2. 思い出の丘で

雲一つ無く晴れ渡ったこの日、彼の姿は城の最上部に位置する展望室にあった。
この国には旧来の貴族や司祭の城が数多く存在する。その中でも彼の住むこの城は、王都である米花の街を一望できる、特に見晴らしの良い場所に位置していた。

米花を王都に据える東都王国は、米花を取り囲むように、いくつかの衛星都市が広がるだけの小さな国であるが、国の東側に連なる山脈で産出される豊富な鉱物と、その鉱物を加工する高度な技術で、200年以上にも渡って太平の世が続いていた。

展望室の窓の向こうに広がる光景は、一見したところでは以前と何ら変わりが無い。けれど、彼の目には、平和を装う王都の影で、大きな変化を促す蠢動が見え隠れしていた。

「今日は街には行かず、おとなしく城の中にいたようね」
「またいつもの嫌味か?」
「あら、私はいつだって事実だけを言っているつもりですけど?」
「あ、そう。で、かの暴君殿の用件は?」
「また、そんな言い方を……。至急、執務室まで来るようにとのことですけど」
「また無茶な話でなければいいけどな……」

彼の名前は新一。
この国の中でも、特に歴史のある貴族の一人息子である。
ほんの数日前まで彼の姿はこの国には無かった。2年ほど前から遊学のためにこの国を離れていたのである。彼の遊学は彼の父の命令によるものであり、数日前の突然の帰国もまた、父の命令によるものであった。

辺り一面に激しくドアが閉まるけたたましい轟音が響き渡った。

「一体、何があったというの?」
長年新一に仕えてきた志保が驚くのも無理はない。新一が執務室の中にいた時間は決して長くはなかったのだが、執務室から出てきた新一は、それまでに誰にも見せたことが無いほどに興奮していた。

「今度は、今すぐこの城を出て行け! だとさ」
「何ですって?」
「ったく、あの男の考えてることは、ホント、わかんねえ! とりあえず、今日からオメーん所に世話になるから、よろしく頼む。どうやら、博士には事前に話が通っていたみたいだぜ」
「冗談でしょ? だって、私はそんな話、一言も聞いてないわよ?」
「文句があるなら、あの暴君や博士に言うんだな。とにかく、俺は今すぐ荷物をまとめてくるから」
「ちょ、ちょっと……」

志保の住む屋敷は、城からさほど遠くない静かな森の中にある。城とまでは呼べないものの充分すぎる広さの屋敷に、志保は遠縁になる博士と二人で暮らしていた。もちろん、彼には「阿笠」という姓があるのだが、志保を含め、誰もが博士と呼んでいた。彼は新一の子供の頃からの教育係で、新一の父の良き相談役でもあった。

この日、西の空が茜色に染まる頃、新一は城を後にした――――

数日後の早朝、新一は森を深く進んだところに広がる丘へと向かっていた。この丘からも、城の展望室と同様に、眼下に街を望むことが出来ることを思い出したのである。

細い獣道を進み、鬱蒼とした森を抜けると、視界は一気に広がった。
「ここは、あの頃のままだな」
優しい光が降り注ぐ草原には、春の訪れを待ち侘びていたかのような色とりどりの花が咲き乱れていた。懐かしい風に誘われるかのように、ゆっくりと草原を前に進む。

間もなくして、新一の足は止まった。
「まさか、本当に!?」
新一の目に、見覚えのある一人の少女の姿が映る。
風にそよぐ黒く長い髪と白いスカート。
一瞬、時が止まったかのような錯覚を覚え、胸に木洩れ日の温もりを感じるようだった。
新一は瞳を閉じ、大きく深呼吸をする。二人の立つ丘に、そよ風が抜ける音だけが広がっていた。

「確かあの時、二度と人気のない場所には近付くなと忠告しておいたはずだが?」
一瞬にして、その場の空気が変わった。

「ごめんなさい」
そう言って、彼女は振る向き様に深々と頭を下げる。彼女には、声の主がすぐにわかったのである。

「どうして、俺の忠告を無視した?」
「無視したつもりとか無くて……、ううん、むしろ素直に従うつもりでいたの。でも、どうしても、この丘から見える景色を最後に一目見ておきたくなって……、この丘は、私にとって大切な場所だから」
「大切な場所?」
「ええ。ここは、私が子供の頃に、お父さんとお母さんと私の3人で最後に来た場所なの。この丘で3人で過ごした十年前のあの日の夕方、お母さんはお城に上がってしまったから」
「お城って、もしかして、王宮か?」
「ええ。王妃様に仕えるためですもの」
「まさか、それっきり十年もお母さんと会っていないとか?」
「手紙のやり取りだけは今も続けているけど……。あの、勘違いしないでね。私は何も国王様や王妃様を恨んだりしたことは一度も無いんだから。だって、お母さんはとっても名誉あるお役目を頂いてるのよ。恨むなんて筋違いなことでしょう? でも、もしかしたら、お父さんは寂しい思いをしているのかもしれない……」
「それじゃあ、今はお父さんと二人暮らし?」
「ええ。それより、あなたこそどうしてここに?」
「蘭と同じようなものかもしれねーな。ガキの頃に一度来たこの場所のことをふと思い出して来たんだから」
「ちょ、ちょっと待って。どうして、あなたが私の名前を?」
「あの時、友達がそう呼んでいただろ? 確か、その友達の名前はソノコだっけ?」
「そうだけど……」
「あ、悪い、俺は新一。名前、まだ言っていなかったよな?」
「新一、さん?」
「ああ。この先、もう会うことは無いかもしれないけど一応は名乗っておくよ。一方的に知られてるっていうのは、あまり気分の良いものじゃないだろ? それより、もう気は済んだか?」
「え?」
「こんな人気の無いところに長居は禁物だから。ここでこうやって再び会ったのも何かの縁だ。今日のところは、俺が街まで送っていくから」
「ごめんなさい。あなたの忠告に従わなかったのに、一度ならずも二度までも助けてもらうようで……」
「気にするな。単なる気紛れなんだから」

蘭は大きく深呼吸をする。
そして、目に映るもの感じるもの全てを心に留めるかのように、今一度、辺りを見渡した。
「大丈夫、また来れるさ。いつか、きっと」
「うん……」

蘭は戸惑っていた。
初めて新一と会った時、どこか懐かしい感じがしていた。
そして、今も不思議と心を許している自分がいる。
新一はもう二度と会うことも無いかもしれないと言ったが、蘭には、新一とはきっとまた会える、そんな確信のようなものがあった。それは、今までに抱いたことのない感情だった。

「そろそろ、いいか?」
「……はい」

それは突然のことだった。
二人が草原を抜け、森の中へと入ろうという時、森がにわかに騒がしくなり、辺りの空気が一変した。
「飛んで火にいる夏の虫とは、正にこのことだな」
二人にも聞き覚えがある声、そして、その姿。
あの日、蘭と園子を襲ったあの男たちが二人を取り囲む。その人数は十二、三人。あの時に比べ、倍近くになっていた。

「そうか。あの時、俺たちに不意打ちを食らわせておいて、その勢いで女まで手懐けやがって。この優男の方が、よっぼど野蛮じゃねえのか?」
その場に男たちの嘲笑が響き渡った。

「そんなんじゃありません!」
「おい、相手にするな!」
「でも……」

「今日は、この前みたいにはいかねえ。たっぷりと借りは返してもらうからな」

絶体絶命の状況だった。
前回は男たちは新一の存在に全く無警戒だったから一人だけでも簡単に倒すことができたが、今回は完全に取り囲まれ、その上、人数も倍になっている。この状況では、蘭を守りながらの戦いは困難に思われた。
(腹を括るとするか。まずは蘭だけでも逃がさないと……)
絶望的な状況下でも、新一はどうにか打開策を見出そうとしていた。

「なあ、蘭。お前、足に自信はあるか?」
周りの男たちに聞こえないように、新一は小声で蘭に問い掛ける。
「え?」
「どうなんだ?」
「たぶん、普通の人よりは早いと思うけど」
「正面に道が見えるよな? あの道から左に真横に行くと細い獣道がある。その獣道をしばらく下って行けば、そこに一軒の屋敷があるから。そこは、俺が信用できる知り合いの屋敷で、事情を話せば、後のことはどうにでもしてくれる。俺が合図したら全力で走れ。こいつらは俺が何とか引き付けておくから」
「そんなの無理よ。だって」
「今はこの方法しかないんだ!」

「おいおい、さっきから何の相談だ? それとも、死ぬ前に愛の告白ってところか?」
相変わらず、男たちの不愉快な笑い声は止む気配が無かった。

「俺って、こう見えても昔から悪運だけは強いんだ。大丈夫、こんな所で死ぬつもりはねえ。だから、俺を信じろ! 必ずオメーを守ってやっから」
「お願い、一つだけ約束して! もし二人とも助かることができたら、もう一度、この丘に一緒に来るって」
「わかった。約束するよ」

この状況下で二人とも無事に難を逃れられる確率は限りなくゼロに近いことくらい、新一とてわかっている。けれども、今、蘭をこの場から助け出す可能性を少しでも高くしようと思えば、自らを犠牲にするしかない。持ち堪え続けさえすれば、蘭が屋敷まで逃れ、この状況が博士か志保に伝わり、自らが助かる可能性だって高くなるだろう。気休めにしかならないのだが、約束せずにはいられなかった。

「そろそろよろしいですか、ご両人さん?」
男たちの握る短剣に力が入る。
新一も蘭も既に覚悟を決めていた。

男たちが一斉に二人に飛び掛った。
新一は一人の男から短剣を奪うと、次々と男たちの足を切り付けてゆく。
「今だ、走れ!」

新一の声に、その場にいた誰もが蘭が逃げ出すだろうと思っていた。
だが、当の蘭は誰もが予想だにしない行動に出る。
「アアア……」
目に前にいた二人の男の足を鋭く蹴り払ったのだ。

またもや不意を打たれた男たちは、新一と蘭によって次々と倒されていった。

その後、新一は蘭の手を取り、全速力で森を駆け抜けた。
追っ手が来ないことを確認して、ようやく二人は足を止めた。

「ったく……、それだけ強いんだったら、どうしてあの時、手を出さなかったんだ?」
「だって、あの時は本当に怖くて、体が思うように全然動かなくって……。それまで実戦経験は一度もなかったから……」
「じゃあ、今日は何で? 今日の方が状況は悪かっただろ?」
「今日はだって、あなたがいたもの。あなたが側にいたから、あの時ほど怖いとは思わなかったし、それに、どうしても、諦めたくなかったから……」

そこまで言うと、蘭は全身の力が抜けたかのように新一の方に倒れ込み、そのまま彼の腕の中で意識を失った。

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