ。蘭は私の大切な親友なんだから!」
「園子、助けてもらった人にそんな言い方をしちゃ……」
「それはそれ、これはこれよ! だって」

「親友ねえ……、だとしたら、この国の身分制度もいよいよ終わりに近いってことか。治安の悪化に身分制度の崩壊、この国もいつの間にやら相当ヤバイことになってるみてーだな」
二人のやりとりなど我関せずといった様子で、その若者は足元に倒れている男たちの状態を一人ずつ確認していた。

「何よ! 失礼なことを言ったと思ったら、今度は無視するつもり?」
「そんな下らねえ話をしている暇があったら、さっさとこの場から離れろ! コイツら、今はこうしてくたばっているが、いずれは回復するんだし、それ以前に、まだこの近くにコイツらの他の仲間だっているかもしれない。俺だって二度も三度も人助けをするようなお人好しじゃねーし、だからと言って、今ここでコイツらの息の根を止めるつもりもない。私怨も無ければ、俺に何らかの権限があるわけでもないからな。普段、街中や貴族の私有地なんかで暮らしていると気付かないかもしれないが、この国の治安は急激に悪化している。まだ街中などは比較的安定しているけど、郊外はもう既に秩序が崩壊しつつあるんだ。悪いことは言わない。その身を大事に思うのなら、もう二度と、こんな人気の無い所には来るな。今日はたまたま俺の助けがあったから無事に済んだけど、次も助けが来るとは限らねーんだ。わかったら、全速力でこの場から立ち去れ!」
「あんたなんかに言われなくたって、こんな所、今すぐ立ち去るつもりです。行くわよ、蘭!」
「あ、うん……」

蘭の左手を取り、園子は急いでその場から離れようとした。最初は蘭もおとなしく従っていたが、十数メートル行った所で園子の手を払い、振り返った。
「本当に、本当にありがとうございました」
若者に向かって丁寧にお辞儀をすると、今度は蘭が園子の手を取り、その場を足早に後にした。

「まさか、な……」
二人の後姿が小さくなるまで若者はその場に立ち尽くしていた。

蘭と園子にとって、先ほどのあの若者の言葉は思いもよらぬものだった。今まで疑ったことなど無かったこの国の平和が崩れようとしている。無事に街まで戻った今も、二人の頭の中は混乱していた。

「一体、何なのよ、あれ! 何であんなに嫌味たっぷりな言い方なわけ? どうせ私は世間知らずの“お嬢さま”かもしれないけど、だからと言って、あんな言い方はされたくないわよ!」
「でも、園子、あの人の言ってたことは、間違ってるわけじゃないわ。園子はこの国の伝統ある貴族のお嬢さま、私はただの町の雑貨屋で働く娘。見ての通り、着るものだってまるで違う私たちが“親友”だと言っても信じる方が難しいと思う。私たちの子どもの頃には考えられなかったことでしょうし、今までだって、同じようなことは何度も言われてきたから……」
「そんなこと、私だってわかってる。ただ、私が気に入らないのは、あの時、私たちは覚悟を決めてて、そしたらあいつが知らないうちに、あの野蛮な男たちをやっつけていて、何が何だかわからないでいるところに、あんな含みのある言い方をされて、だから、お礼を言おうにも言えなくなって……」
「園子!?」
「あいつの言ってたことは、確かに正しいかもしれない。だけど、私は嫌い。今までにあんな斜に構えて陰険な人、見たことが無いわ!」
「私には、園子の言うような人には見えなかったけど……。ねえ、園子、あの人の目を覚えてる?」
「目?」
「そう、とっても綺麗な目をしていたの。今までに私はあんな目を持つ人を見たことが無いわ。どこまでも見通すことができそうで、それでいて、どこまでも澄み切った目を……」

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