冬の気配を纏う冷え切った部屋に、窓越しの淡い月明かりが差し込む。規則正しく繰り返される蘭の寝息以外に音は無い。無垢な寝顔だと思う。それだけに、その目元に残る疲労の色が、新一の心を重くした。
今となっては新一と同じ部屋で眠ることに蘭は抵抗を示すことは無くなり、こうして、同じベッドで眠ることですらすんなりと受け入れている。それだけ信頼されていることを嬉しくは思うが、同時に、一人の男として複雑な思いを抱くのも仕方があるまい。蘭には決して悟られていないはずだが、新一はいまだにこの状況に慣れてはいない。ゆえに、なかなか寝付けずに、一人物思いに耽る時間が増えていた。
わずかに頬に掛かった一筋の髪をそっと指先で掬い、そのまま艶やかな長い髪に指を通す。微かにくすぐったそうな様子を見せたが、すぐに元の穏やかな寝顔へと戻る。
蘭は大きな孤独感を抱えている。これまでの境遇を考えれば当然のことだと思う。毎夜、新一の存在を確認してから眠りにつく彼女の側にいることで、その孤独感が少しでも薄らいでくれるのであれば、不慣れなこの状況も決して苦などとは思わない。巻き込んでしまったことへの、せめてもの罪滅ぼしの意味もあるのだから。
昼食の準備をしながら志保らと和やかに談笑する蘭の姿を確認し、新一は宿へ向かった。早苗にもう一日分の休みを請うためであった。
新一の元に高木が訪ねてきたのは、朝食を食べ終え、ひと段落が過ぎた頃だった。王城内の様子を報告するための訪問だった。
新一は高木を図書館に案内する。この教会内では、室内の会話が部屋の外に漏れる心配が一番無いのが図書館だった。
一通りの説明を受け、すぐさま新一が問う。
「今のところ、一番、発言権を持っているのは?」
「小田卿だと思われます」
「杯戸の? なるほど。まあ、そういうことだろうなぁ。王政に戻るにしろ、国民に主権が移るにしろ、一番ダメージを受けるのは、彼らのような地方の有力貴族だろうから」
そこまで言って、新一は苦笑する。
「それで、反対に、以前と比べてその存在感が薄らいだのは?」
「はい?」
予想外の問い掛けだったようで、高木は文字通り目を丸くした。しかしながら、すぐに我に返り、記憶を辿る。視線を何度か彷徨わせた後、その瞳に色が戻った。
「誰か個人が、というより、侯爵たちの多くが最近は特に何も意見していないようです」
「やはり、そのクラスか、それ以上に核があるってことか……」
新一はそのまま深い思考の波に身を委ねたように、高木の目には映った。
侯爵の上ともなると、公爵もしくは大公ということになる。単なる一軍の少尉にしかすぎない高木にしてみれば、特段の理由が無ければ、生涯に渡って挨拶以上の会話をすることもないであろう、高い地位に身を置く人たちだ。新一は彼らの中に現状の不穏な空気をもたらす核があるのだという。ある程度のことは覚悟していたつもりだったが、この先厄介な事態に巻き込まれるだろうことを思えば、二の足を踏んでしまいそうになる自分が心の内にいる。それでも、主である新一のために役に立てることがあるとするならば何でもやってやる!という強い気持ちを奮い立たせることは、そう難しいことではない。
「高木さん」
主に名を呼ばれ、高木は居ずまいを正した。
「面倒な役割をお願いしていますが、引き続き、城内の動向に細心の注意を払ってください」
「はい!」
「それと……」
新一の表情が不自然に緩む。
「佐藤さんにもよろしく!」
「え? な? はい!?」
あからさまに慌てる高木の姿に、新一は声を上げて笑った。
軍人には向かない男だと思う。人が良過ぎるのだ。だがしかし、その人の良さが今回のような役割の時には武器となる。警戒されることなく、いろいろな人に近づいていけるのだ。彼は情報収集においては、実に優秀な部下だった。
新一の表情が真剣なものへと変わる。
「近いうちに何らかの動きがあるはず。この膠着状態はそう長く持たない。とにかく、パワーバランスの変化には注意してください。特に不自然なまでに鳴りをひそめる人たちを」
「は! 確かに!」
真っすぐ向けられた視線に、今度は穏やかに微笑み、頷いた。
図書室を出ると、そこには不安の色を隠しきれない蘭が二人を待ち構えていた。高木は軽く一礼し、その場を足早に後にした。
「王城内の、王とその周辺に特に大きな変化はないそうだ」
蘭が問いただす前に新一が答える。
「本当に?」
「ああ。ここまで沈黙を続けているんだ。今となっては、国王をそう簡単にはどうこう出来るはずがない。まだ楽観的な状況だと言えるだろう」
蘭の瞳から涙が溢れるよりも先に、蘭の右手を取り、抱き竦める。蘭の泣き顔など見たくはなかった。
それから十日ほど経過して、事態は唐突に動くこととなった。市井への何の予告もなく、臨時議会が招集されたのだ。
その議会に市井の者の参加は当然のごとく許されていない。時の流れが逆戻りしたかのように、かつての身分高き限られた者だけに参加が許されていた。
その議会の翌朝、かつて蘭を紹介したカフェで、新一は待ち人である阿笠の姿を視線に捉え、手を上げた。
「無茶を言って悪かったな、博士!」
「なーに、新一君の頼みだからのぉ。多少の面倒事には慣れておるわい」
呼びつけられた側の阿笠は満面の笑みで応えた。
それは、前日の議会の最中のことだった。それまでの国民議会とは違い、今回は限られた人間しか議場に入れないため自身が潜り込む訳にもいかず、新一は阿笠を頼ることにして彼の屋敷を訪ねた。阿笠自身も議会には入れないのだが、彼の旧知の貴族仲間の何人かが議会の参加を許されていることを知っていたのだ。
今回の臨時議会の内容は、後日、国民に向けても発表されることにはなっていたのだが、新一には、その日まで待つ訳にはいかなかった。
「昨日は慌ただしくて聞けないままだったが、志保君や蘭さんも元気にしとるのか?」
「志保は変わり無い。蘭は、こういう状況だからなぁ……。まあ、よく持ち堪えているとは思うが」
新一の表情に憂いの色が表れる。
「そうじゃったのう……」
尋ねた阿笠もそれ以上は問わなかった。
昨夜の蘭の様子を新一は思い出す。
街の混乱に呼応するかのように宿への人の出入りは激しく、多忙であったのも確かではあるのだが、蘭の疲労の色の濃さは、それだけが理由ではなかった。
この日、阿笠と会い、議会の内容を聞きだすことは、蘭には伝えていない。蘭の求める情報が得られる確証が無かったからだ。
店内は盛況ではあったが、他愛のない話に花を咲かせる人ばかりで、かつてのように声高に演説をするような輩はいなかった。二人の元にコーヒーが運ばれてくるのを待って、喧騒の中に紛れるかのように新一は口を開いた。
「それで? 昨日の様子は?」
「おお、そうじゃった!」
阿笠は声のトーンを下げた。
「まず初めに、今回の混乱の責任を取る形で、司法総監が解任されたそうじゃ。そもそもが、大渡間監獄の襲撃から事態が動いたのだし、司教の暗殺や、一連の貴族の襲撃に関しても、治安を担っているのだから、責任は当然だろうという話じゃが……」
「司法総監ねぇ……」
新一の右手が顎に触れる。それは、新一が考え込む時の癖の一つだった。
「まずってことは、他にもいくつかあるってことだよな?」
「さすがは新一君じゃのう」
思わず破顔して、阿笠は一気に残りの内容について話を続けた。
先の国民議会での決定事項については、無効とまではいかないものの、当面の間は凍結する形にする。それに伴い、王政の復活を宣言しようとしたものの、当の国王がそれを拒否した。理由は、国民議会での決定、否認に関しては、同じく国民議会で判断されるべきことだし、何よりも国民への説明が何もなされていない。市井の者へ議会への参加を呼びかけた当の本人が、その提案を反故にするような真似はできないし、ましてや、国政の中心に当たり前のように座るなどということができるはずがない。自分に向けられた疑惑については、すべて否定するが、現状のような事態を招いた一端は自分にもあるとして、自らの意志で幽閉状態を続けるのだという。
説明を一通り聞き終え、新一はわずかに驚いた様子を見せたが、すぐに微苦笑し、盛大にため息を零した。
「あの方らしいな。それで、最近の離宮での、その陛下たちの様子は?」
「お元気そうではあるが、常に難しい顔をなされている、と聞いておる」
「そうか。それで、蘭のお母さんについては、何か聞いているか?」
「英理さんじゃの? 具体的な様子は聞いていないが、ずっと王妃に寄り添っているそうじゃ」
「そうか……」
新一は再びその右手を顎に添えた。
蘭は今頃、アパートを訪れているのだろう。せめて、少しでも小五郎と顔を合わすことができると良いのだが、おそらくそれも難しい。小五郎もまた、彼の家族を守るために奔走しているはずだ。
蘭の心の重荷を軽くする魔法の言葉は、今は持ち合わせていない。蘭の心からの笑顔を最後に見たのはいつだっただろうか?
「そうじゃった! 大事なことを忘れておった!」
阿笠が慌てて懐を漁る。手にしたものは封書だった。そのまま新一に手渡す。
「出掛けに届いたんじゃが、間に合って良かったわい」
宛名は阿笠となっていたが、封が開けられた様子はない。その伸びやかな筆跡に見覚えはあったが、念の為にと裏側に書かれた差出人の名を確認すると、そこにあったのは西国に住む親友が好んで使う変名だった。
あれから、おおよそ1か月が経つ。予想通りであることを願って、新一は封を開いた。
封入されていたのは、10枚程の便せんと宛名も差出人も無い、更なる封書だった。
書き手の人柄を表すかのような大らかな文字の羅列に、思わず苦笑する。書かれていたのは、鈴木家が無事に寝屋川に辿り着いたこと、責任を持ってその時まで保護すること、東都王国の内情を案じると同時に、必要とあらば、いつでもできる限りの助力をするという内容が簡潔に纏められていた。
期待していた内容に、ほっと安堵のため息が零れる。そんな新一の様子に、見守っていた阿笠の表情も緩んだ。
まだ便せんの枚数が残っていることを訝しく思いながら次を捲る。そこには見慣れない女文字が並んでいた。その書き出しで、書き手が鈴木園子だということはすぐにわかった。
内容は、新一への感謝の言葉と共に、自分たちの存在が更なる別の火種になる恐れがあるとはいえ、国を捨てるような形になってしまったことを詫びる内容が、園子の父である史郎の言葉として書かれていた。その後、園子の言葉として、蘭を必ず守って欲しいこと、その為には新一自身の身の安全をも願うと、彼女の強い思いが切々と綴られていた。
そして最後に、何も書かれていない封書は、園子から蘭へと宛てた手紙で、名前などを書くことで、何らかの不都合があってはいけないので、あえて何も書かなかった、とのことだった。
魔法の言葉は無いままであるが、思いがけず、魔法のアイテムを手に出来たのかもしれないと新一は思った。それが自分に拠るものでないことを苦々しくは思うが、今は自分の矜持など必要ではない。
新一は手紙を封に戻し、視線を窓の向こうに移すと、一つ大きく深呼吸をした。
「なあ、博士、これから俺が言うことをそのまま父さんに伝えて欲しいんだが……」
いつに無い新一の物言いに、阿笠は不信を覚えずにはいられなかった。
言葉そのものも、いつもの新一らしくないのだが、それ以上に何か頼みごとをする時には、彼は必ず人の目を見て言うはずの彼の視線はおろか、その顔すらも窓の向こうの大通りに向けられたままだった。
阿笠は混乱に陥ることとなる。新一から発せられたその言葉によって。
「亡霊は、亡霊らしく……」